なぜ三鷹に住むことになったのか思い出せない。
吉祥寺に歩いて行けたからだろう。
井の頭公園から駅に向かうと、駅の東方一番目の「あかずの踏切」があった。運良く通り抜けると北口商店街の東端に達する。
成蹊学園に通ったことのある年配者なら覚えているかもしれない。かつてその東端近くにレトロな飴屋があった。床は土間、照明は電球。壁一面に飴を入れたガラス瓶が並んでいた。
見事に店中飴なのだ。四十年近い昔でも、もうすでに和菓子産業は衰退していた。
とても愛想の良い老夫婦がやっていたのだが、
「今どき飴などなめる子供なんているものか・・・」
と、少し不安な気分になった。
私は何度となく店内の様子をうかがい、また時には買ってみたりもした。
どうもお客は子供達ではなく老人(おとしより)がほとんどのようだった。
ある日私は店主と顧客の交わす雑談を聴くことになった。そして氷解する思いとなったのだ。その場で売買されていた「飴」は商品では無く「思い出」だったのである。
客は愛に満ち甘美だった子供時代の記憶を再び味わうためにその店を訪れるのだった。
それゆえに飴屋は・・・先細りの商いとなろうとも・・・店を開き続けるしかない。
いつまでも変わらぬ品質の飴を備え置いて・・・。
私はなんだかうらやましい職業に思えた。
実はその飴屋、私の母方の遠い親類だった。
庇護を求められる間柄ではないが、都心に一番近い縁者として、私は心を落ち着かせるためにそこを訪ねたのだった。