翁の文
富永仲基
(關儀一郎編纂『解説部 第二』 日本儒林叢書 東洋圖書刊行會 1929.9.25)
※ 〔 〕に節番号を付した。(*入力者注記)
※ 序の送り仮名、本文ルビはNDLデジタルコレクション公開本を参照した。
※ NDL本は、内藤湖南が複製し、湖南の跋と亀田次郎(吟風)の識語を合綴する。
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翁の文序(林師良)
序(全機居士)
翁之文序(伴礼玄幹)
序(伴〔富永〕仲基)
本文
跋(内藤湖南)
識語(亀田吟風)
翁の文序
過しころ伊加須利のみや(*坐摩宮)の邊に翁ありけり。其姓名はしらず。ある人のいへるをきけば、才ありかしこく、常に夜學を好て、ねよとの鐘はひゞくにも、机によこおれて(*丸くなって)、小夜ふくるも知らず、あかつきの雁の聲きくなり。文を友として隣の人さへしらずしもありしとかや。コある人には必ことばありと、富永の伴のなにがし、時雨ならでまた問ものもなき戸ぼそを折節に音信(*おとづれ)て、きける物がたりを書あつめ、題して翁の文と名づく。やつがれが家居軒ちかければ、みよとて示されけるを、所も渡邊(*ますほの薄の故事を伝えたという渡辺聖)の翁の文なれば、登連(*登蓮法師)がふるごともおもひ出られて、とりあへずみれば、誠に印度の教は、薪つきて消る火のことはり(*薪尽火滅)、月ならぬ指(*指月の譬)を拂ひ、聖のみちは、大本位育(*「中庸」に説く中和の道)の極にねざし、文國の文を嫌ひ、吾國の~のいにしへをあふぎ、後人の附會をしりぞけ、三輪川のCき唐衣のこと(*「発心集」等に伝える玄賓僧都の逸話)までもしれりける人ならでは、此文のおもむきは、えもいひけむやとおしはからるれ。めづらしき文なれ共、かんな(*仮字)に書つゞりたれば、人のなをざりに見過さむ事をおしくて、師良(*林師良)の老のくりごとに、みじかき筆してつたなく書添る事しかり。
延享改元(*一七四四)~無月の比
(序)
夫三教とは何の道ぞや、誠の道とは何の道ぞや。此翁何邊の事を觧してか、好肉上に瘡を剜る(*「無門関」)や。まことに道の不レ明、なんぞたゞ千百年のみならんや。明と不明と摠に烏有に屬す。しかるに二三の良友此翁を讃歎してやまず。又蛇足をそへられたるはなんぞや。余もとより翁の名もしらず形もみねば、何を讃歎すべきよしをしらず。唯吾友子仲(*富永仲基の字)の従上來不傳の妙道(*釈迦以来伝えられた不立文字の教え)をつぎて、人の爲に老婆心切なるをみるのみ。しからば子仲と翁と趣同じきや異なるや。ことならば、なんぞ翁にかたぬぎして、家の教にもなすべきといはんや。もし同じといはゞ、子仲に辜負す(*背く)べし。世人這裡におゐて一隻眼を具して、大黄の甘をかみ得ば、子仲をしること、おもひ半に過む。是を子仲の序といひ、これをおきなの序といふ。もし妙道をしらんとせば、天邊の月に問取せよ(*「碧巖録」)。
延享甲子(*延享元年)十月望
浪華全機居士 (*川井立牧)書
翁之文序
昔シ有リ二~儒佛一焉。各敷テ二其教ヲ一、以導キ二其昏墊(*苦シミ)一、使三皆有二依テ以テ昭明ニスルヿ一也。而シテ風移リ俗易リ、敦龎(*高く厚い)純固ニ、男女底シレ豫ヲ(*たのしみをいたし。「孟子」)、説クレ之ヲ者モ亦歎息シテ稱シレ之シ、史氏モ亦保シテレ之ヲ、而後世貌スルレ道ヲ者モ亦奬スレ之ヲ。至テレ今ニ故家收ノレ燼ヲ。無二賢不肖一、皆是レ依ル矣。今也知叟决起シテ、一タビ號ビ二乎斯ニ一。又將レ使ント三斯ノ民ヲ有二一變スルヿ一。不リキレ圖ラ言フノレ道ヲ之至リ二於斯ニ一也、出テ二於其類ニ一、拔キ二於其萃ニ一、古今道樞一ナラントハ也。今叟與二三教一、其意豈ニ異ナランヤ乎。予有テ二將父之勤一、未レ遑アラ二暇慮ニ一。不レ知ラ自レ今或ハ聞テ二知叟ノ之道ヲ一、而風移リ俗易リ、敦龎純固ニシテ、男女底シレ豫ヲ、説クレ之ヲ者モ亦共ニ嘆息シテ稱シレ之ヲ、史氏モ亦共ニ能ク張二大ニシテ斯ノ道ヲ一保スルヿレ之ヲ、若ク二三教ノ一然ルヤ乎否ヤ、可ンヤ二堅白ス一乎否ヤ。方テ二今ノ之世ニ一、鮮シ二貌スルレ道ヲ者一、而シテ貌與二不貌一、所レ不レ論ゼ也。吾觀ルニ二知叟之言ヲ一、天下必ズ有ラン二擧テ而奬スルレ之ヲ者一。一タビ聞ケバ二斯ノ業ヲ一、則使ン下斯ノ民也善敗自ラ明ニシテ、始・衷・終皆無ラ上レ愆。惟レ乃チ吾黨ノ之微言、有三誕ヒニ(*大に)稗二補スルヿ於天下ニ一者也。嗚呼、有レバ二斯民一、有二斯道一。由テ二今ノ之道ニ一、易フ二今ノ之俗ヲ一、亦タ何ノ難キノ之有ラン。其レ唯叟カ乎。獨リ於テ二斯道ニ一莫キレ有ルヿ二夭閼スル一而已。不レ知ラ在昔シ三教ノ之起ル、亦如クレ此ノ美ナルヤ乎否ヤ。惟レ三年春三月、郷人將下論二撰シ知叟ノ之言ヲ一、耀二明ニシテ之ヲ天下ニ一、以テ爲ント中斯ノ民ノ之紀ト上也。令ム二予ニ有一レ言。言ノ之諄〻タル、是レ予不才ナリ。雖ヘドモ二則チ不才ナリト一、今也於テ二斯道ニ一同フスル二宮ヲ一者ノハ、唯叟ト曁レ吾有ルカレ之レ也歟。
賀古 伴禮玄幹 撰
翁の文
(端書)
此文は、ある翁のかきたるものなりとて、朋友の本よりかして見せたる也。かゝる末の世とはいへど、かしこき翁もありけり。三教の道の外に、又誠の道といふことを、主張して説出たり。げに此言のまゝに従ひ行はむに、又何の過ちは、あるまじきものをと、仲基ははや此翁に肩ぬぎして思はるゝなり。翁の名はなにとかいふと問へど、しれずとて告ざれば、よしなし。古のいはゆる、隱居して言を放にするものの、その類なるべし。吾家の教ともなし、又人にも傳へむとて、始終みなかきうつしぬ。
元文三年(*一七三八)十一月
伴のなかもと寫す
〔一〕
今の世に、~儒佛の道を三教とて、天竺・漢・日本、三國ならべるものゝ樣におぼへ、或はこれを一致ともなし、或はこれを互に是非して爭ふことにもなせり。しかれども道の道といふべき道は、各別なるものにて、此三教の道は、皆誠の道にかなはざる道也としるべし。いかにとなれば、佛は天竺の衢、儒は漢の道、國ことなれば、日本の道にあらず。~は日本の道なれども、時ことなれば、今の世の道にあらず。國ことなりとて、時ことなりとて、道は道にあるべきなれども、道の道といふ言の本は、行はるゝより出たる言にて、行はれざる道は、誠の道にあらざれば、此三教の道は、皆今の世の日本に、行れざる道とはいふべきなり。
・右は第一節なり。
〔二〕
佛者の物ごと天竺をまなびて、己をも修め(*ママ)、人をも化度すれども、はや梵語をつかひて説法をもなし、人もこれを會淂したるためしはあらず。まして調度より家造にいたるまで、天竺に一つもたがはぬ樣にせんことは、おもひもよらず。天竺は偏袒(*肌脱ぎ)して合掌するを禮として、股膝なども露見するを端正なりとせり。されば經にも、踝膝露現、陰馬藏(*おんめざう。陰藏)とものせたり。人のかくれ(*陰部)のきたなきをも、あらはしてかくさゞるをよしとす。佛者は皆かゝることをも、はゞからずなすべきなり。
右は第二節なり。
雖二是我語一、於二餘方一不二C淨一、不レ行無レ過。雖レ非二我語一、於二餘方一C淨者、不レ得レ不レ行(*「五分律」)と説たれば、全く其國の風俗を變じて天竺を学べと、佛もをしゆるには非ず。然に日本の佛者の、諸事天竺をうつし学ばむとて、此國に不相應なることをのみ行ふものは、皆其道にもあたらぬことなり。翁はこれをにくみて、嘲弄をなしたるなり。
〔三〕
又漢にては、肉食を重とすれば、儒者は牛羊などを畜置て、常に料理すべきなり。その献立も、禮の内則にかきたるを、考へてなすべきなり。婚禮には親迎をなすべきなり。祭には、尸をおくべきなり。又その衣服にも、深衣(*しんい。儒者の着る服。)を用ひて、頭には章甫(*殷代の冠。儒者の冠とする。)などをきるべきなり。今の身には上下をきて、髪をなでつけにしたるは、漢の形にあらず。尤儒者は、唐音をつかひて、漢文字を用ゆべきなり。唐音にもさま〴〵あれば、周の代の魯國の音をまなぶべきなり。漢文字も品おほければ、古文・籀文・科斗(*蝌蚪。篆文)の文などを用ゆべきなり。
右は第三節也。
素(*基づく、従う)二夷狄一而行二夷狄一(*「中庸」)ともいひ、又禮は従レ俗ともいひ、又禹は袒入二裸國一(*「戦国策」)ともいへば、全く(*ママ)其國俗を変じて、漢の真似をせよと、儒者もいふにはあらず。然に、日本の儒者の、諸事漢の風俗に似せむとて、此國にうとき事のみ行ものは、又真の儒道にも當らぬ事也。
〔四〕
扨また日本のむかしは、人に向ひて手を拍ち四拜するを禮とし、枚手(*大嘗会の際などに供える器。柏の葉を重ねて作る。)とて柏の葉に飯をもりてくらひ、喪には歌をうたひ、泣しのび、喪を除きては、川へ出て祓をなしたり。~を學ぶ人は、ヶ樣の事ひとつ〳〵、昔にたがはぬやうに考へ行ふべき也。今の世に用ゆる金銀錢などいふ物も、本~代にはなきものなれば、~を學ぶ人は、これをもすてゝ、用ひざるをあたれりとす。又今の衣服も、呉服とて呉國より傳へたるなれば、これをも用ひざるをよしとす。又物いふにも、~代の古語をよく覺えて、父をかぞ、母をいろは、爾ををれ、衣服をしらは(*未詳)、蛇をはゝ(*未詳)、疾をあつしれる(*篤しる)など、物事みなことやうにいひて、又その名をも、なに彦・何姫の命と、皆ことやうに付べきなり。
右は第四節なり。
左を右にする事なかれ、右を左にする事なかれといへば、今の風俗を変じて、太古のやうにせよと、~道もいふにはあらず。然に今の~道の、諸事昔の事を手本として、あやしくことやうなることのみをするものは、又その道にも當らぬ事也。野々宮宰相公(*野宮定基か。『定基卿記』『黄白問答』等を著す。)の、今の~道は、皆~事にて、誠の~道にはあらずとの給しとぞ。誠に今の世の道は、皆~事・儒事・佛事の戲れごとのみにて、誠の~道・儒道・佛道にはあらざるなり。もし此おきなのふみと、又宰相公のことばなからましかば、仲基もこのこゝろは、つくまじきものとおもはる。
〔五〕
かくこれをいへば、嘲てきよくりごと(*未詳)する樣にも聞ゆれども、その道々を學ばむからは、みなかくあるべき事なりとする也。これをたとへていはゞ、五里十里へだてたる近き國所の風俗さへ、うつし習ふことはかたきものなるに、まして漢天竺のことを日本へまなばむとし、又五年十年すぎたるほどの近き事さへ、覺えたる人はすくなきものなるに、まして~代のことを今の世にならはんとするものは、皆甚だなるまじきことの、大におろかなる事どもなり。たとひそれを能學得て、露ほどもたがはずありとも、人の宜しかりとて、又今の世に會得すべきことにもあらず。されば此三教の道は、みな今の世の日本に行はるべき道の道にはあらず。行はれざる道は道にあらざれば、三教はみな誠の道に叶ざる道なりとしるべし。
右は第五節なり。
〔六〕
しからばその誠の道の、今の世の日本に行はるべき道はいかにとならば、唯物ごとそのあたりまへをつとめ、今日の業を本とし、心をすぐにし、身持をたゞしくし、物いひをしづめ、立ふるまひをつゝしみ、親あるものは、能これにつかふまつり、
翁の自注に云く、六向拜經を見るべし。專五倫のことをときたり。又儒者も是を重きところとなせり。又~令(*江戸時代に発見された神道書。偽)にも、此五種を載られたり。是誠の道は、三教の道にも、闕こと能はざるしるしなりとす。
君あるものは、よくこれに心をつくし、子あるものは、能これををしえ、臣あるものは、よくこれをおさめ、夫あるものは、能これに従ひ、妻あるものは、能これをひきひ、兄ある者は、能これをうやまひ、弟あるものはよく是を憐み、年よりたるものは、よく是をいとをしみ、幼なきものは能これを慈み、先祖のことを忘れず、一家のしたしみをおろかにせず、人と交りては、切なる誠をつくし、あしき遊びをなさず、すぐれたるをたつとび、愚なるをあなどらず、凡我身にあてゝ、あしきことを人になさず、するどに(*鋭に)かど〴〵しからず、ひがみて頑からず(*ママ)、迫りてせは〳〵しからず、怒どもそのほどをあやまらず、喜べどもその守りを失はず、樂むで淫るゝにいたらず、悲びて惑へるに至らず、ことたるも、ことたらぬも、皆我仕合よとそれに心をたり(*足り)、受まじきものは、塵にてもとらず、あたふべきに臨みては、國天下をも惜まず、衣食のよしあしも、我身のほどにしたがひ、奢らず、しはからず、盜まず、僞らず、色このみてほふれず(*放れず)、酒飲してみだれず、人に害なき者を殺さず、身の養をつゝしみ、あしき物くらはず、おほく物くらはず、
翁の自注に云く、瑜伽に壽未レ盡死、有二九種因縁一。一ニハ食過二度量一、二ニハ食二於不宜一、三ニハ不レ消復食など説たり。論語にも割不レ正不レ食、不レ時不レ食、不二多食一など説たり。是皆誠の道を窺へるもの也。
暇には己が身にuある藝を學び、かしこくならんことをつとめ、
翁の自注に云く、論語に行有二餘力一則以學レ文ともいひ、又律に爲レ知二差次會等一學レ書。新學比丘開レ学二筭法一ともいへり。是も亦誠の道を窺へるもの也。
今の文字をかき、今の言をつかひ、今の食物をくらひ、今の衣服を着、今の調度を用ひ、今の家にすみ、今のならはしに従ひ、今の掟を守、今の人に交り、もろ〳〵のあしきことをなさず、もろ〳〵のよき事を行ふを、誠の道ともいひ、又今の世の日本に行はるべき道ともいふなり。
右は第六節なり。
これらのことは、皆儒佛の書に説ふるしたる事どもにて、今更各別にいふべきにあらねども、今翁の新に我いひ出たることのやうに説なし、人に無用のことを捨て、直にその誠の道を指示したる、その志誠にたふとぶべし。
〔七〕
扨此誠の道といふものは、本天竺より來りたるにもあらず、漢より傳へたるにもあらず、又~代のむかしに始りて、今の世に習ふにもあらず、天よりくだりたるにもあらず、地より出たるにもあらず、只今日の人の上にて、かくすれば、人もこれをスび、己もこゝろよく、始終さはる所なふ、よくおさまりゆき、又かくせざれば、人もこれをにくみ、己もこゝろよからず、物ごとさはりがちに、とゞこほりのみおほくなりゆけば、かくせざればかなはざる、人のあたりまへより出來たる事にて、これを又人のわざとたばかりて、かりにつくり出たることにもあらず。されば今の世にうまれ出て、人と生るゝものは、たとひ三教を學ぶ人たりとも、此誠の道をすてゝ、一日もたゝん事かたかるべし。
右は第七節なり。
〔八〕
されば又此誠の道をすてゝ、別に何の道もつくり出がたきしるしには、釋迦も五戒をとき、十善をとき、貪瞋癡の三を三毒と名付、孝二養父母一、奉二事師長一を三の一につらね、諸惡莫作(*ママ)、衆善奉行、自淨ム二其意一、是諸佛の教とも説たり。孔子も孝弟忠恕を説、忠信篤敬をとき、知仁勇の三を三コと名付、懲レ忿、塞レ慾、改レ過、遷レ善とも説き、君子坦ニシテ蕩蕩、小人ハ長〳〵戚々とも説れたり。又~道の人も、C淨・質素・正直と説たり。是等は皆誠の道にも叶ひ、いたれることばの、ひがことにもあらぬ、似たる事共なりといふべし。されば三教を学ぶ人も、かくさへ心得て、ひが〳〵しくあやしく、ことやうなるわざをなさず、人の世にまじらひて、此世をすごしなば、すなはち誠の道を行ふ人なりともいふべし。
右は第八節也。
是にて翁も本意をいひあらはせり。全く三教の道をすてんとにはあらじ。只その誠の道を行はしめんとなり。
〔九〕
然れどもこゝに翁が説あり。おほよそ古より道をとき法をはじむるもの、必ずそのかこつけて祖とするところありて、我より先にたてたる者の上を出んとするが、その定りたるならはしにて、後の人は皆これをしらずして迷ふことをなせり。
右は第九節也。
〔十〕
釋迦の六佛を祖とし、然燈(*釈迦の過去世の仏)を思ひ出して、生死を離れよとすゝめられしは、それより先の外道どもの、天を祖として、これを因に修すれば升りて天に生るゝと説たる、其上を出たるものなり。それより先の外道共も、皆互にその上を出あひたるものにて、欝陀羅(*釈迦の師の一人。欝陀羅羅摩子)が非非想をときたるは、阿羅羅(*釈迦の師の一人。阿羅羅迦蘭)が無所有處の上を出たるものなり。その無所有處の説は、又それより先の識處の上を出たるもの也。其識處の説は、又それより先の空處或は自在天等をときたる、其上を出たるもの也。ヶ樣に段々とき出して、天をば三十二までに説のぼしたり。是はみな外道の事にて、同じ釋迦の佛法にも、文殊の徒が般若の大乘をつくりて、空をときたるは、迦葉の輩の阿含をつくりて有をときたる、その上を出たるものなり。普賢の徒の法華・深蜜(*解深密経)などを作り、不空實相をときて、それを成道四十餘年の後の説法にかごつけ(*ママ)たるは、又文殊の説の空の上を出たるものなり。其次に華嚴をつくりたるものゝ、成道二七日の説法にかごつけて、日輪のまづ諸大・山王を照すにたとへたるは、又これを成道の始にかごつけて、諸法の上を出たるものなり。其次に涅槃をつくりたるものゝ、涅槃一晝夜の説法にかごつけて、醍醐の牛乳より出るにたとへたるは、諸法を合せて其上を出たるものなり。又金剛薩埵の大日如來にかごつけて、法華を第八、華嚴を第九とたて、釋迦の説法を皆顯教を名付たるは、是は諸法をはなれて又其上の上を出たるもの也。又頓部の經の、一切煩惱、本來自離。一念不生、即是成佛などいひ、又禪宗に四十餘年所説の經卷は、みな不淨を拭ふ破れ紙などいひ出たるは、これは諸法を破りて、又其上の上を出たるものなり。是をしらずして、菩提留志(*菩提留支)は、釋迦の一音、色いろにきこえたるなりといひ、又天台は、釋迦の方便にて、一代の中に、説法が五度かはりたるといひ、又賢首(*賢首大師。法蔵)は、衆生の根機にしたがひて、其傳る所おの〳〵ことなりと心得られたるは、共に大なるとりぞこなひのひがみたる事どもなり。此始末をしらむとおもはゞ、出定(*出定後語)といふ文を見るべし。
右は第十節なり。
〔十一〕
又孔子の、堯舜を祖述し、文武を憲章して、王道を説出されたるは、是は其時分に、齊桓晉文のことをいひて、專ら五伯(*春秋五覇)の道を崇びたる、其上を出たるものなり。又墨子の同じく堯舜を崇びて、夏の道を主張せられたるは、是は又孔子の文武を憲章せられたる、その上を出たるものなり。扨又楊朱が帝道をいひて黄帝などを崇びたるは、又孔墨の説れたる王道の上を出たるものなり。許行が~農を説、莊列の輩の無懷・葛天、鴻荒(*太古)の世を説きたるは、又皆その上の上を出たるものなり。是等は皆異端のことにて、同じ孔子の道にも、儒分れて八となるとあれば、さま〴〵に孔子にかごつけて、皆その上を出あひたるものなり。告子(*ママ)が性無レ善、無二不善一と説たるは、世子(*文王世子か。)が性有レ善、有レ惡と説たる、その上を出たるものなり。又孟子が性善を説たるは、告子が性無レ善、無二不善一と説たる、その上を出たるもの也。又荀子が性惡を説たるは、又孟子が性善を説たる、その上をいでたるものなり。樂正子が孝經を作りて、曾子の問答にかごつけて、孝を主張して説たるは、又もろ〳〵の道をすてゝ、孝へおとしこめたるものなり。是をしらずして、宋儒は皆これを一なりと心得、近頃の仁斎は、孟子のみ孔子の血脉を得たるものにて、餘他の説は、皆邪説也といひ、又徂徠は、孔子の道はすぐに先王の道にて、子思・孟子などはこれに戻れりなどいひしは、皆大なる見ぞこなひの間違たる事どもなり。此始末をしらんと思はゞ、説蔽(*富永仲基の書。散佚。)といふ文をみるべし。
右は第十一節なり。
翁はかく説たれども、孔子の文武を憲章して王道を説れたるは、五伯の道の功利をのみ崇びて、事皆僞りに馳るを患へて也。わざと巧みてその上を出んとには非ざるべし。又釈迦の六佛を祖として、生死を離れよと説れたるも、それより先の外道共の皆眞實の道に非ざるを患へて也。わざと巧みて上を出たるには非ざるべし。もしも又翁の言のごとく、わざと巧みてその上を出たるものならば、釈迦・孔子とても皆とるにたらざるものといふべし。
〔十二〕
扨又~道とても、みな中古の人共が~代の昔にかこつけて(*ママ)、日本の道と名付、儒佛の上を出たるものなり。譬へていはゞ、天竺の光音天、漢の盤古氏の時分にも、佛といひ儒といふ、一廉の定りたる道のあるにはあらず、佛といひ儒といふも、皆後の世の人が、わざとかりに作り出たることゞもなれば、~道とても又~代のむかしにあるべきには非ざる也。其最初に説出たるを兩部習合といふ。儒佛の道を合せて、能程に加减して作りたるものなり。其次に出たるを本迹縁起といふ。これは其時分に、~道の起りたるをねたみて、佛者の徒が陽には~道を説て、陰にはこれを佛道へ落しこめたるものなり。扨其次に出たるを、唯一宗源といふ。これは儒佛の道を離れて、唯純一の~道を説たるもの也。此三部の~道は、皆中古の事共にて、又近頃に出たるを、王道~道といふ。是は~道の道とて、各別に其道あるにはあらず、王道が乃~道なりと説たる也。又或は、陽には~道を説て、陰には儒と一つなる~道も出たり。是等はみな~代の昔にはなき事なれども、かやうに説かこつけて、互に其上を出あひたるものなり。是をしらずして、愚なる世の人の、皆誠の道と心得、其身にもひがことをし、たがひに是非して爭ふことにもするは、氣毒にも、笑止にも、またはおかしうも、翁が心にはおもふなり。
右は第十二節なり。
〔十三〕
扨又三教にみなあしきくせあり。是をよく辨へて迷ふべからず。
右は第十三節なり。
〔十四〕
佛道のくせは、幻術なり。幻術は今の飯縄(*窓_尼天〔荼枳尼天〕を祀り、管狐を使って憑き物を行う幻術。飯綱使い。)の事なり。天竺はこれを好む國にて、道を説人を教ゆるにも、これをまじえて道びかざれば、人も信じてしたがはず。されば釋迦はいづなの上手にて、六年山に入て修行せられたるも、そのいづなを学ばむとてなり。又諸經にいへる、~變・~通・~力などいふも、皆いづなの事にて、白毫光の中に三千世界をあらはし、廣長舌を出して梵天まであげられたるなど、又維摩詰が八萬四千の獅子座を方丈の内に設け、~女が舍利弗(*釈迦の十大弟子の一人)を女になしたるなど、皆そのいづなをつかひたるものなり。さてそれよりいろ〳〵のあやしき、生死流轉・因果をとき、本事本生未曾有(*ママ)をとき、奇妙なる種々の説をせられたるも、皆人に信ぜられんがための方便なり。是は天竺の人をみちびく仕方にて、日本にはさのみいらざる事也。
右は第十四節なり。
翁はかく説たれども、~通と飯縄とは相違ある事也。飯縄は術より出て、~通は修行より出ることなり。されども翁の言むべなりとす。
〔十五〕
又儒道のくせは、文辭なり。文辭とは、今の辯舌なり。漢はこれを好む國にて、道を説き人を導にも、是を上手にせざれば、信じて従ふ事なし。たとへていはゞ、礼の字を説にも、本は冠昏喪祭の礼式をこそ、礼とはいふべきに、それを爲二人子一之礼、爲二人臣一之禮と、人の道にもいひ、又視聽言動の上にもいひ、又礼は天地の別なりなど、天地にまでかけていふにてしるべし。又樂の字なども、只鐘皷を鳴し慰むことなるに、それを樂といひ、樂といふ、鐘皷をしもいはむやなどいひ、又樂は天地の和なりなどいふにてもしるべし。又聖の字なども、本は只智慧のある人をいふ言なるにそれをいひひろめて、人間の最上、~変もあるものゝ樣にいひなせり。孔子の仁をはり、曾子の仁義をはり、子思の誠をはり、孟子の四端・性善を説き、荀子の性惡をとき、孝經の孝をとき、大学の好惡を説、易の乾坤をときたるなど、皆なにともなき心安きことどもを、辯舌仰山にときなし、人におもしろくおもはれて、したがはれんとするの方便なり。漢の文辭は、すぐに天竺の飯縄にて、これもさのみ日本にはいらざる事なり。
右は第十五節なり。
翁はかく心安きこと共と説たれ共、道の至れる事あるは、翁も知ざらんや。又秘授のたやすく傳へがたきことあるも、翁はしらざらむや。翁の此ことばに惑ひて、本意を失ふべからず。
〔十六〕
扨又~道のくせは、~秘・秘傳・傳授にて、只物をかくすがそのくせなり。凡かくすといふ事は、僞盜のその本にて、幻術や文辭は、見ても面白、聞ても聞ごとにて、ゆるさるゝところもあれど、ひとり是くせのみ、甚だ劣れりといふべし。それも昔の世は、人の心すなほにして、これをおしえ導くに、其便のありたるならめど、今の世は末の世にて、僞盜するものも多きに、~道を教るものゝ、かへりて其惡を調護することは、甚だ戻れりといふべし。彼あさましき猿樂・茶の湯樣の事に至るまで、みな是を見習ひ、傳授・印可を拵へ、剩價を定めて、利養のためにする樣になりぬ。誠に悲むべし。然にその是を拵へたる故を問に、根機の熟せざるものには、たやすく傳へがたきがためなりとこたふ。是も聞ゆるやうなれども、其かくしてたやすく傳へがたく、又價を定めて傳授するやうなる道は、皆誠の道にはあらぬ事と心得べし(*ママ)。
右は第十六節なり。
翁の文 終
延享三年(*一七四六)春二月
大阪高麗橋壹丁目
冨士屋長兵衛 行
(跋)
余少小已讀富永仲基出定後語深服其學有家法又聞其著有翁之文物色之三十餘年未能獲但萩原廣道編遺文集覽(*「近世名家遺文集覧」)録仲基翁之文叙(*「翁の文のはしがき」を掲載。)猪飼敬所緒環稱翁之文在神儒佛三教外別倡誠道具有特識又嘗讀江戸千住人橋本律蔵書文雄上人非出定後云舊蔵翁之文教内田銀蔵子録副内田銀蔵君者故文學博士内田君父也余因勸博士檢其先世蔵書博士諾之未果而即世然以是u知世猶有此書未必佚亡也歳甲子一月龜田吟風學士獲此書於大阪一書估余聞之驚喜急東學士借閲且請自任仿印之役學士見允乃以玻璃板印之板蹙原幅者僅二三分其餘盡如原刻此書所論大旨与出定後語三教章同而加詳焉仲基又有説蔽一書専論儒墨以下百家競起所由今已佚而不傳讀此書可淂其梗槩矣其於神道又論兩部惟一諸派迭出所由皆与出定後語論教起前後同其揆而斷其道可道為可行於是邦可行於今時者猶孫卿法後王之義玉於持之有故言之成理過古諸子遠矣吟風學士獲此後数旬我京都大學山鹿司書官亦獲此書鈔本於猪飼敬所舊蔵書中石濱學士純亦發淡路人贈五位仲野君安雄遺書獲此書手鈔本書尾云盖為大阪道明寺屋三郎兵衛作相傳仲基通稱道明寺屋吉左衛門其實吉左衛門者為仲基父芳春及長兄毅齋所通稱以行輩論仲基稱三郎兵衛殆乎信而有徴仲野君与仲基並世齡長於仲基其所傳聞不當有誤也龜田君求余跋此書因遂書如此甲子六月内藤虎 (内藤虎印陽刻)(湖南陽刻)
余少小ニシテ已ニ讀ミ二富永仲基ノ出定後語ヲ一、深ク服ス三其ノ學有ルニ二家法一。又聞キ三其ノ著ニ有リト二翁之文一、物-二色スルコト之ヲ一三十餘年、未ダレ能ハレ獲ルコト。但シ萩原廣道編スル遺文集覽(*「近世名家遺文集覧」)ニ録シ二仲基ノ翁ノ之文ノ叙ヲ一(*「翁ノ文ノハシガキ」ヲ掲載。)、猪飼敬所ノ緒環ニ稱ス下翁之文ノ在リテ二神儒佛三教ノ外ニ一、別ニ倡ヘ二誠ノ道ヲ一具-中有セルヲ特識ヲ上。又嘗テ讀ム下江戸千住ノ人橋本律蔵書シテ二文雄上人ノ非出定後ヲ一云ク、舊-二蔵シ翁之文ヲ一、教ムルコトヲ中内田銀蔵ノ子ヲシテ録シテ副ヘ上。内田銀蔵君ハ者、故文學博士内田君ノ父ナリ也。余因テ勸メテ二博士ニ一檢セシム二其ノ先世ノ蔵書ヲ一。博士諾シテレ之ヲ未ダシテ レ果タサ、而即世ス。然レバ以テレ是ヲu〻知ル下世ニ猶ホ有リテ二此ノ書一、未ダルヲ 中必ズシモ佚亡セ上也。歳甲子一月、龜田吟風學士獲タリ二此ノ書ヲ於大阪ノ一書估ニ一。余聞キレ之ヲ驚喜シテ急ギ東セシメ二學士ヲ一、借閲シ且ツ請フ三自ラ任ゼンコトヲ二【仿印】〔注h複製〕ノ之役ニ一。學士見レ允サ。乃チ以テ二玻璃板ヲ一印ス二之ヲ板ニ一。蹙クルコト二原幅ニ一者僅ニ二三分、其ノ餘ハ盡ク如クニス二原刻ノ一。此ノ書所ノレ論ズル大旨与二出定後語ノ三教ノ章一同ジクシテ、而加フレ詳ナルヲ焉。仲基又有リ二説蔽ノ一書一、専ラ論ズ二儒墨以下百家競ヒ起リ所ヲ一レ由ル。今已ニ佚シテ、而不レ傳ハラ。讀メバ二【此ノ書】〔注h翁の文〕ヲ一、可シレ淂二其ノ梗槩ヲ一矣。其ノ於ケル二神道ニ一、又論ズ二兩部・惟一ノ諸派迭ヒニ出ヅルニ所ヲ一レ由ル。皆与カリ二出定後語ニ一、論ジテ下教ヘノ起ルモノノ二前後ニ一同ジクスルヲ中其ノ揆ヲ上、而斷ズ二其ノ道ノ可キハレ道トス為ルヲ一レ可キモノレ行フ。於テレ是ニ邦可キコトレ行フ二於今時ニ一者、猶ホシ 下【孫卿】〔注h荀卿〕法リ二後王之義ニ一玉トスルガ上。於イテ二持スルニレ之ヲ有リレ故、言フニレ之ヲ成スニ一レ理ヲ、過グルコト二古ノ諸子ニ一遠シ矣。吟風學士獲テレ此ヲ後数旬、我ガ京都大學ノ【山鹿司書官】〔注h山鹿誠之助〕モ、亦獲二此ノ書ノ鈔本ヲ於猪飼敬所舊蔵書中ニ一、【石濱學士純】〔注h石濱純太郎〕モ亦發キテ二淡路ノ人贈五位【仲野君安雄】〔注h淡路の庄屋。国学者。〕ノ遺書ヲ一獲タリ二此ノ書ノ手鈔本ヲ一。書尾ニ云ク、盖シ為リ三大阪ノ道明寺屋ハ三郎兵衛ヲ作スモノ二相傳ト一。仲基ノ通稱ハ道明寺屋吉左衛門ナリ。其ノ實吉左衛門ハ者、為リ下仲基ノ父芳春ト及二長兄毅齋一所中通稱スル上。以テ二【行輩】〔注h輩行〕ノ論ヲ一仲基ヲ稱スルガ二三郎兵衛ト一殆カランカ乎。信ニシテ而有リトレ徴。仲野君ヲ与二仲基一並ブルニ、世齡長ズ二於仲基ヨリモ一。其ノ所二傳聞スル一不レ當ラ、有ルナリレ誤リ也。龜田君求ム二余ガ跋ヲ此ノ書ニ一。因テ遂ニ書スコト如シレ此クノ。甲子六月、内藤【虎】〔注h虎次郎〕
余少小にして已に富永仲基の出定後語を讀み、深くその學家法有るに服す。又その著に翁之文有りと聞き、これを物色すること三十餘年、いまだ獲ること能はず。但し萩原廣道編する遺文集覽(*「近世名家遺文集覧」)に仲基の翁の之文の叙を録し(*「翁の文のはしがき」を掲載。)、猪飼敬所の緒環に翁之文の神儒佛三教の外に在りて、別に誠の道を倡へ特識を具有せるを稱す。又嘗て江戸千住の人橋本律蔵文雄上人の非出定後を書して云く、翁之文を舊蔵し、内田銀蔵の子をして録して副へしむることを讀む。内田銀蔵君は、故文學博士内田君の父なり。余因て博士に勸めてその先世の蔵書を檢せしむ。博士これを諾していまだ果たさずして、即世す。然れば是をもつてu〻世になほこの書有りて、いまだ必ずしも佚亡せざるを知る也。歳甲子一月、龜田吟風學士この書を於大阪の一書估に獲たり。余これを聞き驚喜して急ぎ學士を東せしめ、借閲しかつ自ら仿印の之役に任ぜんことを請ふ。學士允さる。すなはち玻璃板をもつてこれを板に印す。原幅に蹙(ちかづ)くること者僅に二三分、その餘は盡く原刻のごとくにす。この書論ずる所の大旨出定後語の三教の章と同じくして、詳なるを加ふ。仲基又説蔽の一書有り、専ら儒墨以下百家競ひ起り由る所を論ず。今已に佚して、傳はらず。この書を讀めば、その梗槩を淂べし。その神道における、又兩部・惟一の諸派迭ひに出づるに由る所を論ず。皆出定後語に与かり、教への前後に起るもののその揆を同じくするを論じて、而その道の道とすべきは行ふべきもの為るを斷ず。是に於て邦於今時に行ふべきこと者、なほ孫卿後王之義に法り玉とするがごとし。これを持するに故有り、これを言ふに理を成すに於いて、古の諸子に過ぐること遠し。吟風學士此を獲て後数旬、我が京都大學の山鹿司書官も、亦この書の鈔本を於猪飼敬所舊蔵書中に獲、石濱學士純もまた淡路の人贈五位仲野君安雄の遺書を發きてこの書の手鈔本を獲たり。書尾に云く、盖し大阪の道明寺屋は三郎兵衛を相傳と作すもの為り。仲基の通稱は道明寺屋吉左衛門なり。その實吉左衛門は、仲基の父芳春と長兄毅齋及通稱する所為り。行輩の論をもつて仲基を三郎兵衛と稱するが殆(ちか)からんか。信にして徴有りと。仲野君を仲基と並ぶるに、世齡於仲基よりも長ず。その傳聞する所當らず、誤り有るなり。龜田君余が跋をこの書に求む。因て遂に書すことかくのごとし。甲子六月、内藤虎
〔漢文エディタ原文〕
余少小ニシテ已ニ讀ミ 2( 富永仲基ノ出定後語ヲ )1 、深ク服ス 3( 其ノ學有ルニ 2( 家法 )1 。又聞キ 3( 其ノ著ニ有リト 2( 翁之文 )1 、物- 2( 色スルコト之ヲ )1 三十餘年、未ダ^能ハ^獲ルコト。但シ萩原廣道編スル遺文集覽(*「近世名家遺文集覧」)ニ録シ 2( 仲基ノ翁ノ之文ノ叙ヲ )1 (*「翁ノ文ノハシガキ」ヲ掲載。)、猪飼敬所ノ緒環ニ稱ス 2{ 翁之文ノ在リテ 2( 神儒佛三教ノ外ニ )1 、別ニ倡ヘ 2( 誠ノ道ヲ )1 具- ┤有セルヲ特識ヲ }1 。又嘗テ讀ム 2{ 江戸千住ノ人橋本律蔵書シテ 2( 文雄上人ノ非出定後ヲ )1 云ク、舊- 2( 蔵シ翁之文ヲ )1 、教ムルコトヲ ┤内田銀蔵ノ子ヲシテ録シテ副ヘ }1 。内田銀蔵君ハ者、故文學博士内田君ノ父ナリ也。余因テ勸メテ 2( 博士ニ )1 檢セシム 2( 其ノ先世ノ蔵書ヲ )1 。博士諾シテ^之ヲ未ダ _シテ_ ^果タサ、而即世ス。然レバ以テ^是ヲu〻知ル 2{ 世ニ猶ホ有リテ 2( 此ノ書 )1 、未ダ _ルヲ_ ┤必ズシモ佚亡セ }1 也。歳甲子一月、龜田吟風學士獲タリ 2( 此ノ書ヲ於大阪ノ一書估ニ )1 。余聞キ^之ヲ驚喜シテ急ギ東セシメ 2( 學士ヲ )1 、借閲シ且ツ請フ 3( 自ラ任ゼンコトヲ 2( 【仿印】〈NOTE 複製 〉ノ之役ニ )1 。學士見^允サ。乃チ以テ 2( 玻璃板ヲ )1 印ス 2( 之ヲ板ニ )1 。|蹙(ちかづ)クルコト 2( 原幅ニ )1 者僅ニ二三分、其ノ餘ハ盡ク如クニス 2( 原刻ノ )1 。此ノ書所ノ^論ズル大旨与 2( 出定後語ノ三教ノ章 )1 同ジクシテ、而加フ^詳ナルヲ焉。仲基又有リ 2( 説蔽ノ一書 )1 、専ラ論ズ 2( 儒墨以下百家競ヒ起リ所ヲ )1^由ル。今已ニ佚シテ、而不^傳ハラ。讀メバ 2( 【此ノ書】〈NOTE 翁の文 〉ヲ )1 、可シ^淂 2( 其ノ梗槩ヲ )1 矣。其ノ於ケル 2( 神道ニ )1 、又論ズ 2( 兩部・惟一ノ諸派迭ヒニ出ヅルニ所ヲ )1^由ル。皆与カリ 2( 出定後語ニ )1 、論ジテ 2{ 教ヘノ起ルモノノ 2( 前後ニ )1 同ジクスルヲ ┤其ノ揆ヲ }1 、而斷ズ 2( 其ノ道ノ可キハ^道トス為ルヲ )1^可キモノ^行フ。於テ^是ニ邦可キコト^行フ 2( 於今時ニ )1 者、猶ホ _シ_ 2{ 【孫卿】〈NOTE 荀卿 〉法リ 2( 後王之義ニ )1 玉トスルガ }1 。於イテ 2( 持スルニ^之ヲ有リ^故、言フニ^之ヲ成スニ )1^理ヲ、過グルコト 2( 古ノ諸子ニ )1 遠シ矣。吟風學士獲テ^此ヲ後数旬、我ガ京都大學ノ【山鹿司書官】〈NOTE 山鹿誠之助 〉モ、亦獲 2( 此ノ書ノ鈔本ヲ於猪飼敬所舊蔵書中ニ )1 、【石濱學士純】〈NOTE 石濱純太郎 〉モ亦發キテ 2( 淡路ノ人贈五位【仲野君安雄】〈NOTE 淡路の庄屋。国学者。 〉ノ遺書ヲ )1 獲タリ 2( 此ノ書ノ手鈔本ヲ )1 。書尾ニ云ク、盖シ為リ 3( 大阪ノ道明寺屋ハ三郎兵衛ヲ作スモノ 2( 相傳ト )1 。仲基ノ通稱ハ道明寺屋吉左衛門ナリ。其ノ實吉左衛門ハ者、為リ 2{ 仲基ノ父芳春ト及 2( 長兄毅齋 )1 所 ┤通稱スル }1 。以テ 2( 【行輩】〈NOTE 輩行 〉ノ論ヲ )1 仲基ヲ稱スルガ 2( 三郎兵衛ト )1 |殆(ちか)カランカ乎。信ニシテ而有リト^徴。仲野君ヲ与 2( 仲基 )1 並ブルニ、世齡長ズ 2( 於仲基ヨリモ )1 。其ノ所 2( 傳聞スル )1 不^當ラ、有ルナリ^誤リ也。龜田君求ム 2( 余ガ跋ヲ此ノ書ニ )1 。因テ遂ニ書スコト如シ^此クノ。甲子六月、内藤【虎】〈NOTE 虎次郎 〉
(識語)
此書富永仲基所著而湮逸不得見者久矣雖學者竭力索之未有得也今茲玉樹香文房主偶獲之於西京遂歸於予秘笈喜不可禁乃記之大正甲子(*大正一三年〔一九二四〕)一月仲五 吟風(*龜田次郎)識 (龜田之印陽刻)
此ノ書富永仲基所ニシテレ著ス、而湮逸シテ不ルコトレ得レ見ルヲ者久シ矣。雖モ二學者竭シテレ力ヲ索ムト一レ之ヲ、未ダルナリ レ有ラレ得ルコト也。今茲ニ玉樹香文房主偶マ獲二之ヲ於西京ニ一、遂ニ歸ス二於予ガ秘笈ニ一。喜ビ不レ可カラレ禁ズ、乃チ記スレ之ヲ。大正甲子一月仲五 吟風識ス
この書富永仲基著す所にして、湮逸して見るを得ざること者久し。學者力を竭してこれを索むといへども、いまだ得ること有らざるなり。今茲に玉樹香文房主偶まこれを於西京に獲、遂に於予が秘笈に歸す。喜び禁ずべからず、すなはちこれを記す。大正甲子一月仲五
〔漢文エディタ原文〕 此ノ書富永仲基所ニシテ^著ス、而湮逸シテ不ルコト^得^見ルヲ者久シ矣。雖モ 2( 學者竭シテ^力ヲ索ムト )1^之ヲ、未ダ _ルナリ_ ^有ラ^得ルコト也。今茲ニ玉樹香文房主偶マ獲 2( 之ヲ於西京ニ )1 、遂ニ歸ス 2( 於予ガ秘笈ニ )1 。喜ビ不^可カラ^禁ズ、乃チ記ス^之ヲ。大正甲子一月仲五
翁の文序(林師良)
序(全機居士)
翁之文序(伴礼玄幹)
序(伴〔富永〕仲基)
本文
跋(内藤湖南)
識語(亀田吟風)