3.旅行中のトラブル

 HMVは高度な医療技術に支えられた患者さんの生活の質の向上への取り組みと考えることができます.つまり,この治療法の成功には,患者さんの状態の自覚と生活充実の意思があり,確かな医療技術が存在し,それを使いこなし協力する人々のチームワークが不可欠であると考えます.これら3つの前提の1つでも不確実になった場合には,患者さんの生命をも脅かすこと(事故)が起こる可能性があります.HMVを受けている患者さんの航空機旅行は,まさにこれらの前提が実際に機能しているかを試される機会となります.つまり旅行によって患者さんの生活が充実するのみならず,帰宅後のこの治療がさらに確固としたものになることが期待されます.ここではHMVを受けている患者さんが飛行機を利用した旅行を計画し実現するために必要な考え方を示し,具体的なトラブルの実際を書いてみます.
 その考え方とは,フェイルセーフの概念を全員が共有することです.この概念は,機械を操作する人の失敗や機械は故障すること(フェイル)を前提に安全対策(セーフ)を立てる必要があるということを提起しています.たとえば旅行中に患者さんのサポートを行う人全員が人工呼吸器,車椅子,周辺機器などの操作を始めとしたこの治療法の施行についてのノウハウを理解しておくことが望ましいと思います.なぜなら一人による操作上の失敗は,事故にならないようにサポートする全員でカバーしなければならないし,旅行中には様々な理由で家族の方など,実際に患者介護を中心的に行っている方の一時的不在が起こりうるからです.また精密機械である人工呼吸器は,機械である以上故障は起こることは避けられず,万が一の故障時の対策は不可欠です.具体的には主治医への連絡と指示による行動,レスバック(アンビューバッグ)などによる用手人工呼吸による緊急処置や代替器の配備などは確実に施行できることが要求されます.また宿泊先の停電対策も重要になります.精密機械ですので,携帯電話などの他の電子機器との干渉や移動時の落下による破損や水に濡れることによる故障などのトラブルも予想されます.もちろん旅行先での交通事情や天候などにより日程の変更を余儀なくされることもあります.私たち日本人は,こういったトラブルが起きることを前提にした考え方を「せっかくの旅行なのに縁起でもない.」と嫌う傾向にありますが,患者さんの命を守り楽しい旅行にするためには合理的な考え方を旅行者全員で共有することが必要です.

 トラブルの実際 
@人に関係したトラブル
 まず旅行計画が,現在の患者の状態にて安全に行うことができるかを考えましょう.様々な筋ジストロフィー患者さんの航空機旅行の経験(主に外国旅行)が報告されていますが,医療関係者の同行が必要であったケースもあります.既に述べられているように,航空会社より診断書の提出を求められたり,医療施設への紹介状を貰ったりするためにも主治医と相談することは最初に行うべきです.
 旅行中の患者本人の身体的な問題は,家庭で起こった時の対応としてこの冊子の緊急時対応(p〜p),身体に異常が現われた時の対応(p〜p)に書かれている内容が,移動中や宿舎で起こった場合に行うことできることを確認して下さい.吸引器も電気で作動します.停電や故障に備えて,手動式や足踏み式吸引器の用意が望ましいと思います.旅行計画を中断して医療的対応を受ける時には,国内であれば健康保険証主治医からの紹介状(人工呼吸療法と筋ジストロフィー医療の知識のある医師への紹介)による対応が可能ですが,国外では医療費が非常に高価であることも多く旅行前に保険に入っておくことは必要と思います.入院治療になれば,当地での担当医の判断による治療と帰国許可が優先されます.旅行同行者全員の計画の大幅な変更を覚悟(現地でサポートする人の確保も含めて)しておかねばなりません.また忘れがちなのは食事(宿泊先,観光先,機内食など)・トイレ・風呂・旅先の気温を含めた天候の変化に対する配慮があります.特に食事は旅先での楽しみの一つでもあり大切にしたいものです.パンツタイプの紙おむつなどを使用するときには,外国では入手が困難なことがあるため予備を用意したほうが安心です.
 移動手段としてのバス,列車,飛行機内などの座席の確保は重要です.長時間の座位による身体の痛みを防ぐために寝られることが望ましいですが,そのためには多くの座席の確保が必要となり運賃が高額となってしまいます.また呼吸器を含めた携行物品収納の場所や介助する方の席も必要となります.運賃の割引などを利用して交渉することが求められます.
 常用薬は機内持ち込み手荷物に入れ,海外旅行では旅行地の時差に合わせて服薬時間を調整します.旅行中にエレベーターの無い場所での階段昇降,飛行機のタラップやバスの昇降での介助は気をつけねばなりません.駅や空港などの利用施設職員が「おんぶ」を行って移動を助けてくれることもありますが,筋ジストロフィー患者さんは介助者の肩を掴んでいることが困難ですので,後方転落防止のためにもう一人後ろで介助して貰うことをお願いした方が安全です.また車椅子での石畳走行は,振動のため苦痛なこともあります.家庭以外の場所での生活は慣れていないため疲労が大きいのは当然です.そのため旅行計画は,できるだけ余裕を持って作りたいものです.
 携行物品の数が多くなるため,移動の際に忘れ物をしたり,必要物品の収納場所が不明になり慌てることがよくあります.それぞれの荷物に内容を示すタグをつけ分かりやすくします.

A機械のトラブル
 まず人工呼吸器と周辺機器の機内への持ち込みが問題になります.呼吸器の種類,バッテリー,機内電源を使う許可とAC/DCコンバーターという機器,吸入・吸引器,各種モニターなど具体的な商品名を上げて航空会社と交渉しなければなりません.未だ会社毎に許可基準が違う場合が多く「この航空会社の飛行機には,この商品は持ち込めるのか.」といった具体的で詳細な交渉が必要です.人工呼吸器のレンタル会社に間に入ってもらって交渉するのが良いでしょう.旅先でのバックアップのための現地営業所や代理店の紹介もしてくれます.最近では筋ジストロフィー患者さんの旅行サポートの経験も豊富な旅行代理店にお願いすることもできます.
 電動車椅子は,空港で荷物として預けるときにバッテリー接続コードをはずしたりしなければならず,分解・組み立てに時間がかかります.このための絶縁テープや工具などの用意が必要になります.
 人工呼吸器それ自体のトラブル対策は,日常の在宅での対応と変りありません.逆に日常の対応が旅行中速やかにできるかを考えてください.旅行中に経験していないトラブルに見舞われたら大変です.あらかじめ予想できる範囲で対策をシミュレーションしておくことが重要です.このためには,インシデントという概念を理解してください.医療現場では患者に傷害を与えてしまう事故の以前に患者さんになんら傷害を与えないで未然に防げた事象(これをインシデントという)が約300倍も多く発生していることが知られています.つまりインシデントの段階できちんとした対応をとっていれば事故の多くは予防できるということです.そういった意味ではインシデントは,医療に関与する人全員の共通財産です.なぜなら知ることで自分たちの経験していないトラブルに対処できる用意ができ,結果として事故を防ぐことができ,より安全に快適に人工呼吸療法が行えるからです.したがってインシデントは公表していかねばなりませんが,残念ながら未だすべての現場で行われている訳ではありません.筋ジストロフィー病棟での人工呼吸療器の使用中に発生したトラブルについてまとめられています.これらのトラブルは筋ジストロフィー患者さんの人工呼吸療法を行っている病棟では共通です.したがってその中で発生率の高い呼吸圧が下がってアラームが鳴ったもの(低圧アラーム),逆に圧が上がりすぎて鳴ったもの(高圧アラーム)および呼吸器の作動停止について考えてみましょう.
 低圧アラームの原因は,蛇管(患者さんと人工呼吸器をつなぐ管)の亀裂や呼気弁破損などの呼吸回路の異常と呼吸器自体の故障でした.したがって低圧アラームが鳴ったときには,まず患者さんの様子をみて必要ならば代替器に換えるか,用手人工呼吸を行いながら回路の異常を見つけることが必要です.回路の交換により問題は解決します.鼻マスクを使用している場合には,マスクのずれ・破損などの確認をします.また移動中などに人工呼吸器のつまみに接触してしまい,本来の設定された呼吸が行われない場合も起こります.呼吸器のつまみの位置と設定条件をカードに記載して,呼吸器に付けておくことが必要です.呼吸器や回路全体像も合わせた写真を添えておくと便利です.高圧アラームの原因は,呼吸器自体の故障以外は痰により患者さんの喉(気道)が詰まった状態と痰の回路内への付着によるものが多いようです.湿度に気を付けて吸引などにより痰の排出を促すようにします.呼吸器の作動停止は,電源プラグ抜けやバッテリー不足(内蔵,外付けバッテリーとも時間的余裕をもって用意しなければならない),バッテリーと呼吸器をの断線が多くみられます.簡単な断線に対する処置を知っておきます.いずれにせよ,アラームが鳴った時や異常に気がついたときにはまず患者の訴えを聞き,胸の動きを見て患者さんの呼吸を確保しつつアラームの原因を探り対処する原則が大切です. 
 在宅人工呼吸療法は,それを行っている病院の医療レベルを映す鏡です.当然フェイルセーフやインシデントの考え方は周知徹底されており,院内でのその経験を生かした在宅療養指導が行われていなければなりません.当院においては,未だシステムとしての動きはありません.個人的な努力に依存しているのではなく,病院全体でこの治療法を通じて医療事故防止を行っていかねばなりません.患者の旅行希望に対する病院のサポート体制の有無は,その病院の医療レベルを明らかにすることに医療関係者は早く気付いて欲しいと思います.
 人工呼吸療法を行っている患者の航空機旅行中のトラブルについて書いてきました.「こんなに準備や介助がめんどうなら止めよう.」なんて考えないで下さい.在宅療養の中でも最高の医療技術に支えられた在宅人工呼吸療法患者の旅行による人生の輝きは,他の患者さんを含め関わる人々にとって喜びであり希望になります.
周到な用意とチームワークで行った旅行の経験は,これからの医療の方向性にも大きな影響を与えるように思います.
          (河原 仁志)

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