伊澤蘭軒 [1-5]

森鷗外
(入力依拠本: 改造文庫〔第2部第465篇〕 改造社出版 1940.10.12)
※ 原作 1916.6-1917.9(「東京日日新聞」、「大阪毎日新聞」) 
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※ 人名注記は辞書、WEB記事、筑摩版全集、松木明『渋江抽斎人名誌』等を参照した。

最終更新日2005.10.11

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その一
頼山陽寛政十二年十一月三日に、安藝國廣嶋國泰寺裏門前杉木小路の父春水の屋敷で、かこひの中に入れられ、享和三年十二月六日まで屏禁せられて居り、文化二年五月九日に至つて、「門外も爲仕度段、存寄之通可被仕候」と云ふ淺野安藝守重晟しげあきらが月番の達しに依つてゆるされた。山陽が二十一歳から二十六歳に至る間の事である。疇昔より山陽の傳を作るものは、皆此幽屏の前後に亙る情實を知るに困んだ。森田思軒も亦明治二十六七年の交「頼山陽及其時代」を草した時、同一の難關に出逢つたのである。
然るにこれに先つこと數年、思軒の友高橋太華が若干通の古手紙を買つた。それは菅茶山伊澤澹父いさはたんふと云ふものに與へたものであつて、其中の一通は山陽幽屏問題に解決を與ふるに足る程有力なものであつた。
思軒は此手紙に日附があつたか否かを言はない。しかし「手紙は山陽まさに纔に茶山の塾を去りて京都に帷を下せる時書かれたる者」だと云つてあるに過ぎぬから、恐くは日附は無かつたのであらう。
山陽文化六年十二月二十七日に廣嶋を立つて、二十九日に備後國安那郡やすなごほり神邊かんなべの廉塾に著き、八年閏二月八日に神邊を去つて、十五日に大坂西區兩國町の篠崎小竹方に著き、數日の後小竹の紹介状を得て大坂を立ち、二十日頃に小石玄瑞を京都に訪ひ、玄瑞の世話で新町に家塾を開いた。思軒茶山の手紙を以て此頃に書かれたものと判斷してゐたのである。
茶山の此手紙を書いた目的をば、思軒が下の如くに解した。「其の言ふ所は、此たひ(ママ)杏坪きゃうへいが江戸に上れるついで、君側の人に請うて山陽の事を執りなし、京都より歸りて再び之を茶山の塾に托せむと欲する計畫ありとか傳聞し、山陽の舊過を列擧し、己れが山陽に倦みたる所以を陳じて以て澹父の杏坪の計畫に反對せむことを望みたるなり」と云ふのである。計畫とは山陽の父春水等の計畫を謂ふ。春水等は山陽の叔父杏坪をして淺野家の執政に説かしめ、山陽の京都より廣嶋に歸ることを許さしめむとしてゐる。さて廣嶋に歸つた上は、山陽は再び廉塾に託せられるであらう。しかし茶山は既に山陽に倦んでゐて、澹父をして杏坪を阻げしめむと欲するのだと云ふのである。
此伊澤澹父とは何人であるか。思軒はかう云つた。「澹父の何人なるやは未だ考へずと雖も、書中の言によりて推量するに、葢備後邊の人の江戸に住みて、藝藩邸には至密の關係ありし者なるべし」と云つた。
思軒の「頼山陽及其時代」が出てから十九年の後、大正二年坂本箕山の「頼山陽」が出た。箕山は同一の茶山の手紙を引いて、手紙の宛名の人を伊澤蘭軒だと云つてゐる。わたくしは太華が買つたと云ふ茶山の手紙の行方を知らない。推するに、此手紙はどこかに存在してゐて、箕山さんもこれを見ることを得たのではなからうか。
わたくしは伊澤蘭軒の事蹟を書かうとするに當つて、最初に昔日高橋太華の掘り出した古手紙の事を語つた。これは蘭軒の名が一時いかに深く埋沒せられてゐたかを示さむがためである。

その二
わたくしの知る所を以てすれば、蘭軒の事蹟の今に至るまで記述を經たものは、坂本箕山さんの「藝備偉人傳」中の小傳と、頃日圖書館雜誌に載せられた和田萬吉さんの「集書家伊澤蘭軒翁略傳」との二つがあるのみである。
しかし既に此等の記述があるのに、わたくしが遲れて出て、新に蘭軒の傳を書かうとするには、わたくしは先づ自己の態度を極めなくてはならない。わたくしが今蘭軒を傳ふることの難きは、前に澁江抽齋を傳ふることの難かりし比では無い。抽齋と雖、人名辭書がこれを載せ、陸羯南くがかつなんが一たびこれがを立てたことがあつた。只彼人名辭書の記載は海保漁村の墓誌の外に出でず、羯南の文も亦經籍訪古志の序跋を參酌したに過ぎぬに、わたくしは嗣子さんの手から新に材料を得た。これに反して蘭軒の曾孫めぐむさんと、其宗家の當主信平さんとの手より得べき主なる材料は、和田さんが既に用ゐ盡してゐる。就中さんの輯録した所の材料には、「右蘭軒略傳一部帝國圖書館依囑に應じ謹寫し納む。大正四年四月八日」と云ふ奧書がある。わたくしは和田さんが材を此納本に取つたことを疑はない。わたくしの新に伊澤氏に就いて、求め得べき材料は、此納本に漏れた選屑に過ぎない。しや其選屑の中には、大正五年に八十二歳の齡を重ねて健存せる蘭軒の孫女おそのさんの談片の如き、金粉玉屑があるにしても。
蘭軒を傳ふることが抽齋を傳ふるより難いには、猶一の輕視すべからざる理由がある。それは澁江氏には「泰平千代鑑」と題するクロオニツクがあつて、帝室、幕府、津輕氏、澁江氏の四欄を分つた年表を形づくつてゐるのに、伊澤氏には編年の記載が少いと云ふ一事である。強ひて此缺陷を補ふべき材料を求むれば、蘭軒には文化七年二月より文政九年三月に至る「勤向覺書つとめむきおぼえがき」があり、其嗣子榛軒には嘉永五年十月二十一日より十一月十九日に至る終焉の記があるのみである。獨り榛軒の養嗣子棠軒は、嘉永五年十一月四日より明治四年四月十一日に至る稍詳密なる「棠軒公私略」を遺し、僅に中間明治元年三月中旬より二年六月上旬に至る落丁があるに過ぎぬが、其文には取つて蘭軒榛軒二代の事跡を補ふべきものが殆無い。
わたくしは自己の態度を極めたいと云つた。しかしつく\〃/これを思へば、自己の態度を極めることが不可能ではないかと疑ふ。わたくしは少くもこれだけの事を自認する。若しわたくしが年月に繋くるに事實を以てしようとしたならば、わたくしの稿本は空白の多きに堪へぬであらう。さんの作つた蘭軒略傳が既に編年の行状では無い。その蘭軒前後に亘つた「歴世略傳」も亦同じである。さんの記載に本づいたらしい和田さんの略傳も亦編年では無い。藝備偉人傳は、蘭軒を載せた下卷がわたくしの手許に無いが、同じ著者の「頼山陽」に引いた文を見れば、亦復編年では無ささうである。おそのさんの談話の如きは、固より年月日を詳にすべきものに乏しい。わたくしは奈何して編年の記述をなすべきかを知らない。

その三
わたくしはかう云ふ態度に出づるより外無いと思ふ。先づ根本材料は伊澤徳さんの蘭軒略傳乃至歴世略傳に據るとする。これは已むことを得ない。和田さんと同じ源を酌まなくてはならない。しかし其材料の扱方に於て、素人歴史家たるわたくしは我儘勝手な道を行くことゝする。路に迷つても好い。若し進退きはまつたら、わたくしはそこに筆を棄てよう。所謂行當ばつたりである。これを無態度の態度と謂ふ。
無態度の態度は、傍より看れば其道が險惡でもあり危殆でもあらう。しかし素人歴史家は樂天家である。意に任せて縱に行き横に走る間に、いつか豁然として道が開けて、豫期せざる廣大なるペルスペクチイウが得られようかと、わたくしは想像する。そこでわたくしは蘇子の語を借り來つて、自ら前途を祝福する。曰く水到りて渠成ると。
系譜を按ずるに、伊澤氏に四家がある。其一は旗本伊澤である。わたくしは姑く「總宗家」と名づける。其二は總宗家四世正久の庶子にして蘭軒高祖父たる有信の立てた家で、今麻布鳥居坂町の信平さんが當主になつてゐる。さんの謂ふ「宗家」である。其三は宗家四世信階が一旦宗家を繼いだ後に分立したもので、蘭軒信恬のぶさだは此信階の子である。さんの謂ふ「分家」で、今牛込市が谷富久町に住んでいるさんが其當主である。其四は蘭軒の子柏軒信道が分立した家で、さんの謂ふ「又分家」である。當主は赤坂氷川町の清水夏雲さん方に寓してゐる信治さんである。
總宗家の系圖には、わたくしは手を觸れようとはしない。其初世吉兵衞正重は遠く新羅三郎義光より出でてゐる。此にさんの補修を經た有形ありかたの儘に、單に歴代の名を數ふれば、義光より義清清光信義信光信政信時時綱信家信武信成信春信滿信重信守信昌信綱信虎を經て晴信に至る。晴信機山信玄である。晴信より信繁信綱信實信俊信雄信忠を經て正重に至る。正重を旗本伊澤の初世とする。要するに旗本伊澤は武田氏の裔で、いさはの名は倭名抄に見えてゐる甲斐國石禾いさわに本づいてゐるらしい。
總宗家旗本伊澤より宗家伊澤が出でたのは、初世正重、二世正信、三世正岸を經て、四世正久に至つた後である。系圖を閲するに、伊澤氏は「幕之紋三菅笠、家之紋蔦、替紋拍子木」と氏の下に註してある。初世吉兵衞正重天文十年に參河國で生れ、慶長十二年二月二日に六十七歳で歿した。鐵砲組足輕四十人を預つて、千五百五十三石をんだ。二世隼人正はいとのかみ正信東福門院弓氣多攝津守昌吉の次男で、正重の女婿である。正信文祿四年に生れ、寛文十年十二月二日に七十六歳で歿した。わたくしの所藏の正保二年江戸屋敷附に「伊澤隼人殿、本御鷹匠町」と記してある。肩には役が記して無い。三世の名は闕けてゐる。只元和七年に生れ、延寳二年六月十六日に五十四歳で歿したとしてある。然るに徳川實記に據れば、隼人正正信の子は主水正もんどのかみ政成である。延寳中の江戸鑑小姓組番頭中に「伊澤主水正、三千八百石、鼠穴、父主水正」がある。即ち此人であらう。
系圖には政成が闕けてゐて稍不明であるが、要するに旗本伊澤は正保中には鷹匠町、延寳以後には鼠穴に住んでゐて、千五百五十三石より三千八百石に至つた。

その四
蘭軒の高祖有信が旗本伊澤の家から分れて出た時の事は、蘭軒の姉幾勢きせの話を、蘭軒の外舅飯田休庵が聞いたものとして傳へられてゐる。それはかうである。有信は旗本伊澤の家に妾腹の子として生れた。然るに父の正室が妾を嫉んで、害を赤子に加へようとした。有信の乳母が懼れて、幼い有信を抱いて麻布長谷寺に逃げ匿れた。當時長谷寺には乳母の叔父が住持をしてゐたのだと云ふ。乳母の戒名は妙輪院清芳光桂大姉である。
有信の生れたのは天和元年だと傳へられてゐる。此時旗本伊澤の家は奈何なる状況の下にあつたか。
當主は初代正重より四代目の吉兵衞正久であつた。江戸鑑を撿するに、襲家の後寄合になつて三千八百石を食み、鼠穴に住んでゐた。有信が鼠穴住寄合伊澤主水正の家に生れたことは確實である。
有信が生れた時、父正久が何歳になつてゐたかと云ふことは、幸に系圖に正久の生沒年が載せてあるから、推算することが出來る。正久萬治二年に生れ、寛保元年に八十三歳で歿したから、天和元年(底本原文「天保元年」)には二十三歳であつた。
正久の正室は書院番頭三枝さいぐさ土佐守惠直よしなほの女である。これが庶子に害を加へようかと疑はれた夫人である。
別に歴世略傳有信の父と云ふものが載せてあるが、これは正久と別人でなくてはならない。又有信の實父でありやうがない。其文はかうである。「初代有信、通稱徳兵衞、父流芳院春應道圓居士、元祿四年辛未五月十八日、二十二歳」と云ふのである。若し流芳院を正久だとすると、此年齡より推せば、寛文十年に生れ、天和元年に十二歳で有信を擧げたことゝなる。按ずるに流芳院は有信の實父ではあるまい。若し有信の實父だとすると、年月日若くは年齡に錯誤があるであらう。
わたくしは長谷寺に潜んでゐる幼い有信の行末を問ふに先だつて、有信を逸した旗本伊澤、即總宗家のなりゆきを一瞥して置きたい。それは旗本伊澤の子孫が所謂宗家、分家、又分家の子孫とは絶て交渉せぬので、後に立ち戻つて語るべき機會が得難いからである。

その五
有信の父旗本伊澤四世吉兵衞正久は、武鑑を撿するに、元祿二年より書院番組頭、十四年新番頭、十五年より小姓組番頭、寳永四年より書院番頭を勤め、叙爵せられて播磨守と云ひ、享保十七年には寄合になつてゐた。邸宅は鼠穴から永田馬場に移された。正久は系圖に據るに萬治二年生で、寛保元年に八十三歳で歿した。
五世吉兵衞方貞は系圖に據るに、享保元年生で、明和七年に五十五歳で歿した。寳暦十年の武鑑を撿するに、方貞も亦に同じく播磨守にせられ、書院番頭に進んでゐた。邸宅は舊に依つて永田馬場であつた。
六世内記方守は系圖に據るに、明和四年正月二十七日に生れた。又武鑑に據るに、寛政六年十月より先手鐵砲頭を勤めてゐた。文化の初の寫本千石以上分限帳に、「伊澤内記、三千二百五十石、三川岱みかはだい」としてある。此後は維新前に至るまで、旗本伊澤は赤坂參河臺に住んでゐた。
七世主水文化三年より火事場見廻り、文化九年より使番を勤めた。此役が十二年に至るまで續いてゐて、十三年には次の代の吉次郎が寄合に出てゐる。淺草新光明寺に「先祖代々之墓、伊澤主水源政武」と彫つた墓石がある。此主水の建てたものではなからうか。
八世吉次郎文化十三年の武鑑に始めて見えてゐる。「伊澤吉次郎、父主水三千二百五十石、三川だい」と寄合の部に記してあるのが是である。此より後文政三年に至るまでの五年間は、武鑑の記載に變更が無い。文政四年には寄合の部の同じ所に、次の代の助三郎が見えてゐる。
九世助三郎政義文政四年の武鑑寄合の部に、「伊澤助三郎、父吉次郎、三千二百五十石、三川だい」と記してある。此役が天保二年に至るまで續いて、三年には中奧小姓になつてゐる。六年には叙爵せられて攝津守と稱し、猶同じ職にゐる。九年には美作守に轉じて小普請支配になつてゐる。つい政義十年三月に浦賀奉行になつて、役料千石を受けた。十三年三月に更に長崎奉行に遷されて、役料四千四百二俵を受けた。そして弘化二年に至るまでは此職にゐた。弘化三年の武鑑が偶手元に闕けてゐるが、四年より嘉永五年に至るまで、政義は寄合の中に入つてゐる。嘉永六年十二月に政義は再び浦賀奉行となり、安政二年八月に普請奉行となり、三年九月に大目附服忌令分限帳改となり、四年十二月に江戸町奉行となり、五年十月に大目附宗門改となり、文久三年九月に留守居となり、元治元年七月十六日に此職を以て歿した。法諡して徳源院讓譽禮仕政義居士と云ふ。墓は新光明寺にあつて、「明治三十五年七月建伊澤家施主八幡祐觀」と彫つてある。
さんは嘗て「正弘公懷舊紀事」を閲して、安政元年に米使との談判に成つた條約の連署中に、伊澤美作守の名があるのを見たと云ふ。これは頃日このごろ公にせられた大日本古文書に見えてゐる米使アダムスとの交渉で、武鑑に政義の名を再び浦賀奉行として記してゐる間の事である。文書に據れば、政義の職は下田奉行で、安政元年十二月十八日の談判中に、「美作守などは當春より取扱居、馴染之儀にも有之」云々と自ら語つてゐる。
十世助三郎は慶應武鑑の寄合の部に、「伊澤力之助、父美作守、三千二百五十石、三河だい」と記してある。新光明寺に顯享院秀譽覺眞政達居士の法諡を彫つた墓石があつて、建立の年月も施主の氏名も政義の墓と同じである。或は政達が即ち力之助の諱ではなからうか。

(*その5 <了>)

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