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「乳母のふみ」(庭の訓) 参考資料

2001.2.18 更新

  1. 佐々木信綱標註『標註 庭のをしへ』(弦巻書肆〔東京京橋区南伝馬町〕=弦巻七十郎〔新潟県北蒲原郡葛塚村〕発売所六合館 1892.6.9) 和装本・私家版
  2. *扶桑拾葉集に拠るか。伴高蹊「庭の訓抄」を参考に簡単な頭注を施す。
  3. (編者)「庭の訓抄」他(〈東洋女訓叢書〉2 東洋社 1900-01) ※伴蒿蹊著
  4. 「乳母のふみ」「乳母のさうし」他(〈東洋女訓叢書〉3 東洋社 1900-01)
  5. 關根正直『十六夜日記・庭のをしへ諺解』(〈女学叢書〉3 六合館 1902.8.5)
  6. *「群書類従」に拠るというが…。
  7. 梅沢精一編「庭の訓抄」「乳母の草紙」他(〈武家時代女学叢書〉1 有楽社 1905-06)
  8. 同文館編輯局編「乳母の文」「めのとのさうし」他(〈日本教育文庫〉女訓篇 同文館 1910.9)
  9. 池田亀鑑『王朝女流日記文学』(至文堂 1927.2.15)
  10. *阿仏尼については2章を割く。うち、「安嘉門院四條について」の中に『庭の訓』への言及がある。<次に女院(按ふに龜山院の新陽明門院ならん)に奉仕する女は、殘月抄に、「紀内侍也、阿佛の庭の訓に、紀内侍どのへと書れたるこれ也。紀伊といふよび名の内侍なれば、かくは云へるにや、夜の鶴も、庭の訓より以前に、此内侍に書ておくられし書也。父は爲家卿にはあらず」と云つてゐる人であらう。藤岡博士が、鎌倉室町時代文學史二條家略系の條に、紀内侍を爲家の女とせられたのは誤りである。この女も、女院に奉仕して、龜山院の皇子を生み奉つたらしく見えるのであるから、已に二十に達してゐたと思はれ、從つて、定覺の生れたころ、何人かの間に生れたものであらう。(私かに按ずるに、十六夜日記に院の姫宮一所生れさせ給ふ云々とあるは、殘月抄に、女院の姫宮となせど、龜山院の御子を生み奉りしにあらじか、玉井氏またこのことを疑はれたり。)>
  11. 市村平「阿仏尼—閲歴と性格」(「国語と国文学」 1929.8)
  12. 鈴木榮一郎『女訓 乳母の文(傳阿佛尼原作)精義』(弘道館 1936.2.28)
  13. *吉岡郷甫の「序」より−<後世「乳母の草子」「あしの下根」を作るに及んで、孰れも本書を源流にした。>
  14. 比留間喬介 校註『十六夜日記』(〈新註国文学叢書〉 大日本雄弁会講談社 1951)
  15. *附録のうちに「『庭のをしへ』について」がある。
  16. 簗瀬一雄『校註 阿佛尼全集』(風間書房 1958.10.15、増補版 1981.3.31)
  17. *「解題」より−<庭の訓は、一に乳母の文ともいふ。宮中に奉仕してゐる娘(紀内侍)に、書簡體を以て庭訓した女子教養書である。/傳本に廣略の二系統がある。繙讀の便の爲に、廣本を二十一段、略本を十八段に分ち、それ\〃/對應出來るやうに考慮をはらつた。本文は、廣本については、新校群書類從所收本により、群(群書類從所收本)・坊(内閣文庫所藏坊城家舊藏本)の異同を示し、略本については、扶桑拾葉集所收本を底本として、上(國立國會圖書館所藏阿佛乳母文)・抄(庭の訓抄)を校合した。/本書の註釋としては、庭の訓抄(伴蒿蹊)・十六夜日記庭のをしへ諺解(關根正直)・乳母文精義(鈴木榮一郎)及び口譯十六夜日記附録のもの(佐々木信綱)がある。又、石川眞澄の乳母の文釋といふものもあつたらしいが、所在がわからない。こゝには、庭の訓抄の註を附録として、略本に對應する記號を附して、その次に加へた。>
  18. 福田秀一「阿佛尼」(久松潜一 編『日本女流文学史 古代中世篇』 同文書院 1969.3.1)
  19. *中に「庭の訓」について多少触れている。<なお、のちにも触れる「庭の訓」が阿佛の作で、かつ鎌倉から自分の女子に宛てたものとすると、東二條院に仕えていたこの女子がその対象として一見ふさわしいようであるが、実はむしろその点に問題がある。のちにも改めて考えるが、「庭の訓」の相手はその名を「紀内侍」といい、冒頭部の叙述から二十歳少し前と考えられる。したがつて阿佛の子であつて、しかも「庭の訓」が阿佛の鎌倉での作ならば、この女子は爲家と接してからの子となり、前述の源承の語と合わないのである。><ところが、略本の歌についての条を見ると、「歌の姿・趣は夜の鶴に細かに申して候。御覽候へ」とあるので、これが真作であるならば、鎌倉下向後の作となる。したがって、少なくとも略本が真作でないか、相手は「十六夜日記」にいう女子とは別人であるか、の線が強くなるのであるが、一方冒頭部(両本に共通)によると、傍を離れがたい相手であるのに止むを得ず別れて東国へ下つてきているらしく読み取れ、鎌倉から都へ残した女子に与えたもののようにも考えられるのである。(中略)要するに、今の段階では両本とも阿佛の作か否か不明というほかなく、真作としても成立の年代や事情が明らかでないが、阿佛の作とする推測も捨てがたく、今後の検討を待つというところである。ただ、市古貞次氏が指摘されたとおり、室町期の作と思われる「乳母の草子」に略本がほとんどそのまま採られているなど、中世に広く流布したものではあったらしい。>
  20. 次田香澄『うたたね 全訳注』(講談社学術文庫298 1978.11.10)
  21. 森本元子『十六夜日記・夜の鶴 全訳注』(講談社学術文庫373 1979.3.10)
  22. 中島あや子、他編『藤原道信朝臣集・藤原義孝集・めのとのふみ』(在九州国文資料影印叢書刊行会 1979.7)
  23. 松本寧至『中世女流日記文学の研究』(1983)
  24. たみお・まゆみ「『庭の訓』研究—広本・略本の相関面について」(「芸文東海」3 1984.6)
  25. 瀬古信子「『庭の訓(略本)』における『源氏物語』の影響について」(「芸文東海」4 1984.12)
  26. 細野真理「『庭の訓』に関する一考察—略本〔一六〕の読みから」(「芸文東海」6 1985.12)
  27. 向井たか枝「『庭の訓』(めのとの文)と『源氏物語』—女子教訓書と遺言」(「平安文学研究」71 1989.6)
  28. 岩佐美代子「『乳母のふみ』考」(「国文鶴見」26 鶴見大学日本文学会 1991.12.31)

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