日本同2我之文1、千有餘載矣、若2空海之於レ唐、■(大+周: : :大漢和 )然之於1レ宋、竝以2沙門1見レ重2中朝1、流2芳奕世1、矧夫服2儒服1操2儒行1者、意必有3魁梧奇特之材、■(三水+甚: : :大漢和 )深宏通之彦出2其中1、及3略渉2其史籍1、乃知保元以降、干戈擾攘、風流亦稍歇矣、逮レ至2徳川戡定1、爭端始息、載崇2儒術1、三百年來競自琢摩、雖レ未レ臻レ極2軌跡1、其學術亦凡三變、其始、林道春振2洛■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)之緒1、其繼、物茂卿拾2王李之唾1、其後、太田元貞・狩谷望之循2漢唐之規1、竝卓爾不レ群、風2靡一世1、其餘第就2耳目所1レ及、或得2其一端1而眛2其生平1、或衆口交推、而名實不レ符、或抗心希レ古、而聲塵■(門構+貝: : :大漢和 )如、毎恨レ不下得2近代儒林文苑傳1讀上レ之、因以求2其撰述1、爲2■(車偏+酋: : :大漢和 )軒之采1、其見2於角田叢語及原氏叢談1者、亦似、語焉不レ詳、且復不レ及2近代1、其何以慰2吾尚友之懷1乎、頃者、千鍾書坊、以2東條耕所レ撰先哲叢談續編十二卷1求レ序、盖以補2原氏初編之遺1、而亦稍有2續増1、其足レ廣2我聽聞1爲レ不レ少焉、然自2東條氏之沒1、又數十年矣、其間名師碩儒記録仍闕、方今日本操觚之家、爭以著2述自見1、顧使3數十年文獻日就2■(三水+斯: : :大漢和 )滅1、亦非2自鏡之道1也、若更能就2史乘家牒1、人自爲レ傳本末粲然、尤不朽盛業、彼都人士其亦有下聞2余言1急起而〔脱字カ〕汗青者上乎、
光緒癸未冬荊州楊守敬竝書
我大八洲之爲レ邦、乘レ震履レ離、聚2天地精華之氣1、其民多聰明奇偉之材、稱爲2君子國1無レ■(女偏+鬼: : :大漢和 )焉、而慶元以來、爲2最盛1、參2之往世1可レ知也、上古篤恭之化、千有餘年、其人純質、不下以2事業1顯上、是爲2崇レ徳之世1也、中古典章煥然、三百餘年、國有レ格、朝有レ式、其人竝以2風采威儀1顯、是爲2崇レ禮之世1也、天禄以降、風流■(火偏+華: : :大漢和 )然、二百餘年、大堰之船、望以爲2神仙1、黎壺之選、■(音+欠: : :大漢和 )以爲2登瀛1、其人竝以2詞藝翰札1顯、是爲2崇レ文之世1也、保平以降、干戈騒然、殆五百年、源平競レ雄、南北爭レ統、合爲2兩府1、離爲2列國1、有2甲越之兵、織羽之覇1出焉、其人竝以2籌略戰鬪1顯、是爲2崇レ武之世1也、及レ至2我東照公之興1、既戡2禍亂1、首延レ儒聽レ講、大頒2繍版1、以勸2學者1、事必稽レ古、不レ泥2其迹1、有レ華有レ實、文質相適、於レ是乎、親藩有2間平之賢1、列國有2齊魯之風1、廟堂之上、有2房杜之比、韓范之徒1、而其下有2藤・林・源・室諸子、江・崎・伊・物諸人1、前後如レ林而出、其人所レ顯、不レ可下以2一體1名上、是爲2崇レ道之世1矣、蓋崇レ文則靡、崇レ武則亂、至2崇レ徳崇1レ禮、則宣レ若レ無レ弊矣、而非2質勝1文、則文勝レ質、未レ若2崇レ道之彬々盡1レ善也、於戲盛哉、廟堂諸公、其人在レ上、事具2簡册1、姑置レ之可、藤・林諸子、其人在レ下、或參2謀議1、或備2顧問1、或務2教學1、皆有レ裨2於至治1、亦不レ可レ無レ傳焉、先時原公道、著2先哲叢談1、傳2七十餘人1焉、而享保以下、蓋闕如也、吾友東條子藏、有レ惜2於此一、檢覈攷索、補3其所2遺漏1、又得2七十餘人1、著2于編1、以續2原氏之書1、使2予序1レ之、予識2子藏1久矣、知下其學求2實蹟1不上レ喜2華詞1、其能成2此有用之書1宜也、抑清淑之氣日旺、奎文之運日隆、館閣之英、與2閭里之俊1、繼レ踵不レ絶、後之人、豈無下復續2茲編1者上哉、果然、則子藏亦必與2其列1歟、是予所レ望2於子藏1也、而予亦將2自勗1焉
鐵研學人齋藤謙(*斎藤拙堂)撰
明治十六年■(火偏+禾: : :大漢和 )九月下澣爲
千鍾房主人屬山大■(三水+解: : :大漢和 )書
予十四五時、讀2先哲叢談前後編1、得レ觀下惺窩・羅山二先生初講2學於戎馬倥偬間1、自レ茲厥後碩學鴻儒比レ肩而興、彬々乎有上レ踰2於延喜天暦之盛1、嘆曰、記述之不レ可2以已1、一至2于此1也、顧予生2長僻陋下邑1、常病2見聞不1レ博、今而得レ審2昔時1、傳3先行事之跡與2夫風聲之美1、所下以■(田+比: : :大漢和 )(*毘)2補治教1、相繼中於世々上者、豈非2此書1乎、抑此豈特予而已哉、天下固受2其賜1者衆矣、蓋此書、原念齋撰2前編1、而後編則琴臺東條子藏所レ輯也、念齋歿既久矣、獨琴臺比2予入1レ都、年八十餘、儼然尚在、予欲レ得2與レ之遊1、未レ及レ通レ刺、而琴臺下世矣、予常以レ不レ得2相見1爲レ憾、間2三二歳1、岡本子訥獲2琴臺晩歳所レ輯續編1、以示レ予、凡繼2於前後編所1レ載而興者、歴々上レ編、不レ下2數十家1、嗚呼琴臺之於2記述1、可レ謂レ勤矣、予因謂2子訥1曰、是豈可レ使2湮滅而無1レ傳哉、或曰、此書前後編、文辭猶未2雅馴1、况茲編、琴臺一屬レ稿而未レ遑2訂正1、是以考據不レ確、辭句間、往々不レ免2紕繆1、未レ可3以傳2於大方1也、予曰、何有2於此1哉、苟爲2之始1、後世必有2繼而修1レ之、古之從2事記述1、若2司馬子長之博大雄偉1、後人猶有下指2摘其繆1者上、君子豈求下擧2天下之善1盡歸上レ之乎己哉、且琴臺年已老、猶■(石偏+乞: : :大漢和 )々不レ懈、闡2發前人之美1、以啓2後之學者1、比下之世之文士、競レ華鬪レ麗、徒馳2騁於風雲之觀1者上、未2同レ年而語1也、於レ是、子訥亦以2予言1爲レ然、與2千鍾房主人1謀、命レ工梓レ之、及2刻成1、爲録乙所下與2子訥1言上者甲■(宀+眞〈真〉: : :大漢和 )2於簡首1、
明治癸未十月 甕谷岡松辰竝書
一、曩時原念齋、先哲叢談を著す、已にして琴臺東條先生、之が後編を作り、且つ將に續編・餘編の作あらんとす、其續編纔に稿を屬す、而して先生下世す、余の東京に居る、先生の嗣子信升と、門に對して居る、朝夕相見え、談偶々之に及ぶ、信升、乃ち嘱するに、斯の編を以てす、曰く此れ先人の遺著、未だ稿を畢らざる者なり、子幸に校正して、諸を世に公にせば、亦善からずや、余是に於て、二三の同好と、相與に魯魚を訂し、以て剞■(厥+立刀: : :大漢和 )氏に授くと云ふ、
一、先生、別に年表一卷を著し、百四十四人の姓名を擧ぐ、然れども編中載する所、之を年表に較ぶるに、頗る異同あり、且つ斯の編年表、以て八卷と爲す、而して今は則ち十二卷を得、蓋し纂輯の際、取捨未だ定まらず、先生亦未だ參伍考定して、以て一に歸するに暇あらず、而して止む、固より其相同じからざるを怪しむこと勿れ、
一、斯編別に副本の與に照比すべきなし、且つ各家の事蹟多きこと、三百餘條に至り、能く其出づる所を審にするなし、蓋し先生の意、散逸を■(手偏+君: : :大漢和 )■(手偏+又四つ: : :大漢和 )し、幽微を闡發するに在れば、則ち或は疑似に渉る者、亦併せ存して以て參考に備ふることなき能はず、今敢て文辭を改定せず、亦敢て一字を移動せず、要は先生の舊を存するなり、校定適々畢る、書估千鍾房、上木を急にして、以て世に問はんと欲す、因て擧げて以て之に附す、或は紕繆あらん、覽者深く咎むるなくんば幸なり、
一、拙堂斎藤先生の序、蓋し先生、後編の著あるに因りて作る者にして、後編に載せず、其何の故なるを知らざるなり、今や先生と拙堂と、皆已に逝けり、而して先生の文章、皆以て後世に傳ふるに足れり、余已に斯編を校す、因て拙堂の序を卷首に■(宀+眞〈真〉: : :大漢和 )く、蓋し延陵劒を掛くるの意なり、
一、予が先人、名は行重、字は士徳、素亭と號す、先生と莫逆の交を爲す、先生後罪を獲、謫せられて、越の高田に在り、歳に必ず一たび來つて信中に遊び、留まること數日、居常に先人と詩酒徴逐す、余幼時亦數々侍して、歡を佐くるを得、先人已に歿す、幾もなくして王室中興す、先生嘗て官に朝に列することを得、之を先人に比するに、其幸不幸如何ぞや、昌黎いへることあり、曰く、之が先たることなくんば、美なりと雖も彰はれず、之が後たることなくんば、盛なりと雖も傳はらずと、余の斯の編に於ける、蓋し先人に代つて、先生の爲めに、休光を百世に傳へんと欲するなり、
明治癸未初冬 岡本行敏子訥識
向に書估慶元堂甘泉生、余が措散分宜史を以て、奇貨置くべしと爲し、之を刊布せんことを請ふ、乃ち謂つて曰く、原念齋が先哲叢談、世に顯ると雖も、其收載する所、僅に七十二家、鉅匠名流遺漏少からず、後を繼ぐの志あるも、未だ果さずして歿す、僕貴著を讀む、宏覽博采、敍事明暢、佳致最も多し、願くは書目を換へ、傚うて後編と作さば、則ち傳播極めて廣まらん、僕の生理の大幸なり(*と)、余素と人の眼脚に依るを欲せず、苦辭すれども允さず、輸寫■(疑の偏+欠: : :大漢和 )誠、至らざる所なし、希合數回、峻拒すべからず、遂に其請に應じて、體裁列に從ひ、敢て其美を襲はずは、以て先鞭の功を對揚するに足らん、念齋、若し之を知るあらば、豈に悦ばざらんや、生(*慶元堂主人)、時情に諳んじ、甚だ貨置に巧にして、剞■(厥+立刀: : :大漢和 )速に成り、初め二千部を刷版す、是より先、坊刻諸書、未だ期年に及ばずして、賣售繁夥、未だ曾てあらざる所なりと云ふ、生、又懇索して、斯編曁び餘別遺三編各十二卷あり、亦陸續之を開雕せんと欲す、故に斯編を以て、剞■(厥+立刀: : :大漢和 )に授く、嗚呼余と志を同じうする者、賢を懿言卓行に希ふあらば、則ち必ずしも小補なしとせず、
東條耕識