明治二○年の昔に書かれたこの作品が、その後の軍国主義的膨張と大陸侵略、そして遥かに平和憲法と戦後民主主義まで、近代日本の全地平を照射し抜き、さらに現代日本の外交防衛問題にまで生々しく迫って来るのを直感して、読者は衝撃と戦慄を覚える。国際環境は一変し、ここでの情勢分析は歴史教科書の情景となったが、われわれが「世界の中での日本の針路選択」を考えようとするとき、議論の型は基本的にこの『経綸問答』と同一のものへと収斂されてゆく。そしてこの国では、一国の針路決定の選択は、常に「現実主義(リアリズム)」の御旗の下、眼前のパワ−ポリティックスへの順応の路線が立場的優勢を獲得し、戦争を知らない平和主義は「理想主義」として空しく浮き上がる運命となる。

一九七七年に書かれた『近代日本の知識人』と『日本思想史における問答体の系譜』において詳しく取り上げられており、丸山真男の近代日本知識人論において重要な位置を占める(丸山真男集第十巻)。しかし私の感想は、『日本思想史における問答体の系譜』での軽快な思想史的整理(兆民の成熟した醒めた政治意識への評価)とは若干異なったものである。紙背に映る兆民の表情はやや沈鬱であり、常識的な結論を置いて散会する三人に漂っているのは不吉な悲観主義の影である。十四年後に不遇の中で癌死する兆民、二十三年後に刑殺される弟子秋水の悲劇の予兆がすでにそこに見え隠れしている。なぜそれが「飲酒」での問答なのか。そこに着目すると、見方は自ずと丸山真男とは異なってくるだろう。
中江兆民
三酔人経綸問答
訳・校注
桑原武夫、島田虔次
岩波文庫
1965.3.16
500円

一九九二年五月の『岩波文庫の三冊』(丸山真男集第十五巻)に推薦の言葉が記されている。「トルストイの民話はどれもよいが、表題になっているものは、中学時代に受けた強烈な印象がいまも消えない。小賢しいきれ者が氾濫している現代の日本で再読、三読されるべき古典である。国際社会の問題についても、まさに今日的な洞察がここにある(151頁)」。丸山真男がここで「国際社会の問題についても」と言っているのは、時期的に、フセイン・イラクがクウェ−トを侵略した湾岸戦争と、当時激論された日本の安全保障と国際貢献のあり方の問題を指しているのではないかと思われる。

私の読み方では、インド王に滅ぼされて国を奪われる長兄セミョ−ンの兵隊の王国の話は、軍国主義と海外侵略の極みで対米戦争に敗北して壊滅した戦前日本の失敗の暗喩であり、市場経済と国家経営の齟齬の果てに自己破綻する次兄タラ−スの金貨の王国の話は、バブル経済が崩壊して平成大不況へと沈没した戦後日本の失敗の寓話である。両王国の繁栄と失敗とも、悪魔の魔術とばかの善意の二つが介在している。それにしても、このトルストイの「ばか」あるいは「ばかの国」(=手にたこのある者の国)をどう読むかは、現在ではきわめて難解な知的問題であるに違いない。それはポストモダン現代日本が、経済学の言う「貧乏人」が消滅した社会であると同時に、トルストイの言う「ばか」範疇が絶滅した社会であるからである。この問題はポピュリズム論と絡めて、いずれ詳細に検討を加えたい。文庫本で僅か五○頁の民話だが、軽快なテンポで話の展開が語られた後で、読者は自分の生きている「現代」を深く重く考えさせられる。トルストイは偉大である。
イワンのばか
トルストイ民話集
岩波文庫
1932.9.25
460円

『平家物語』巻九から巻十一にかけてのクライマックス部分を題材にした木下順二の歴史戯曲。先頃(99年2月)新国立劇場で二○年ぶりに第二期公演が上演され、その興行に合わせるようにして岩波文庫が出された。一の谷から屋島、壇ノ浦へと至る平家滅亡のドラマが、悲劇の知将平知盛と影身内侍との幻想的な愛、そして義経主従と梶原景時との葛藤などを軸に雄渾に描かれてゆく。影身が民部重能に殺されるまでの第一幕は、シェイクスピアの『アントニ−とクレオパトラ』や、司馬遷『史記』の項羽と虞美人の件(くだり)を思わせる。丸山真男の『「子午線の祀り」を語る』(丸山真男集第十五巻所収)の評論が素晴らしく、巫女影身の劇作上の位置づけや登場人物の政治的意味配置が縦横に語られて興味深い。

余談だが、私は関門海峡を往来する船を見るのが好きで、これまで何度となく足を運んだ。お台場や晴海や観音崎でも多少の雰囲気は楽しめるが、やはり船を眺めるポイントとしては壇ノ浦がよい。海峡に佇んで左手(東側)を見ていると、波間に白旗赤旗がはためいて、義経や知盛たちの鬨の声が上がる気配を感じ、また、ふと右手(西側)を振り向くと、今度は下関港の向こうから晋作や征一郎が舳先に立ってこちら(長府方面)へ向かって進んで来るような錯覚に陥る。次は木下順二が夜の天空ド−ムを仰いだ門司側から海峡を望んでみたい。
子午線の祀り
木下順二
岩波文庫
1999.1.18
600円

ロマン・ロランによるフランス革命史劇。モチ−フもシチュエ−ションも『神々は渇く』とよく類似した小編である。丸山真男は、一九六七年の日高六郎との対談『読書の姿勢 − 岩波文庫の歴史と今 −』において『獅子座の流星群』と共にこの一冊を推薦している(丸山真男座談7 137ペ-ジ)。また一九四九年の『政治学入門』においても、革命心理の考察について貴重な示唆を与えるものとして紹介している(丸山真男集四 254ペ-ジ)。

クライマックスである第九景のジェロ−ムとカルノ−との緊迫した一言一句のなかに、「理想と解放への歴史的進行」と「渦中に生きる個人の内面と理性」の矛盾が凝縮して表現されている。すなわち「権力と人間」、「歴史的普遍性と人間の生」のテ−マを考える上で典型的な状況場面が設定され、またロマン・ロランらしい力強く気高い人間の生き方が導かれている。読みながら、ロシア革命におけるブハ−リン逮捕の情景が頭を過った。

ダントン処刑への賛同をジェロ−ムに迫るカルノ−が、最後にジェロ−ムを救うためにそっと旅券を手渡す場面や、ジェロ−ムの妻ソフィ−が、指名手配のジロンド党員の若い愛人ヴァレ−との逃避行を潔しとせず、あっさり自分の旅券を燃やす展開は、いかにもロマン・ロランらしいヒュ−マニズムを思わせる。アナト−ル・フランスならば、或いはソフィ−を生かす方向で処理したのではないだろうか。近代的範型としての「男と女」の問題をも考えさせられる。そこからあまりにも遠く離れた現実のなかで溜息をつきながら。
愛と死との戯れ
ロマン・ロラン
岩波文庫
1927.10.10
400円

中学校一年生のコペル君と叔父さんとの間のやりとりとコペル君の友人関係をめぐる諸事件を通して、「どう生きるか」、すなわち人間が生きる上で身につけてゆくべき社会認識と倫理のあり方が示されている。私が小学校を卒業したとき、担任の先生が贈ってくれた書物がポプラ社の「君たちはどう生きるか」であった。そのぐらいの年齢でこの書物を読んだ(読まされた)経験を持つ人は多いはずである。あらためて読み直して万感の思いを持つ。近代主義と戦後民主主義の理想。基礎概念としての生産関係論。英雄ナポレオンとアレクサンダ−。ヒュ−マニズム的な正義感が生きていた当時の教室空間。それが死に絶え、そして子どもも死んでゆく現代のいじめ。

吉野源三郎への追悼文として雑誌『世界』(一九八一年八月号)に掲載された、丸山真男の『「君たちはどう生きるか」をめぐる回想』が解説として巻末に収められている。胸に迫ってくるあまりに感動的な文章に、瞼の内側が熱くなるのを抑えられない。日本の哲学が、こういう純粋で力のある「原型」へと帰ることを、一日も早くと希望してやまない。子どもたちの生命のためにも。
君たちはどう生きるか
吉野源三郎
岩波文庫
1982,11,16
602円

『みすず 1996.10』における追悼文の中で三谷太一郎が次のように書いている。

後にも先にも教授と学生とのあれほど高い一体感を私は体験したことがない。最後の講義が終わったとき、先生は聴講者に贈ることばとしてベ−ト−ヴェンのことばをドイツ語で板書された。それは先生が愛読されたロマン・ロランの『ベ−ト−ヴェンの生涯』に出てくるベ−ト−ヴェンのことばであった。私の記憶では先生は「力の限り善き事を為せ。 何ものにもまして自由を愛せよ。 たとえ王座のきざはしにあるとも、絶えて真理を忘れるな」と訳された。(67-68ペ-ジ)

丸山真男集第九巻に所収されている一九六六年の小論『ロマン・ロランと私の出会い』では、「私がはじめてロランを読んだのは、高等学校の時だったと思いますが、やはり「ベ−ト−ヴェンの生涯」ですね。あれはただの伝記じゃない。絶望とニヒリズムをつきぬけた人間性への賛歌に非常に感動しました。」(347ー348ペ-ジ)とある。
ベ−ト−ヴェンの生涯
ロマン・ロラン
岩波文庫
1938,11,15
398円

一九四九年の『政治学入門』と一九五○年の『歴史と伝記』(いずれも『戦中と戦後の間』所収)において、このフランス革命を舞台にしたA.フランスの戯曲が政治学の参考書として丸山真男によって推薦されている。この時期は、丸山真男が最も精力的に日本の政治学の学問的確立、すなわち、いわゆる「夜店」の出店に精根を傾けていた時期であり、後に「現代政治の思想と行動」の第三部に纏められる論文は、ほとんどこの時期に書かれている。年齢的・肉体的にも三十代後半の最も生産力に満ち溢れた時期であり、その文章の構想は新鮮かつ豊饒で、切れ味は鋭く、そして筆の運びは軽やかである。

『神々は渇く』は、いわゆる「政治と人間」あるいは「革命と人間」の典型像をあらわす、まさに教科書的という表現が相応しい文学作品であると言えるだろう。映画『ダントン』の鑑賞と併せて読まれることをお薦めしたい。
神々は渇く
アナト−ル・フランス
岩波文庫
1977,5,16
699円

一九六○年の『学生にすすめたい本』(朝日新聞社、丸山真男集十六巻所収)と一九九二年の『岩波文庫の百冊』(同十五巻所収)において推薦されている。

「岩波文庫本は故河野輿一先生がポ−ランド語から直接訳されたもので、おそらく翻訳史上にも残る労作である。題名がむつかしく、また文庫で三冊という長さに尻込みするむきもあろうが、とにかく面白いという点でこれほど面白い小説はすくない。だまされたと思って読んでごらん、と青年諸君にすすめる。」(第十五巻 151ページ)とある。

迫害を逃れアッピア街道を南下するペテロの前に、その道を逆方向に歩いてゆく師イエスの姿があらわれる。「クオヴァディス、クオヴァディス、ドミナ」(主よ、何処へ ?)。尋ねるペテロにイエスは答える。「ロマナ」。蕭然と決意したペテロは踵を返し、そして殉教のロ−マへと戻って行く。なぜキリスト教が世界宗教として勝利することができたのか、この小説は教えてくれる。
クォ・ヴァディス
シェンキェヴィチ
岩波文庫

一九四六年『超国家主義の論理と心理』の直後に、帝国大学新聞に書かれた『何を読むべきか』(『戦中と戦後の間』所収)の中に次のような推薦の辞がある。丸山真男は生涯多くの「読書のすすめ」を残しているが、その初めての「読書のすすめ」がウェ−バ−のこの書物であった。

学生諸君の読書の一般的な指針として、私の経験からいえば、平凡な事の様ですが、学生の間でなければなかなか読む暇とエネルギ−のない様な相当大部の「名著」を一つでいいから徹底的に精読することをお勧めします。(中略)しかし例えば最近再刊されたものでも、マックス・ウェ−バ−の『社会科学と価値判断の諸問題』や『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などは、社会科学の「主食」中の主食で、よく租借すれば全文悉く栄養分になります。(中略)上の書などはその意味で、専門以外の人にも学問の厳粛さをまざまざと示してくれます。現下の世界的な問題であるマルクシズムにしても、私の考えではマックス・ウェ−バ−と対決することなくしては少なくとも学問的には一歩も前進出来ぬと思います(丸山真男集三巻37ペ-ジ)。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
マックス・ウェ−バ−
岩波文庫 新版
1989,1,17
700円