title

先哲叢談續編

(東條琴臺著 千鍾房蔵版 明16.11)
  1. 『近世文芸者伝記叢書』第4巻〜第6巻を底本とし、収載の原本影印により気のついた誤りに訂正・注記を施す。(作業中)
  2. 訓は同書収載の『日本偉人言行資料』(国史研究会 大5-6)を基本とする。
  3. 本文には〔原本注記〕(*入力者注記)を含む。
  4. 書き下し文には小見出しがあるが、原本には無いので省略した。
  5. 返り点の一二点は、横書きでも読みやすいようにアラビア数字にした。

日本同我之文、千有餘載矣、若空海之於唐、■(大+周: : :大漢和 )然之於宋、竝以沙門中朝、流芳奕世、矧夫服儒服儒行者、意必有魁梧奇特之材、■(三水+甚: : :大漢和 )深宏通之彦出其中、及略渉其史籍、乃知保元以降、干戈擾攘、風流亦稍歇矣、逮徳川戡定、爭端始息、載崇儒術、三百年來競自琢摩、雖軌跡、其學術亦凡三變、其始、林道春洛■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)之緒、其繼、物茂卿王李之唾、其後、太田元貞狩谷望之漢唐之規、竝卓爾不群、風靡一世、其餘第就耳目所及、或得其一端而眛其生平、或衆口交推、而名實不符、或抗心希古、而聲塵■(門構+貝: : :大漢和 )如、毎恨近代儒林文苑傳之、因以求其撰述、爲■(車偏+酋: : :大漢和 )軒之采、其見角田叢語原氏叢談者、亦似、語焉不詳、且復不近代、其何以慰吾尚友之懷乎、頃者、千鍾書坊、以東條耕先哲叢談續編十二卷序、盖以補原氏初編之遺、而亦稍有續増、其足我聽聞少焉、然自東條氏之沒、又數十年矣、其間名師碩儒記録仍闕、方今日本操觚之家、爭以著述自見、顧使數十年文獻日就■(三水+斯: : :大漢和 )滅、亦非自鏡之道也、若更能就史乘家牒、人自爲傳本末粲然、尤不朽盛業、彼都人士其亦有余言急起而〔脱字カ〕汗青者乎、

光緒癸未冬荊州楊守敬竝書


我大八洲之爲邦、乘震履離、聚天地精華之氣、其民多聰明奇偉之材、稱爲君子國■(女偏+鬼: : :大漢和 )焉、而慶元以來、爲最盛、參之往世知也、上古篤恭之化、千有餘年、其人純質、不事業、是爲徳之世也、中古典章煥然、三百餘年、國有格、朝有式、其人竝以風采威儀顯、是爲禮之世也、天禄以降、風流■(火偏+華: : :大漢和 )然、二百餘年、大堰之船、望以爲神仙、黎壺之選、■(音+欠: : :大漢和 )以爲登瀛、其人竝以詞藝翰札顯、是爲文之世也、保平以降、干戈騒然、殆五百年、源平競雄、南北爭統、合爲兩府、離爲列國、有甲越之兵、織羽之覇出焉、其人竝以籌略戰鬪顯、是爲武之世也、及我東照公之興、既戡禍亂、首延儒聽講、大頒繍版、以勸學者、事必稽古、不其迹、有華有實、文質相適、於是乎、親藩有間平之賢、列國有齊魯之風、廟堂之上、有房杜之比、韓范之徒、而其下有藤・林・源・室諸子、江・崎・伊・物諸人、前後如林而出、其人所顯、不一體、是爲道之世矣、蓋崇文則靡、崇武則亂、至徳崇禮、則宣弊矣、而非質勝文、則文勝質、未道之彬々盡善也、於戲盛哉、廟堂諸公、其人在上、事具簡册、姑置之可、藤・林諸子、其人在下、或參謀議、或備顧問、或務教學、皆有於至治、亦不傳焉、先時原公道、著先哲叢談、傳七十餘人焉、而享保以下、蓋闕如也、吾友東條子藏、有於此一、檢覈攷索、補其所遺漏、又得七十餘人、著于編、以續原氏之書、使予序之、予識子藏久矣、知其學求實蹟華詞、其能成此有用之書宜也、抑清淑之氣日旺、奎文之運日隆、館閣之英、與閭里之俊、繼踵不絶、後之人、豈無復續茲編哉、果然、則子藏亦必與其列歟、是予所於子藏也、而予亦將自勗

                                  鐵研學人齋藤謙(*斎藤拙堂)撰
      明治十六年■(火偏+禾: : :大漢和 )九月下澣爲
      千鍾房主人屬山大■(三水+解: : :大漢和 )書


予十四五時、讀先哲叢談前後編、得惺窩・羅山二先生初講學於戎馬倥偬間、自茲厥後碩學鴻儒比肩而興、彬々乎有於延喜天暦之盛、嘆曰、記述之不以已、一至于此也、顧予生長僻陋下邑、常病見聞不博、今而得昔時、傳先行事之跡與夫風聲之美、所以■(田+比: : :大漢和 )(*毘)補治教、相繼於世々者、豈非此書乎、抑此豈特予而已哉、天下固受其賜者衆矣、蓋此書、原念齋前編、而後編則琴臺東條子藏輯也、念齋歿既久矣、獨琴臺比予入都、年八十餘、儼然尚在、予欲之遊、未刺、而琴臺下世矣、予常以相見憾、間三二歳岡本子訥琴臺晩歳所續編、以示予、凡繼於前後編所載而興者、歴々上編、不數十家、嗚呼琴臺之於記述、可勤矣、予因謂子訥曰、是豈可使湮滅而無傳哉、或曰、此書前後編、文辭猶未雅馴、况茲編、琴臺一屬稿而未訂正、是以考據不確、辭句間、往々不紕繆、未以傳於大方也、予曰、何有於此哉、苟爲之始、後世必有繼而修之、古之從事記述、若司馬子長之博大雄偉、後人猶有摘其繆、君子豈求天下之善盡歸之乎己哉、且琴臺年已老、猶■(石偏+乞: : :大漢和 )々不懈、闡發前人之美、以啓後之學者、比之世之文士、競華鬪麗、徒馳騁於風雲之觀、未年而語也、於是、子訥亦以予言然、與千鍾房主人謀、命工梓之、及刻成、爲録子訥■(宀+眞〈真〉: : :大漢和 )於簡首

   明治癸未十月                甕谷岡松辰竝書


校訂凡例

一、曩時原念齋、先哲叢談を著す、已にして琴臺東條先生、之が後編を作り、且つ將に續編・餘編の作あらんとす、其續編纔に稿を屬す、而して先生下世す、余の東京に居る、先生の嗣子信升と、門に對して居る、朝夕相見え、談偶々之に及ぶ、信升、乃ち嘱するに、斯の編を以てす、曰く此れ先人の遺著、未だ稿を畢らざる者なり、子幸に校正して、諸を世に公にせば、亦善からずや、余是に於て、二三の同好と、相與に魯魚を訂し、以て剞■(厥+立刀: : :大漢和 )氏に授くと云ふ、
一、先生、別に年表一卷を著し、百四十四人の姓名を擧ぐ、然れども編中載する所、之を年表に較ぶるに、頗る異同あり、且つ斯の編年表、以て八卷と爲す、而して今は則ち十二卷を得、蓋し纂輯の際、取捨未だ定まらず、先生亦未だ參伍考定して、以て一に歸するに暇あらず、而して止む、固より其相同じからざるを怪しむこと勿れ、
一、斯編別に副本の與に照比すべきなし、且つ各家の事蹟多きこと、三百餘條に至り、能く其出づる所を審にするなし、蓋し先生の意、散逸を■(手偏+君: : :大漢和 )■(手偏+又四つ: : :大漢和 )し、幽微を闡發するに在れば、則ち或は疑似に渉る者、亦併せ存して以て參考に備ふることなき能はず、今敢て文辭を改定せず、亦敢て一字を移動せず、要は先生の舊を存するなり、校定適々畢る、書估千鍾房、上木を急にして、以て世に問はんと欲す、因て擧げて以て之に附す、或は紕繆あらん、覽者深く咎むるなくんば幸なり、
一、拙堂斎藤先生の序、蓋し先生、後編の著あるに因りて作る者にして、後編に載せず、其何の故なるを知らざるなり、今や先生と拙堂と、皆已に逝けり、而して先生の文章、皆以て後世に傳ふるに足れり、余已に斯編を校す、因て拙堂の序を卷首に■(宀+眞〈真〉: : :大漢和 )く、蓋し延陵劒を掛くるの意なり、
一、予が先人、名は行重、字は士徳、素亭と號す、先生と莫逆の交を爲す、先生後罪を獲、謫せられて、越の高田に在り、歳に必ず一たび來つて信中に遊び、留まること數日、居常に先人と詩酒徴逐す、余幼時亦數々侍して、歡を佐くるを得、先人已に歿す、幾もなくして王室中興す、先生嘗て官に朝に列することを得、之を先人に比するに、其幸不幸如何ぞや、昌黎いへることあり、曰く、之が先たることなくんば、美なりと雖も彰はれず、之が後たることなくんば、盛なりと雖も傳はらずと、余の斯の編に於ける、蓋し先人に代つて、先生の爲めに、休光を百世に傳へんと欲するなり、

    明治癸未初冬              岡本行敏子訥

向に書估慶元堂甘泉生、余が措散分宜史を以て、奇貨置くべしと爲し、之を刊布せんことを請ふ、乃ち謂つて曰く、原念齋が先哲叢談、世に顯ると雖も、其收載する所、僅に七十二家、鉅匠名流遺漏少からず、後を繼ぐの志あるも、未だ果さずして歿す、僕貴著を讀む、宏覽博采、敍事明暢、佳致最も多し、願くは書目を換へ、傚うて後編と作さば、則ち傳播極めて廣まらん、僕の生理の大幸なり(*と)、余素と人の眼脚に依るを欲せず、苦辭すれども允さず、輸寫■(疑の偏+欠: : :大漢和 )誠、至らざる所なし、希合數回、峻拒すべからず、遂に其請に應じて、體裁列に從ひ、敢て其美を襲はずは、以て先鞭の功を對揚するに足らん、念齋、若し之を知るあらば、豈に悦ばざらんや、生(*慶元堂主人)、時情に諳んじ、甚だ貨置に巧にして、剞■(厥+立刀: : :大漢和 )速に成り、初め二千部を刷版す、是より先、坊刻諸書、未だ期年に及ばずして、賣售繁夥、未だ曾てあらざる所なりと云ふ、生、又懇索して、斯編曁び餘別遺三編各十二卷あり、亦陸續之を開雕せんと欲す、故に斯編を以て、剞■(厥+立刀: : :大漢和 )に授く、嗚呼余と志を同じうする者、賢を懿言卓行に希ふあらば、則ち必ずしも小補なしとせず、
                               東條耕識