作文志彀
山本信有(北山)
(山本北山『作文志彀』全 博文館 1894.5.19)
※ 原書は翻刻本。原文漢字カタカナ交り文。【割注】、(*L 左ルビ)
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作文志彀
東都 山本信有 著
萬卷の書を讀る人と云とも、文章に黽勉(*L ほねをおる)せざる者は、身を終るまで、何なる文か臧、何なる文か否と云を認(*L みさだむ)るヿも能ず。矧其著述する文章全く觀に足ず。是レを讀ムに一句は韓柳に似、一句は李王に似、一句は中郎(*袁宏道の字)に似、一句は何にも似ざる文成るなり。之を命て骨董文章と謂フ。偶其文章を論ずるを聞クに、風を追影を促が如き空言(*L むだこと)にて實用なし。是レ皆己にしつかりとしたる鑑衡(*L きまり)なき故なり。此讀書(*L ほんよみ)先生がたの弟子を教るに、多く書を讀で我に貯る寸(*とき)は、文章自然と成るものなりと云。妄の甚シと云べし。謝在杭が讀二破スルトモ萬卷ヲ一、不レ能レ下スヿ二一字ヲ一者ありと云、信に然り。文章に通ぜざれば、古書の眞面目も解せず、注脚の謬誤も辨ぬヿなり。能く書を解さんと欲せば、先能く文章に通ずべし。世の學者、文章は險く覺へ、徒詩ばかり黽勉して文章に志シ薄し。詩を作る意になりて只管文章に努力せば、文章も作りならはるゝヿなり。
文章を作らんと思はゞ、善交(*L なかよし)の友二三人若は四五人と結社(*L いゝあはせ)し、月に四五囘の會日を期め、各〻譯文を携來て覆文すべし。譯文とは古人の文を國字にて譯(*L なを)したるなり。覆文とは譯文を原文に覆すを云ふ。
會に集る人ごとに孟子・莊子・左傳・國語・史記・漢書等の古書にて文辞美(*L をもしろ)く句法險し章を撰拔して是を譯し、助字の所を虗て圏を處き、疑字の所を虗て方を處き、各〻に議論の文にても倒錯・謬用なきやうに作り、朋友に見て其異見を問、其上に先生に見て批削を乞フべし。助辞とは也・矣・焉・哉・乎・耶の類なり。疑字とは見・視・觀・瞯(*以上、全てL みる)、是・此・之・斯(*以上、全てL これ)の類なり。助辞は夏人(*L とうじん)と雖モ使誤る者あり。柳々州(*柳宗元)が杜温夫に復する書(*原文「尺/日」)を見て知べし(*皆川淇園『淇園文訣』を参照)。疑字は倭人極て用ヒ謬る。譬ば視と書べき所を見と書し、見と書べきをば却て觀と書する類往々にしてあり。倒錯とは世に所謂ル顛倒のヿなり。謬用とは助辞・疑字・故事成語など、總て使ヒ謬ルを云ふ。
今童兒(*L こども)輩の爲メに孟子離婁ノ篇、齊人有ル二一妻一妾一章を譯して、譯文の法を示す。
齊人一妻一妾にして、室に處者有り。其良人出る寸は、必酒肉に饜て、而して後に□。【若クレ此ノ方を處は疑字なり。歸・反・還など皆かへると訓ずるゆへ、何を處て可なるべきかと工夫させんために、□にして其字を書せず。下みな此に效へ。毫釐も之を誤ば、實に千里を差ふ故に、疑字を辨ずる、文章を學ぶ第一義とす。】
其妻□に飲食する者を問ば、則ち冨貴なり。其妻其妾に告て曰ク、良人出ル寸は必酒肉に饜て、而して後に□。其□に飮食する者を問ば、盡く冨貴なり。□未だ嘗顯たる者有て來ず。□將に良人の□所を□とす○。【若クレ此ノ圏を處は助字なり。也・矣・焉など何を處べきと工夫させんためなり。】
蚤に起て旋に、良人の□所に□。國中を□して□に立談する者□。東郭墦間の祭者に□て其餘を乞て、足ざれば□顧て他ニ□。□其饜足を爲の道なり。其妻□其妾に告て曰ク、良人は仰望して身を終る所なり。今かくの若し。其妾と其良人を□て、中庭ニ○相泣く。而して良人未だ□を知ず、○旋々として外□來て、其妻妾に驕る。君子□□を□寸は、人の富貴利逹を求るゆえんの者、其妻妾を□ず○、□相泣ざる者幾ンド希ナリ○。
通計(*L しめて)一百有二字【若レ此原文の字数を挙(*原文「文/キ」。以下同じ。)ルは、覆文此字数に合させんためなり。】
譯文を覆するに臨で、何如なる險き句の自家の工夫にて覆し難ありとも、ゆめ〳〵原文を出して視べからず。初心の際は、且吾(*L ちがひ。齟齬)ありがちなり。譬ば齊人有二一妻一妾ニシテ、而處ルレ室者一と覆すべきを、齊人一妻一妾ニシテ、而有二處レ室者一と處、或は有二齊人一妻一妾ニシテ、而處レ室者一と處く。又其妻問下所二與ニ飮食スル一者上と覆すべきを、其妻與ニ問ヘバ下所ノ二飮食スル一者上と處キ、或は其妻問ヘバ下與ニ所ノ二飮食一者ニ上と處く。是倒錯なり。從二良人之所一レ之と覆スべきを、隨二良人ノ之所一レ行と處、由二君子一觀レ之と覆スべきを、由二君子一見レ是と處。是レ謬用なり。
李王の修辞をせんと思はゞ、先づ數本(*L いくさつ)の小冊(*L ほん)をこしらへ、天象・地理・戰鬪・言論などの部分をして、左傳・列子・呂氏(*呂氏春秋)・韓非等の古書を見ごとに、平生用ゆべき文字、又は儉(*ママ)く解がたき句、或ヒは新竒なる句などを見ば、戰鬪(*L いくさ)の事ならば即時に戰鬪の部に寫入れ、言論の事ならば言論の部に寫し畜置、さて戰鬪(*L いくさ)のヿを書と欲せば、左傳・戰國策・史記・漢書戰鬪の所を一日も二日もひたもの讀、其中に吾書べきと思ふヿと似よりたる所々に簽して、是を体とし、其上に兼て寫し貯たる部分の中を見て、戰鬪の部より入リ用のヿを取リ出スべし。言論に與たるヿをば言論の部より拔出し、地理の書やうをば地理の部より揀出し、一句一字も我より出さず、一一皆古書中より斮抽。因て古文辞と云ふ。于鱗(*李于鱗)が白雪樓を搆、文を属る毎に此樓に登り、楷梯を棄人の上ヿを許ず、稿(*L したがき)を脱せざれば終に下らず。是れ心の擾を懕ばかりに非ず、書を引キちらし抄寫(*L ぬきがき)などとりひろげたるさまを人に見せまじき爲なり。今の修辞家(*L こぶんじ)者流多は于鱗・元美(*王元美)・徂徠・南郭等の文集を金科玉條(*L けつかうなもの)として只管其成語を抽出し、其本を古書に求ず。修辞の陋極れり。然も又李王の諸文も讀ずんばあるべからず。之を讀の法、其成語を偸んヿを欲せざれ、其古書を斮拔ようを會得せんヿを欲せよ。今初學の爲に安澹泊(*安積澹泊)が 神祖大高兵粮入の事を記したる、修辞せざる文を挙て、次に之を修辞して、修辞の然ヿを知ラしめ、又次ギに熊谷直實が平ノ経盛に遺書を修め、 本邦の事實を修辞すべき法を示す。
信長築キ二城堡ヲ一、守ル二要害ヲ一。使下二佐久間大學盛重ヲ一據二丸根城ニ一、尾近江守定景、其子隱岐守信宗ヲ據二鷲津城一、山口左馬助據中中村城ニ上。左馬助叛二信長ヲ一、誘テ二大高・沓懸二城ノ守將ヲ一、属ス二義元ニ一。義元使下二鵜殿長助・長持ヲ一守ラ中大高・沓懸ノ二城上。大高城乏シレ糧ニ。告グ二急ヲ駿府ニ一。義元使下二 神祖納レ上レ糧ヲ。 神祖時ニ年十八、英氣方ニ鋭シ。譜第ノ士踊躍相從フ、幾ンド及ブ二一千騎ニ一。急ニ進テレ軍ヲ陣ス二于大高ニ一。左右伺テレ間ヲ將レ納ントレ糧ヲ。信長出シテ二兵ヲ鳴海ノ海邉ニ一、詗(*原文「言+冏」)二察城寨ヲ一。我軍以爲ク、信長邀ルト二糧道ヲ一。使下二鳥居四郎左衞門・内藤甚五左衞門義教・内藤四郎左衞門正成・石川十郎左衞門・杉浦藤次郎時勝・杉浦勝吉ヲ一偵ハ上レ之ヲ。義教・正成等皆曰ク、敵嚴兵絶二我糧道ヲ一。獨勝吉言テ曰、敵不レ欲レ戰ヲ、可二速ニ納ル一レ糧ヲ。義教・正成曰、子不ヤレ見二敵ノ鋭氣ヲ一乎。何ンゾ言ノ之謬レル。勝吉曰、不レ然。敵欲セバレ戰ヲ、則當二下テレ山ヲ而陣ス一。今見テ二我軍ヲ一、還テ陣ス二山上ニ一。是レ避ル也也。納レ糧不レ可二猶豫ス一。 神祖然リトスレ之ヲ。急ニ遺シテレ兵ヲ、向テ二寺部・梅坪二城ニ一、縦テ二火ヲ民屋ニ一、而誘レ敵。鷲津・丸根二城見テ二煙ノ起ルヲ一、馳テ救レ之ヲ。乘レ間ニ納ルレ糧ヲ。此 神祖兵略ノ之始也。世稱シテレ之ヲ曰三大高納二兵糧一。
是れ安澹泊が 烈祖成績の中の文なり。余レ聞く、澹泊先生博覧多識、書として讀ずと云ヿなしと。然も此文の如き、夏にも非ず日本にも非ず、以て博物と文章と関ざるヿ見つべし。然れども(*原文「然れも」)博物に非れば文章必ず謬用多く、文章に通ぜざれば博物も強解(*L むりずまし)多し。
尾張ノ織田信長、令下二山口左馬ノ佐ヲ一守中中村城ヲ上。左馬ノ佐誘テ二大高ノ守・沓懸ノ守ヲ一、叛テ二信長ヲ一如ク二駿河ノ今川義元ニ一。義元使下二鵜殿長持等ヲ一、戍ラ上レ之ヲ、先レ是ヨリ信長處ラセテ二佐久間盛重ヲ于丸根ニ、尾定景ヲ于鷲津ニ一、而備フ二駿河ニ一、因テ以テ〓{扌+竒}角シ焉、又出シテ二兵ヲ於鳴海ニ一、爲ス二勢援ヲ一。大無二見糧一、義元轉二輸ス其邦ヨリ一。饟道梗セリ矣。時ニ 神祖在二駿府ニ一、使二將トシテ而扞一レ之ヲ。衆咸ナ難ンズ焉。杉浦勝吉曰、輸可レ致ス也。信長見テ二我兵ヲ一、不レ下サ二師ヲ於麓ニ一、還テ軍二於山上ニ一。是不ル也レ欲セレ戰ヲ也。神祖迺使下レ諜ヲ隈ヨリ入テ焚中寺部・梅坪ノ民落ヲ上。盛重・定景、以テ爲レ有リトレ冦、奔テ而趣クレ之ニ。處守ノ者、羸弱不レ幹セ、駿河人、譟ヒテ而輸ス焉。奔趣ノ者、還ル寸ハ則既ニ入二大高ノ城ニ一。是ヲ為二 神祖竒計ノ之始ト一也。世命テレ之ヲ曰二致輸大高ノ之役ト一。 神祖時ニ年十八、兵僅ニ一千ト云。
是れ余が上の澹泊先生の文を修辞せるなり。一句も秦漢以上より采ざるは無し。修辞を學んと欲する者、此文と上文と見くらべ、其異なる所を工夫せば思ひ半に過ん。
擬ス下熊谷直實遺ル二平ノ経盛ニ一書ニ上
熊谷直實使シテ二人ヲ於平ノ経盛ニ一曰、昔シ者先公在セシ日、得テレ望ミ二見ルヿヲ顔色ヲ於輦轂ノ之下ニ一、今且サニ二十年矣。僕ヤ也敗軍ノ之餘、竄二伏シテ武埜ノ草莽ニ一、與二木石一居リ、與二鹿豕一遊ブ。媲スレバ下閣下ノ翥二翔シ乎青雲ニ一厠ハルニ中卿相ノ間ニ上、亡シレ論二尊卑ノ不ルヲ一レ均カラ。隔ツテ在リ二天ノ一涯ニ一、尋ヒデ今ノ公起シレ兵ヲ、與ニ在ル寸二行伍一、則眈々相ヒ視ル。音問ノ無キレ由シ、又ナリ矣。以テレ無キレ由シ不レ已マ、恭シテ奉ズル二書ヲ左右ニ一者ハ、由テ二五位公子ノ遺託ニ一、而請ヘリ二諸元帥ニ一也。閣下幸ニ勿レ二按レ劔叱スルヿ一矣。將タ有リトモ下譴ルニ以スル三人臣無キヲ二外交一者上、是礼法ノ士ノ所ナリ二遵奉スル一也。非乙為ニ下若キレ僕ガ唯金仙是ヲ奉ジ、以テ考二槃スル方外ニ一者ノ上設ルニ甲焉、豈拘々辟ルヿヲレ嫌ヲ之為ンヤ哉。竹笛一枝、公子ノ所ナリ三託レ僕ニ遺ル二閣下ニ一。鞍馬兵甲并セテ上ル。盡ク公子ノ故物ナリ也。徃時、須磨ノ之役、吾師建二瓶シテ鐵拐ニ一、西風不レ競ハ、閣下諸宗、咸舩シテ而浮二于海ニ一。公子獨リ後レタリ矣。望ンデレ颿ヲ而馳ス。瞻望ノ者相謂テ為二竒貨ト一。僕特ニ騁セ從フテ扇呼スレバ、公子顧ミテ而旋スレ馬。然シテ後ニ短兵相接シ、次グニレ之ニ以テレ手ヲ相摶ツ。公子雖モ二能ク鬪フト一、時不レ利アラ、為ニレ僕ガ所レ止メ焉。因テ問ヒ二名姓爵位ヲ一、迺チ始テ知リレ為ルヲ二公子一、審ニ視レバレ之ヲ、則紅顔翠黛、間雅窈窕、髣髴トシテ乎閣下ニ之レ似タリ。直實有二一兒一曰二直家一。與二公子一年相ヒ若ケリ。僻クノ鄙人、雖ドモレ不トレ如カ二公子ノ丰采可ニレ人ニ、風流思ハシムルニ一レ人ヲ、才不才、亦各〳〵言二其子ヲ一也。僕與下為ル二之レガ也母一者上、噯シレ之嘔シレ之、撫シレ之毓シレ之、顧シレ之長ジレ之、願二爲ニレ之ガ有ンヿヲ一レ壽。父母ノ之心、人皆有レ之。閣下ノ於ルヤ二公子ニ一也、予レ忖リ二度ルニ之ヲ一、不レ覺ヘ潜然トシテ而出スレ涕ヲ。心戚々焉トシテ、但見ル二其可キヲ一レ憐。遂ニ欲ス二釋シテ而令(*L シメント)一レ行ラ。僕ヤ也迺チ爲スレ之ヲ、豈所三以ナランヤ内ルヽ二交ヲ於閣下ニ一哉。以テ也五一公子ノ死生未ダ四必シモ足三強二弱スルニ東西ヲ一也。不リキレ圖、在ルレ後ニ者、共ニ相呼ンデ曰、直實貳アリ矣。獲テレ讎ヲ放スレ之。可ト云二併與シテ而殺ス一焉。僕不レドモ二敢テ愛セ一レ死ヲ、死モ亦不レ足レ免ズルニ二公子ヲ一也。術知惟レ谷ツテ、不レ知レ所ヲレ爲ン。公子笑テ曰、遇テレ敵ニ見ルレ獲、固ヨリ死是ヲ求。子惠アツテ而舎ストモレ我ヲ、我レ不二敢テ逃レ一焉。况ヤ舩去ルヿ既ニ遠シ。睘々何クニ適ン。其將タ死ン二於道路ニ一矣。且ツ予レ與リ三其死ン二於路人ノ之手ニ一也、無寧ロ死ン二於子ノ之手ニ一乎。因テ出シテ二錦嚢盛ノ横笛ヲ於懷ヨリ一、授テレ僕ニ曰、名ク二之ヲ小枝ト一。鳥鋳ノ御物ナリ也。帝居常ニ好ミレ音ヲ最喜レ笛ヲ。遂ニ使シ二人ヲ宋國ニ一、採二竹ノ嶰谷ヲ一(*ママ)、爲ルレ籥ニ。吹テレ之ヲ音中ル二C商一。夜稍深ク愈〳〵亮。以レ故ヲ一ニ名ク二C夜ト一。帝嘉シテ三吾家祖ノ解スヲ二音律ヲ一、而錫フレ之。家祖喜ンデ享ス二拱璧ニ一。什襲不レ啻ナラ。後將ニ(*L シテ)レ老セント、不レ傳二諸嫡ニ一、傳フル二吾大人ニ一者ハ、悦テ也二其似タルヲ一レ己レニ也。余モ亦性嗜ム二吹笛ヲ一。唯恨ミトスレ莫ヲ二物ノ適一レ意ニ。欝陶久シテ而爲レ疾ヲ。大人雅ヨリ愛シテレ余ヲ無レ所レ惜ム焉。遂ニ以テ傳フレ此ヲ。疾モ亦尋デ瘉ヌ矣。余レ自リレ得シレ此ヲ曲從フ二心所ニ一レ欲スル。中夜忘レレ寢ヲ、吹テ而逹ルヿレ曉ニ、常數タビ矣。顚沛造次恒ニ必從フ。余ガ愛スルヤレ之ヲ也、繇シ二父母ノ愛シテレ我不ル一レ離二膝下ヲ一。子能ク為ニレ我致セ二諸ヲ父母ニ一。厥人ハ迺チ亡ストモ、厥ノ物尚ヲ有ラバ、可キノミ二少ク緩フス一レ哀ヲ耳。遂ニ瞑目不二復言一。自啓ヒテレ領ヲ俟ツレ剄ヲ。鬒髪如クレ雲ノ、肌膚若シレ雪ノ。於カレ是乎、僕ヤ也、手痿シ足躄シ、不レ能二執テレ兵ヲ而自ラ起ヿ一、反テ爲ニ二公子ノ一所レレ激セ、雖ドモ二忍ンデ而卒ワルト一レ事ヲ、心裂肝碎ケ、痛ミ透ル二乎骨一。抑〳〵結ンデレ髪ヲ以來、未三嘗テ有二若クレ此ノ其レ哀シキハ一矣。C揚婉如トシテ、常ニ在リ二目睫ニ一。我思ヒ不レ悶マ。匍匐襄シレ事ヲ、縦縦若クレ斧ノ、三板已メレ封ヲ、白シテレ木ヲ書シ二名姓爵位ヲ一、以標スレ之ヲ。豈惡ンデ二夫ノ涕ノ之無キヲ一レ從ルヿ、而強テ為ナランヤレ之哉。夫レ我乃チ行フレ之ヲ、反テ而求テレ之ヲ、不レ得二吾心ニ一。嗟呼逝者其亡セリ。曷ンゾ又有ンレ佸フヿ。來者若シ可ンバレ追、則莫レ如クハレ修二冥福ヲ一矣。曩僧ノ源空ナル者、嘗テ與レ我言キ二於黒谷ニ一。於レ心ニ終ニ不レ忘レ二其末法易行顓念ノ之教ヲ一。今ヤ也不幸、遇テ二於公子ニ一、懷ク二無吪ノ之隱ヲ一。然シテ後始テ觀二惟レ世ノ無キヲ一レ常、愈〳〵益〳〵知リ乙非レバ下逝テ將ニ去テ二穢土ヲ一適クニ中彼ノ樂國ニ上、則弗ルヲ甲レ得二我所ヲ一矣、宿因機動シテ、遁志决シヌ矣。雖レ未レ能三遽ニ禿シレ首ヲ墨シレ衣ヲ、棲二乎タルヿ樹下石上ニ一、杜ヂレ門ヲ謝シレ客ヲ、為ニ二公子ノ一、日ニ籲ンデ二夫ノ西方ノ聖人ヲ一、以テ懸二解セシメ三塗ヲ一、恢々乎シテ遊二心於方外ニ一、而シテ期ス二終焉ヲ一。幸ニ得バ下一朝拂テレ衣、潜メ二跡ヲ蓮社ニ一、與ルヿヲ中盟ニ黒谷ニ上、莫シ二素志遂ルハ一レ焉ヨリ。閣下モ亦不幸逢ヘリ二斯ノ百罹ニ一。ク二唯ダ是レ之ヲ圖ル一。臨ンデレ書ニ、徃事在リレ臆ニ、方寸絲棼レテ不レ能レ為スヿレ理ヲ。冀クハ炤諒セヨ焉。【別ニ経盛ノ荅書アリ。略スレ之ヲ。】
韓柳と李王との異なるヿ、水火氷炭の如し。韓退之自ら文法を論じて曰く、古文の意を師として其辞を師とせず。李于鱗は曰く、古を視て辞を修む。又韓は難くするヿ勿れ、易にするヿ勿れ、難易に意ある寸は文條暢せずと云ふ。李は只管に難きを爲す、好んで古書の險なる所を使ふ。韓は云ふ、豊にして一言を餘ず、約にして一辞を失ハず。李は但(*原文ルビ「たゝ」)に簡古を尚ぶ。故に李家の文を爲者は百字を縮て五十字とし、五十字をちゞめて二十字とせんとす。是レ其大槩(*原文ルビ「かい」)なり。燕ラの微に至ては、一朝一夕の談に非ず。今や昇平の世、文明日々に盛んにして、人々書を讀ざるは無く、書を讀ほどの者文章に志シなきは無し。文章に志す者、其人の好否(*原文ルビ「すき・ふすき」)ありと云へども、文運大に啓の驗、李家の非を悟り、斮拔の陋(*L いやしき)を知り、韓文を斈んと欲る者、大宰純(*太宰春台)より以下間ありと云へども、其門を得ず、其路を悟さず、退之が陳言を去ると云ふを謬り解して以爲、韓家の文は一字一句我より機を出して古ヘに據ざる者と心得て、熟字錬語悉く并せ棄、素より空虗なる己レが腹中より無法に窄り出サんとす。何の文をか爲得ん。是を讀に句々嘔噦(*L へどのでる)に禁ず。又或は此陋を辟として、古書中の平易なる解やすき所ばかりを斮拔て綴合せ、ごそ〳〵と交渉はなれのする文を作す。甚だ古注家流の文に似たり。拙かな。甚シきは韓柳中の成語を剽襲(*L ぬすみ)して、韓柳に擬すと思り。大凡(*L をよそ)剽襲斮抽と云ヿは、明の北地より始れり。假ひ觧し易文字を斮拔とも、韓文を剽襲すとも、亦修辞の文なるヿ免がたし。故に世の文法を會せずして韓文〻〻など云ふ人の文章を見るに、冗長・軟弱、強て首尾(*原文ルビ「ひ」)相救んとして、累句拗語、况ど天然の雄渾を失ふ。加之章句杜撰(*ママ)、竒正法を失ふ。反て大に李家の修辞に劣ヿ甚し。抑韓文に至ては別に一法あり。知己に非れば千金傳がたし。余れ韓文法を著家塾に藏む。今吾黨の為に南郭が讀論衡の文を擧て、次に之を韓家の文に換して、修辞と韓文との異を知らしむ。次に雜文一篇を擧て、余不才すら韓文の粗を象べき寸は、世の才人・君子其鉛に及びやすきを示す(*ママ)。
讀論衡 服元喬(*服部南郭)
論辨相競盛ナリレ自二戰國一。而西漢ハ則承二秦ノ餘一、唯求レ亡守レ遺。是ヲ務雖レ有二論者一、未二敢自恣セ一。曁二於東漢ニ一、篇籍寖備ル。然後著シレ論正スノレ非之學復盛ナリ矣。又且讖緯日ニ出デ、時方ニ多信ズ。雖二光武ノ之英一、其惑不レ可レ囘。王仲任(*王充の字)出二其際一、停二審虚實一、自稱二秉衡一。凡経傳百氏、莫下不レ被二非斥一者上、遂ニ且至レ稱下呉會ノ之得タル秘為二談助許下ノ之論一驚謂中才進上。即測二其世一、其有ン焉。啄長相尚バ、則雖レ剖二析毫釐一、率ネ亦近二乎街談巷議一耳。夫辞語ノ之道微婉相諭、或有四文遠旨深シテ、不三必モ専ラ貴二徑情直言ヲ一。然ドモ世趍キ二婾薄ヲ一、夸説日ニ加リ、訛シテ為二窕言一、亦其勢ノミ爾。夫以レ言正レ言、猶二抱テレ薪ヲ救フ一レ火也。不レ可二撲滅ス一、益至レ燎クニレ原。要スルニレ之豊文茂記、恢諧劇談、擇ブ者無レ惑。何更ニ詰難セン。仲任蓋非レ不レ知レ之。惟其剛鋭ノ之志急二於著一レ書、而平易ノ之論難レ奪二佗先一。且其誦憶ノ之功徒ニ蘊未レ見。非レ託二斥事一、無レ繇レ示レ博。後世論家亦多二此伎倆一、則仲任設意ノ所レ在、詭異ハ是其ノ所ナリ也。獨其因二指摘一、援及甚繁シ。八十有五篇不レ可レ謂レ非二富有一焉。貧士乏レ書、今猶レ古乎。乃一覽ノ之餘、不レ問二才進一。苟記レ所レ有、則不ンヤ下亦足中以テ代上下(*ママ)閲二雒肆(*洛肆。京中の古書肆。)一之労上乎。
讀論衡 山本信有
大道微テ而横議起リ、論辨熾ンニシテ而微意婉辞熄ム矣。蓋シ戰國ノ際人若ニシテレ羊ノ而狼ル。非世斥俗、無シレ所二忌避スル一。竟ニ激ス二秦火ノ之災ヲ一。漢承テ二灰燼ノ之餘ヲ一、書典殘鈌栖々求レ之。諸儒各執二守シ於顓門ニ一、論辨未二或遑アラ一焉。間マ有ルモレ之、不二敢テ自恣ニセ一。曁レ至二乎東漢一、逸書粗備リ、横議更ニ競。於レ斯ニ、論辨斥非、為二復盛ナリ一矣。王仲任時ニ稱ス三博ク極ムト二羣書(*原文「{尺/日}」)ヲ一。遂ニ濳メテレ思ヲ著レ論ヲ、大ニ非二斥ス諸子百家ヲ一。自謂レ秉ル二衡ヲ于斯ニ一。然モ人各〳〵有レ所レ見、我辨レバ彼持ス焉。雖三為ニ折クト二毫釐ヲ一、辨益〳〵困ンデ而持スルヿ益〳〵牢シ矣。凡以レ言禦ルレ言ヲ、譬二諸ヲ説レ利ヲ罷ルニ一レ兵ヲ。兵雖三暫ク罷ムト二於前ニ一、隨テ復起ル二於後ニ一。隨復起ル、則亡モ亦隨フレ之ニ。殆フシテ而無レ益矣。径言夸説、以テ秉ルレ衡。豈ニ若ンヤ三微意婉辞使二レ其レヲ自省ミ内悔一哉。仲任亦非レ不レ知レ之。唯急ナリ二於為レ書收ルニ一レ嬴ヲ。故強テ多ニス二其言ヲ一。多ナレバ則必窕ス。窕言坦易、不レ足レ服レ人ヲ也。且誦臆ノ之功、亦蘊シテ弗レ見。因テ託シテ二非斥ニ一、詭二異シ其論ヲ一、以示ス二其愽ヲ一。書成テ八十五篇、可レ謂レ富メリト矣。蔡伯喈(*蔡邕ノ字)藏シテレ之ヲ時ニ發シ、令三レ人ヲ驚テ謂二才進ムト一也。横議ノ之世、或其レ然ルカ歟。後ノ讀者、才ノ進ム、果シテ然ルト與レ否ザルト、是レ不二必シモ論ゼ一焉。顧フニ其援及旁博、寒士苟モ記セバレ之ヲ、則チ可レ足下以免中閲スルノ二書ヲ市肆一之勞ヲ上耳。余レ所ハ下為二仲任ガ一幸スル上、後世無キヿヲ三法君ノ似タル二秦皇一。或ハ使下二秦皇ヲ一作シテ二於驪山ニ一、覧ゼ上レ之、則豈不ンヤ二亦焚カ一焉哉、豈ニ不ンヤ二亦焚カ一焉哉。
〇昔シ諸葛武侯(*諸葛亮。謚忠武侯。)、年二十八、始テ遇フ二昭烈(*劉備の諡号。)ニ於南陽ニ一。而シテ后ニ三二分シ天下ヲ一、熾ンニス二炎漢ノ既ニ滅タルヲ一。可レ謂ツレ不トレ負カ二臥龍ノ稱ニ一矣。己亥(*安永八年〔一七七九〕)ノ春、觀ル下昭烈帝、雪中顧スル二武侯ノ廬ヲ一圖ヲ於林子權ニ上。今茲ニ余レ年亦二十八、因テ私竊ニ有レ感、作ル二蟄龍ノ説ヲ一。
龍ノ之在レ蟄ニ、潜二伏シ叢間一、蜿二蜒シ沙泥一、畏レレ人顧レ物、縮メレ首曵クレ尾。不二與レ蛇甚ダ異ナラ一矣。方テ二是ノ時ニ一、見ル者莫シレ非ル二埜人樵豎ニ一、相テ謂ヒ二之ヲ蛇ト一也、弄侮シテ而狎擊ス。或ハ好ムヿレ竜ヲ若キ二葉公ノ一者モ、見テ二其潜伏蜿蜒、甚ダ與レ蛇相近キヲ一、又蛇トシテ二視ル之一。而后ニ弄侮シテ而狎擊スル者、愈〳〵益〳〵弗レ疑ハ、遮リレ行ヲ究メレ跡ヲ、掣礫拉蹴、爭ツテ極ム二其惨ヲ一焉。竟ヒニ相議シテ曰、蛇ハ者害物ナリ也。殺シテレ之ヲ瘞ンヿ焉可ナリ矣。會ヒヌ二豢龍氏ノ過ツテ而見ルニ一レ之ヲ、大ニ驚テ曰、龍也、今歳シ無シレ雨。請ハ則得ン焉。衆咸ナ爲レ欺ト矣。豢竜氏曰、可三少ク俟ツテ徴ス二諸ヲ將來ニ一耳。遂ニ携而歸リ、飲食栖處、盡ク適フ二其欲ニ一矣。居ルヿ之數日、雲蒸シ雷虺フ。於レ是、俄ニ長ズルヿ數仭、神光璨瓓、屈伸爲ス二嘘噏ノ状ヲ一。瞬目ノ際、大風揚ゲレ石、震電烱霍、【晦雲】霹靂、咫尺不レ辨ゼ、沛然雨注グ。傾ケレ盆ヲ滿ツレ疇ニ。然後ニ冉冉冲テレ天、飛二驣ス乎玄問ニ一。餘勢ノ所レ觸ル、拔キレ樹ヲ碎キレ巖ヲ、谿捩(*原文「手扁+厂/良」」)ヒ山動ク。枯苗モ亦勃然生ゼリレ色。民大ニ喜ビ、相抃テ而歌ヒ且ツ舞テ、而后弄侮シテ而狎撃シ、且ツ爲ルレ欺クヿ者、莫レ不ルハ二愕(*原文「{愕+咢}」)然恐怖シ、奔走逃竄セ一矣。嗟呼、夫ノ龍ノ之爲レ靈、能起シレ雲ヲ、嘘シレ雨、復シレ枯ヲ、使(*L セシムレドモ)二レ民ヲ抃(*原文「{木扁+卞}」)而歌舞ト一、不ルレ能レ免二埜人樵豎ノ狎擊拉蹴ヲ一者ハ、豈非ズヤ下命ト與二時勢一然ルニ上乎。若シ使二レ其ヲ不一レ遇ハ二豢竜氏ニ一、畏レ人顧レ物、縮レ首曳キレ尾ヲ、瘞二死シテ於培塿ニ一、而不レ得レ見スヿヲ二其靈一、終以レ蛇没セン。殆ヒカナ哉。豢竜氏モ亦或ハ不ンハレ遇レ此レニ、則何ヲ以テ與下夫ノ好レ竜若二葉公一者上擇ン焉。豈不ヤ二亦幸ナラ一哉。
今世の文人、多くは詩よりして文に入る。故に文章の中必ず詩の句を用る者あり。欠躰の甚シき文章の軟弱、先ヅ此に坐せらる。是文章第一の禁なり。
散文中に韻文あり、韻文中ニ散文あり。然れども散文自ら散文の語あり、韻文自ら韻文の語あり。散文の語を以て韻文に用るは猶可なり。若し韻文の語を采て散文に用る寸は、語脉属せず、文理乖ものなり。世の文人是を知ず、多く此禁を侵して識者の爲に取ず。然も又文辞すでに老(*L かうしやになり)て、乾坤を罔羅するの手叚に至ては、此定則(*L をさだまり)に拘ざる所あり。【押韻せざるを散文と云。押韻の文を韻文と云。】
文章は躰を知ルを先キとす。凡そ序の体は此の如く、碑の体は此の如く、傳の体は此の如く、書の体は此の如くと云ふヿは人々知所にして、予が所謂体を知ルとは是レには非ず。譬ば傳に史傳の体あり家傳の体あり、碑に古跡・名區の碑の体あり、丈夫の碑の体あり女子の碑の体あり、他有位(*L くらひある)の人・隱君子等の碑、各〳〵其体あり。其餘の諸体みな此の如く、躰中に体あり。熟く此レを知ラざる寸は、無法の文となる。然も又体に正体あり変体あり。是復知ルべし。
雅文中に俗語を用るヿ、今有テ古ヘ無きもの、提合・荷包の類、予が著す文藻行潦ノ中に挙所、大率可なり。如シ又昔徃より有リ來ル所の吾儕と書べきを俺等と書キ、余と書べきを自家と書キ、刁を溪巤、婦を渾家などゝ書く。是を雅俗相渾ずと云ふ。失躰の甚シキなり。倭人の習にて、夏には匹夫も知たる俗語の字を竒なる物と會へ、儉く作りたがるなり。竒を好むは初學の常にて、得て俗語の字を用るヿ多し。陋夫。
本邦の文人、地名を用(*L つかふ)るヿ多く、一定せず。譬ば江戸を東都と云ひ江都と云ふ。奈良を寧樂と稱し南都と稱す。大義をだに愆ずんば、隨分雅に用(*L つかふ)るヿ可なり。然も一篇の中にて江戸の事を上には東都と云ひ下に江都と云ふなぞの類、徃々筆に信て書ヿ多し。愼べし。一篇の中にて一地名を二様に書す。中夏は云ふに及ばず、 本邦にても識者は决して無きヿなり。夏に入道と云事あり。是を 本邦の入道に當て文章に施し、夏に勘定の字あり。是を 本邦の勘定に充つ。是を倭習と云ふ。此の類あげて數べからず。老文の人と雖、識者の手を経ざれば此倭習を免がたし。文章は後世に殘るものなれば、一篇を著属とも自ら是とせず、識者の駁(*L なをし)を請て醜を千載に貽ぬやうにすべきヿなり。
堀川家(*伊藤東涯の流)にて字を錯り置を顚倒錯置と云ふ。顚倒の字は劉攽が後漢書の註、宋景濂が日東ノ曲にも出たる字なれども、錯置の字は其家にて作たる語なり。予レ不レ取。それよりは中夏にて徃古より云ひ來りたる倒錯の字を用るに若じ。余レ故に字の倒錯と句の倒錯とを以て分つ。字の倒錯とは譬ば所ハ二爲ニレ汝ガ言一と處べきを、爲ニレ汝ガ所ハレ言フと書。此にては爲ニレ汝ガ所ルレ言ハとより外は讀ぬなり。句の倒錯とは、吾何ンゾ爲シテ二獨リ異ナルヿヲ一而不ンヤレ從二先輩ニ一乎と書べきを、吾何ンゾ不シテレ従二先輩ニ一而獨爲ンヤレ異ヲ乎と書く。是レにては華人に讀しむる寸は吾何ンゾ不ンヤ二(*ママ)從テ二先輩ニ一而獨為サ一レ(*ママ)異ヲ乎と云ふ意にほかは讀ぬなり。若し吾不レ從二先輩一何ゾ爲ン二獨異ヲ一也とすれば、まだ文章になるなり。文章は如レ此毫釐を爭ふものと知べし。且ツ獨爲と爲獨との別も分明なるヿなり。此上に又タ章の倒錯あり。余別に説あり。此に略す。此を三倒錯と云ふ。
謬用は文章第一の難事にて、 本邦古來より先輩・宿儒皆此を免ヿ能ず。夏人と云ども、後世の文には間あり。夏人の文なりともゆだんすべからず。矧や徂徠・南郭などの文を的にして、徂徠の文に此、南郭の文に此ありなんどゝ云て文章に用るこそ片腹いたく危きヿなり。助字の謬用あり、疑字の謬用あり、句の謬用あり、事の謬用あり、是を四謬用と謂ふ。助字の謬用とは、矣の字を置べき所に也の字を置き、也の字を置べき所に焉の字を置なぞの事を云ふ。疑字の謬用とは、言の字を用べき所に謂の字を置き、謂の字を用ゆべき所へ云の字を用ひ、無の字を用べき所へ莫の字を用ひ、弗の字を用べき所へ不の字を用るヿなぞを云ふ。句の謬用とは、古人の序属三秋と云ふ句に本き、時属ス二夕陽ニ一と用ふ。又古人の出没望二平原ヲ一と云ふ句に本き、曠原出没と用るなぞを云。事の謬用とは、故事の用やう其文章と相應せぬヿを云ふ。此は易(*L やすき)レ知(*L しれ)ヿのやうにて却て氣の付ぬ所に甚だ多きものなり。兎角識者の手を経ざれば人前へ文章は出れぬヿと心得べし。
四謬用の外に成語の謬用あり。是は韓昌黎家の文と中郎家(*袁宏道)の文を爲者には無きヿなり。唯李王家の斮拔文に極メて多し。假如ば荘子の唯松柏獨リ也在テ二冬夏一々とあるを斮拔て、唯檜獨リ也也と使て、在テ二冬夏一々を棄。凡そ也に句尾の也あり、句中の也あり。句中の也は語助にて、莊子の獨也は獨也と云には非ず、やはり獨也と云ふヿなり。獨也在二冬夏一云々と連属して始て竒なり。唯檜獨ナリ也と也の字にて切てしまへば、莊子の成語を斮拔とは云れぬなり。妙くも何ともなき語となる。修辞を為者此等の所に心を付べし。孟浪杜撰(*L めつたむしやう)に古書を斮拔ばかりを修辞とは云ぬなり。古書の成語を全く用るとも、斷前歇後して用るとも、文章に施して妙(*L をもしろき)なるを辞を脩するとは云ふなり。
華音に通ぜざれば文章は出來ものゝやうに言人あり。大なる妄なり。華音に通ぜば、夏人と話をするには善るべけれども、書を解す足にもならず、文章を作る足には猶ならず。信に學の爲には罌粟ほども益にたゝぬなり。凡ソ文章は古人の言を文字に属なり。言は世に因て変ず。今の言の音に通じたりとも、奚ぞ古言を文する益とならんや。今試に文章家常用の也矣の助字を挙て之を証せん。夏商の代の人の言語に也矣の餘声なし。故に夏商以上の文辞に也矣の助字なし。周の初メに至て始て矣の餘声あつて文辞に矣の助字あり。其中葉に及んで言語に也の餘声ある寸は文辞に又也の助字あり。後チ隋唐の代よりして也矣の餘声絶たり。故に俗語小説の書に一字の也矣の助字なし。既に唐の代には也矣の字の用ヒやうを知ラざる人あり。以て今の華音を知るの古文に無益なるを見ルべし。去ば夏人も今の言を直に筆すれば俗語小説の文となる。文章に至ては古言に資。古言は今の世に生レて聴ヿを得べからず。故に是を古書中に求メて法とするヿ、 本邦に異なるヿ無し。然るを、華音を知ルに夸り、夏人に逢に誇る。其識量も推測れて痛し。夫レ豪傑ノ士は古ヘの高名なる夏人をさへ畏に足ずとす。矧や今の夏人をや。今の夏人の紳縉(*ママ)先生をだも軽じ視る。况や長アへ来る商賈夏人をや。予甞近世の夏人の文を見るに、徃徃讀に足ず。孰か 日本の文章中夏に劣と謂や。【隋唐演義・艶史などに也矣の助字ある所あり。是別に説あり。】
華音に通ぜざれば俗語小説の書を讀ヿ能ワず。且ツ俗語の文を爲ヿ能ずと云ふ人あり。是亦た妄なり。予幼日好ンで小説の書を讀ンで兒戯に充。華音を知ラずと云へども、金瓶梅・水滸傳・西游記・龍圖公案等の諸書讀べからざる無し。又俗語の文に至ては、反て正文章よりは為やすし。予即ち俗語を以て一事を記して左に挙。以て余ガ言の誕妄(*L をゝきなくち)ならざるを明す。
慶長中板倉侯為ルノ二京兆一日、四條ニ有二一長者一。家富(*L しんだい)巨萬(*L をゝく)生メリ二三子ヲ一。疾ヒ篤ク自知リレ不ルヲ(*L ぬ)レ起(*L なをら)、因テ呼ビ二三子ヲ一、至ラシメ二床前ニ一、交二與(*L わたし)ス大壷蘆(*L をゝきなひやうたん)各〳〵一枚ヲ一。其中無二甚物事(*L なんにも)一、只ダ上ニ題ス二児子名字(*L こどものな)ヲ一。不二多日ナラ一(*L ほどなく)竟ニ(*L とう〳〵)死ス。不下以二言語を一嘱付(*L ゆいごん)セ上。又タ(*L なし)没二分関(*L あとしきの)開冩(*L ゆいでう)一、親眷(*L しんるい)ク隣(*L きんじよ)都テ来リ(*L より)共ニ(*L あひ)商量(*L そうだん)スレドモ、不レ知二是壷蘆何縁故(*L わけ)ヲ一。聞テ二板倉侯既ニ極テ明白ナルヲ一、遂ニ將(*L もつて)二夫ノ遺(*L のこしをく)壷蘆ヲ一赴テ二府中(*L やくしよ)ニ一、告グ。侯即チ令下二三児ヲ一各〳〵排中立セ(*L ならべたて)其壷蘆ヲ上。只ダ小児ノ壷蘆正立(*L しやんとたつ)シテ不レ傾カ(*L かしが)、餘(*L ほか)ハ皆倚テ(*L よせかけ)レ物ニ纔(*L やつと)立ツ。侯道你(*L なんぢ)ガ父の意思(*L れうけん)分明(*L さつぱりしれた)。将て二個家資(*L しんだい)ヲ一盡ク(*L のこらず)付シ(*L やり)二小子ニ一、管シテ(*L つかさどらせ)做二了大宗(*L ほんけ)ト一、別ニ分テ二産業(*L すぎわい)ヲ一、與ヘ二二長児(*L あにども)一、倚テ二大宗ニ一做スナリ二了小宗(*L いへわかれ)ト一。不レ知小子ノ材幹(*L きれう)超二越スルヤ長児ニ一邪。一干人(*L かゝりあひのもの)見テ二侯ノ解キ得テ(*L さばき)有ヲ一レ理(*L どうり)、驚二服(*L かんしん)シテ其明察ニ一、各〳〵謝シテレ恩ヲ(*L ありがたがつて)而去ル。
世の文人皆自ら知ヿ能ず。先ヅ己レが文章の佳否に暗し。况や人の文章の議論をや。予甞て能世人の知ル所の諢話數十を記して一時の間を遣る。固より不朽の意なければ、諸家の体筆に任て發す。強て撿せず。間志彀を著す志シあり。因て出して人に示すに、余が初より不滿とするをば、人反て口を極メて之レを稱し、余が佳とする所は人却て不滿の色あり。是に於て昌黎(*韓愈)が言の信然なるヿを知り、果して文章に通ぜる者少きを知レり。今其中ち短簡の者五首を左に挙ぐ。人以て孰をか是とし孰をか非とするや。
婢(*L こしもと)奉ズ(*L もてくる)レ茗ヲ(*L ちやを)。主人(*L だんな)時ニ有(*L にて)二小恙(*L ふぐはい)一、服ス(*L のむ)二某ノ剤(*L くすり)ヲ一。因テ以テ為(*L して)二湯藥(*L せんやく)ト一、加ヘテレ額(*L ひたい)ニ拜スレ之ヲ。婢詿三爲主人有テレ情(*L きが)而戯二於我一矣。故ラニ(*L わざと)献ジレ媚ヲ低声シテ(*L こへをひそめ)曰、如(*L い)二内子(*L をくさま)の見ルヲ一焉何ン。
家〳〵架シテ(*L つり)二版閣(*L たな)ヲ一以テ祀ルレ神ヲ。蓋シ 本邦ノ之俗(*L ならはし)ト云フ。某(*L なにがし)ノ人資産(*L しんだい)屡〳〵空シ(*L わるくなり)、一日(*L あるひ)閣上(*L たなのうへ)如シレ有ルガ二音声(*L こへ)主人(*L ていしゆ)喜ンデ以為ラク、吉神(*L ふくのかみが)來格スト(*L をいでなさつた)。設(*L あげ)テレ蘸(*L をみき)ヲ請フ(*L いのる)レ冨(*L しあはせ)ヲ。俄ニシテ而神墜(*L をつ)二乎閣ヨリ一。視レバレ之、則削面(*L けづれるかほ)・焦髪(*L かれたかみ)、短身(*L せいひきく)・骨立(*L やせこけ)、索帯(*L かわのをび)・弊衣(*L やぶれきもの)、厳然タル(*L きつとした)究鬼(*L びんぼうがみ)也也。主人驚キ恚リ詈テ曰、凡ソ使(*L しむるヿ)二レ吾ヲ面目可レ憎、語言無ラ一レ味ヒ、若二干(*L そこばく)年ナル於今ニ一者ハ、職シテ此レ之由レリ(*L ぜんたいこいつがわざじや)。吾今ニシテ而后得タリレ反ヘスヿヲレ之ヲ也。迺チ圜縛シテ(*L くる〳〵まいて)投ズ(*L すてむ)二諸レヲ埜外(*L のはら)ニ一。還則閣上又有レ声、主人復タ喜ンデ告二其人(*L たなのもの)ニ一曰、究鬼既ニ去テ、而吉神實ニ格レリ矣。因テ屛(*L めて)レ息ヲ(*L いきを)潜ニ(*L そつと)聴バ、究鬼ノ申ル也(*L するなり)二令ヲ(*L げじを)於厥下(*L てしたに)一也。曰、毋レ(*L な)レ埀スルヿ(*L はぢへをる)(*未詳)毋レ(*L な)二逡巡スルヿ(*L あとしざりする)一、毋レ二横ヘテレ臂ヲ而逼推スコト一。或(*L ひよつと)失セバ(*L そこなはゞ)<レ蹈ヲ(*L ふみ)、亦不三復タ免(*L のがれ)二縲絏(*L しばりあげらるゝ)ノ之辱(*L はぢ)ヲ一矣。
客謂テ二北里ノ妓ニ一曰、余レ嘗テ(*L まへに)與二友人一上リキ二南樓(*L しながは)ニ一。樓上壁間、(*L かべ)掛二逹磨ノ畫ヲ一。筆力雄古(*L ひつせいたゞでなひ)、友人ノ曰、此ノ画探幽也也。余問ヘバレ之ヲ、則彼中(*L みんな)ノ諸妓(*L じよろう)都テ不レ知三探幽為ルヲ二何物一、大イニ失ヘリ(*L さめた)レ趣キヲ(*L きやうが)矣。妓笑テ曰、丈夫責二於人ニ一、終ニ無ヒカナレ已夫。南方ノ(*L しながはの)卑婢(*L じようろしゆ)、如何ンゾ(*L どうして)又知ン二尊者(*L だるまさんの)ノ別号ヲ(*L はいみやうを)一哉。
聾者(*L つんぼ)牽(*L ひいて)レ狗ヲ而行ク。友人(*L ともだち)(*原文「た」)途而遇。曰、間ロ何ンゾ闊ナル也(*L このごろはをとう〴〵しき)。聾者ノ曰、狗也也。大人(*L をやじどの)無シヤレ恙(*L をかはりも)。曰、去テ而殺スレ之ヲ也。(*恙と蝿の聞き違えか。)
本邦児子ノ字訓與二虎ノ音適〻同ジ客(*L あるひと)有リ下不レ知二音訓(*L こへ・よみ)ヲ一者上、觀テ二龍虎画ヲ一、而不二復タ知ラ一レ之ヲ。問テレ人ニ曰、此何ニ物ゾ也。對テ曰、拏二攫スル雲間ニ一者ハ龍也。眈視負ルレ嵎ニ者ハ虎也也。客愕然トシテ駭キ嘆ジテ曰、奚ンゾ子ニシテ而不ルレ似レ親ニ也。斯親ニシテ也而有ル二斯子一也。而今(*L けうよりして)而後、吾レ始テ知レリ二造化不一レ可レ測矣。
他人の文を察せんと欲セば、先づ己れに其眼目を具せざれば、皮相の論なり。文章凡そ一句の陳言なく、一字の冗長なく、古人を剽襲せず、己れより出サず、雄渾にして法を失ざるを昌黎家の文と謂。浮靡にして間斷前歇後ある文を六朝風と云フ。【冗長對耦の文も又六朝に属す。】古人の成語を襲剽し、或は首尾を棄て衷を用ひ、衷を棄て首尾を用ひ、戟舌棘口(*L むづかしく)、讀べからず解すべからざる文を李王の修辞と云ふ。近世一種の文を為者あり。李王の戟舌(*L むつかしき)に厭て韓柳の去がたきを知、論を立て曰く、法を韓柳に採辞を李王に脩むと云ふ。此を菽麥を辨ぜぬ白癡(*L をゝばか)と謂べし。李王の奴隷(*L しりにつひて)となつて、成語を斮拔に汲汲して、彼此掇合せて文章とするヿは昌黎家の文になきヿなり。予平生に言、平々坦々(*L こゝろやすき)讀やすき文にても、成語を成語を剽襲するをばどこまでも李王家の文と謂べし。性靈より發して、古へに據ず、能く物々事々其委曲詳密を盡し、必しも古文を書ず、己れが文を為軽俊、其詩と趣を同ふす。是を中郎家の文と謂。今の文章、此四ツを以て括べし。假如吾は宋濂(*字景濂)が文を為、誰は宗臣(*字子相)を學ぶ(*ママ)、某は鍾伯敬(*名惺)を為、彼は汪道昆(*字拍玉)を擬すなどゝ詈ども、其文を見れば己が似せんと欲する人の成語を處々採か、又は其人の著ス文章の體を智も無く完で似せるか又は少ばかり似せるかにて、結ところは上の四ツに出ず。此外に小説の文あり。又何ンとも名の命られぬ文章あり。之を骨董文章と謂ふ。又夏にも非ず日本にも非ず、名て軸羅文(*筑羅。筑紫か新羅かの略で、どっちつかずの意。)と云ふ。漢以上は舎て論ぜず。魏晋氏より以下、本邦文章あつて以来、此七ツを以て天下の文を盡すと云フ。
世の學者志シ陋く量小く、識足ず。故に古人を畏るゝヿ鬼神の如し。徂徠・南郭と謂ば、及バぬものゝやうに覺へ甘じて其奴隷となる。反て歐陽永叔(*名脩)・袁中郎なぞの文をば目にも見ず、悪ものと會(*L こゝろへ)て長物(*L のけもの)として居。是レ皆徂徠に誑さるゝなり。歐陽・中郎の昌黎に如ざるは論なし。然れども于鱗・元美が豈能く及ぶ所ならんや。况や徂徠・南郭をや。若し昌黎を為ヿ能ずんば、歐陽は云に及ばず、中郎を為も文章たるヿを失ハず。李王の文を為に勝るヿ萬々。
世の人識量なし。故に古文辞に非れば時俗に遭ざるを以て、時好に從ひ古文辞を奉ずるヿ律令の如し。能く此時好に惑れざるを豪傑の士と謂。昔し李于鱗没して後、王元美獨り天下の文盟を主る。凡そ海内の縉紳大夫は云ふに及ばず、僧道醫卜の徒に至るまで、文章に志す者爭て其門に趣ざる者なし。學者是を崇ヿ泰山の如くす。此隆なるに方て袁中郎勃然として其際(*L あひだ)に崛起し、公然(*L はゞかるヿなく)と古文辞の非を指斥し、別に一家を為。天下靡然として是に従ふ。中夏今に至て古文辞の弊を免る。中郎が此道に功ある、亦小々ならず。中郎が修辞を駁するの初め、元美猶生存せり。元美も亦中郎が爲に化せられ、本來(*L むまれ)英邁の才氣是に於て油然として發出し、多年于鱗が為に誑れたるヿを悟り、晩年の文更に平淡に趣く。將に没せんとするに至て、手に東坡が文を釋ず、竟に之を讀ながら卒せり。是レ元美が元美たる所以なり。如し元美をして于鱗に逢ざらしめば、文章必ず此に止らじ。不幸なるかな。
天地の氣運は久ふして必ず変じ、人情は久ふして必ず厭ふ。能く此机を察するを俊傑の士と云ふ。今や 國家文運隆盛の日に方て人々又李王の古文辞に厭ふ。然れども世儒己れ古文辞を善するには非れども、徂徠に誑され古文辞の斮拔に非レば文章とせず、口チを極めて修辞々々と云ふ。修辞に非れば教とせず。故に學者古文辞に非れば學べき無く、竟に時好となる。百年來の竒才俊傑の士をして手を束て剽襲をなさしむ。悲かな。若し世に予と同志の人あらば、吾レ此道の陳渉たらんと云ふ。
経濟有用の學に非レば、文章春花の如くなりとも、雕蟲の小技のみ。故に英雄たる者、父人を以て稱せらるゝヿを詬とす。然れども太平を潤色すべき者、文章に非れば不可なり。太平の世に生れ、其名を後世に不朽すべき者、文章に非れば為べき無。是余ガ文章を黽勉する所以なり。世の人必しも文章を以て余が本色と謂ヿ勿れ。
作文志彀<了>