『渋江抽斎』と一粒金丹その他
──古谷義昭様ご提供の写真の紹介、朝山意林庵のことなど
原念斎『先哲叢談』に江戸初期の儒者朝山意林庵(1589-1664)の伝記を載せている。九条家の諸大夫だったとか、豊前の細川家に、あるいは駿河大納言忠長にいずれも三年ほど仕えたとか言われるが、禄仕することは長くなかった。英武の人といわれる後光明天皇(1633-54、在位1643-54)の晩年(1653年という。)に、処士(士官しない人)でありながら召されて、45歳年下の天皇に経書(周易・中庸等)を御進講したという意林庵の風貌は、当時の儒者の習いとして禿頭に漆で縁取りを施した烏紗巾(黒い紗の頭巾)を被り、素紗の深衣(白い紗の道服)を身に着けたものであった。天皇は親しく「北白河の三位入道」と呼び(この称呼の由来は何だろう)、簀の子に控える意林庵と親しく話を交わしたという(あるいは軍談もあっただろうか)。天皇が弱年で崩御した後は、儒者は隠棲してしまう。
この御進講の頃、洛北の一乗寺辺には石川丈山が凹凸
窠(詩仙堂:1641-72)を建てて住まい、後光明天皇の父帝後水尾上皇は修学院離宮
(1653-55)の造営に着手していた。意林庵自身は、「今の安井の北隣曼珠菴といへる地」に隠棲とあり
(南川維遷『閑散余録』。なお、同書には「淺山彜倫菴」とある)、また「大佛邊に住す」
(尾崎雅嘉『群書一覧』に申斎隆徳『反古攫』の記述として引用)ともあるので、これらに従えば八坂神社の南側の地から方広寺
(大仏殿=現豊国神社)辺に住んでいたことになる。恐らく曼珠庵は東山にあったのだろう。「大仏」の南方には、後光明天皇の月輪陵があった。
意林庵には「詩文集」(『閑散余録』)があったともいうが、『先哲叢談』には小瀬甫庵『太閤記』(1626)の跋は意林庵であるといい、他に意林庵が豊臣秀頼に仕え、『太閤記』もその縁で意林庵が著したという説を紹介している。他には著述が現存しないというのである。
Taijuがあまり校訂のよろしくない金港堂版『先哲叢談』その他をWEBに置いていたことから、今月上旬、青森県の古谷義昭様から問い合わせのメールを頂戴したのが、この小文のきっかけとなった。古谷様所持の『武道要語和抄』
(次のリンクをクリック ⇒ 【画面1】 『武道要語和抄』本文第一葉画像 東洋文庫のWEB目録によれば元禄15年〔1702〕刊。六巻二冊一帙。)は著者について「意林菴 集録」と記述する。古谷様は、これが朝山意林庵である可能性について質され、同時に仮名草子『清水物語』
(1638初版という。)を意林庵作と伝えていることに疑問を示された。『武道要語和抄』が朝山意林庵のことであるとすると、死後40年近く経っての刊行となり、あり得ないことではないとしてもやはり疑問が残る。Taijuはもとより専門家でなく、内容も読んでいないことであり、これ以上の穿鑿めいたことはしない方が無難と、とりあえずのお返事をした。
(仮名草子研究家には、朝山意林庵の著作であるようだと判断した人もいるらしい。)これ以上のことは、小山田与清『松屋筆記』
(巻六)に見えるという意林庵の墓碑銘か、関係論文に当たってみるしかない。『清水物語』の作者についても同様である。
(海野 一隆「『清水物語』の作者」〔「日本古書通信」65−10 2000.10〕等、関係文献があるようだがまだ見ていない。)
メールでの遣り取りの中で、後光明天皇に関して森鷗外の若書きの漢作文があるとお話ししたことから、『渋江抽斎』の収入源であった津軽家の秘方「一粒金丹」の話題を頂いた。この史伝作品の中でこの薬が登場する箇所をGREPで拾ってみると、まず渋江允成が津軽寧親の侍医として三百石二十五人扶持を受けた他に文化十一年(1814)より一粒金丹の調製免許を受けたことから、これだけで毎月百両以上の収益を受けたであろうこと(周知のごとく、『渋江抽斎』はその記述の多くを抽斎の嗣子保の回想録に拠っている。「独立評論」の記事なども、昔のコピーを現在参照することができない)、さらに文政五年(1822)に抽斎が十八歳で家督相続をした際、ただちに一粒金丹の伝授を受けたこと、明治元年(1868)に伊沢棠軒がその禄仕する備後国福山藩の命令で弘前を訪れ、その年引き揚げた渋江氏を訪問したこと、明治五年(1872)に渋江五百が江戸に帰った後、備後福山県と筑後久留米県から一粒金丹のやや大きい注文が来て、抽斎没後は五百がその調製を行っていたことなどが出てくる。Taijuが鷗外研究家の末席を汚さずに済んだのはもう四半世紀も前のことで、たしかその頃にもこの薬の説明を少々見た気がするが、今回、古谷様から改めて教えていただいたのはおよそ次のようなことである。
- 「ケシ栽培が生んだ秘薬」(青森県立郷土館研究主幹本田伸氏)の記事、『日本の名薬』に記載があること。
- 略3mm径の金箔コーティングの丸薬で、一包に2粒入っていた。
- 古谷様がその外包み紙、効能書きを所持していること。
- 度重なる飢饉で、弘前藩江戸屋敷は財政が厳しく、この医薬販売で財政改善に大いに役立った事が推察される。
そして、古谷様からご所持の外包み紙・効能書きの画像をお送り頂いた。ここに転載のご許可を頂いたので紹介する
(次のリンクをクリック ⇒ 【画面2】 「一粒金丹」の外包み紙・効能書き)。中の薬は処分されたということである。効能書きは折り紙(証符)にもなっているが、ここにある連名の近習医師筆頭「中丸昌庵」ともう一人「小野道秀」は、同姓同名の人物が『渋江抽斎』に登場する。この効能書きは「文化十一年」
(1814)とあるが、署名の「湯浅養俊」は第六代
(1858〔安政5〕改名)であり
〔注1〕、それ以降のものであるらしい。允成は宝暦十四年(明和元年)
(1764)生れで天保八年
(1837)に既に没している。文化二年
(1805)生れの抽斎はすでに54歳になっている。抽斎の名が見えないのは、允成と同じく江戸詰の弘前官医であったことによるのかもしれない。文政五年に允成から家督を相続した抽斎は、同十二年
(1829)には抽斎は25歳で近習医者介に任じられている。さて安政五年以降だとすると、この包み紙の道秀は『抽斎』に登場する矢島優善の悪友富穀であり
〔注2〕、渋江優善を矢島に養子縁組みさせた張本人である中丸昌庵
(文政元年生)もここに名を連ねていることになる。優善をめぐる逸話群の主要な登場人物がこの薬包にも姿を現しているわけである。抽斎「述志」の詩は天保十二年
(1841)の作であるから、安楽を銭に換えて貧を憂えなかった抽斎はどの程度この一粒金丹を調製して生活の資としていただろうか、或いは医家の「貧」はやはり詩文の修辞であり、庶民の生活水準で考えては三世劇神仙の伝授などあり得なかったであろうかなど、想像はさまざまである。
〔注1〕 湯浅氏は第四代と第六代が「養俊」を称する。第四代養俊は、出生年不明、天明7年(1787)正甫と改名し、寛政10年(1798)8月13日病死。第六代養俊は、本名湯浅健立、安政5年8月2日に養俊と改名。(古谷様が弘前市立図書館に確認。)
〔注2〕 道秀の父道瑛は渋江本家の本皓の庶子令図であり、「(本皓の)同藩の医官二百石小野道秀」の「末期養子」となっている。この道秀は祖父ということになる。令図は天明三年(1783)生れで安政五年には75歳であり、文久二年(1862)に80歳で没している。そして『渋江抽斎』によれば安政四年に家督を富穀に譲っている。そうするとこの包み紙の道秀は文化四年(1807)生れの富穀であることになる。ただし、令図・富穀父子は抽斎同様「定府」の医官なので、中丸昌庵はさておき、この薬包の能書きに抽斎の名が見えず富穀の道秀だけが名を連ねているいわれが分からない。
なお、この機会に古谷様からは貴重な写真資料を他にもご提示いただいた。これらも転載のご許可を得て以下に紹介する。(他にも、天保〜文久年間の「京暦」や東宮御用係としての三島中州が和歌心得をご進講した際の記録資料等、珍しい古文献をご所持の由、種々ご教示頂いている。)
〔補足〕 写真資料等に関する問い合わせ: 古谷様のメールアドレスは、次の通りである。
(2011.8)