反古籠
万象亭(桂川甫粲=森島中良)
※ U-8 【 】は章題を示す。
-
【近松と紀海音】門左衛門が伝は、沾凉が世事談、浄瑠璃外題年鑑〔作者不レ知。〕京伝が奇跡考(*近世奇跡考)、馬琴が蓑笠雨談に委し。近来山白が睡余小録には、肖像をも出せり。穂積以貫〔近松半二が父。〕浪花土産の巻首に出たる像とは大に異なり。〔紋に丸一を附たり。〕大兄は法橋岡本一抱子なる事は諸書にあり。次の兄の都一中なる事は漏せり。
-
海音が伝所見なし。鯛屋貞柳(*油煙斎貞柳)が弟なり。
-
【並木五瓶】一日画工岳洲が家にて会す。其人、沈黙にして辞少なく、形り梨園中の人に似ず。夫より後時々来て事物の典故を問ひ、一事を得るごとに草録に記して苟もせず。
-
【江戸絵】享保の比の江戸絵と称するもの。浅草御門同朋町和泉屋権四郎、通塩町奥村源六郎〔画名を懐月堂文角政信といふ。地本問屋なり。〕など板にて、元祖鳥井清信が絵を西の内の紙へ摺り、煎じ蘇木黄汁膠黒に藍蝋にてざつと彩色、砂箔を振ひたる〔或は藍を吹く〕ものなり。〔此彩色する者多き中、深川洲先に住める老婆至つて上手なりしと、蔦屋重三郎が母かたりき。〕神明前の江見屋〔今は博労町へ転宅。〕といへる絵草紙屋に、其比の役者絵〔海老蔵、山中平九郎などなり。〕の板近年まで有りしなり。夫より後、清信色摺の紅絵を工夫し、紅藍紙黄汁の三色を板にし以て売出せし所、余り華美なる物なりとて差留られしが、幾程もなくゆるされぬ。宝暦の頃まで皆是なり。其比の画工は清信が子の清倍、門人清広、石川秀信、富川房信などなり。
明和二申の歳、大小の会といふ事流行て、略暦に美を尽し、画会の如く勝劣を定むる事なり。此時より七八遍摺の板行を初てしはじむ。彫工は吉田魚川、岡本松魚、中出斗園等なり。夫より以前は、摺物も今とは違ひ至てざつとしたるものなり。其時、風来先生の大小は、一円窓の真中に沢村宗十郎〔後亀音〕奴婆の鬼王にて立て居る、左に松本幸四郎〔四代目団十郎〕羽織工藤にて横向に立て居る。右に市川雷蔵五郎時宗上下衣裳にて睨んで居る。何れも半身宛にて大場豊水が画なり。似顔の画といふ物無きころなれば、大に評判にて有りしなり。
是等より思ひ付きて鈴木春信〔神田白壁町の戸主にて画工なり。画は西川を学ぶ。風来先生と同所にて常に往来す。錦絵は翁の工夫なりといふ。〕東錦絵といふ看板を、所々の画草紙屋へかけさせて売出す。今の錦絵の祖なり。糊入へ薄紅にて若松を白抜に摺り、藍にて吾嬬錦絵と書きたるたとうに、一枚づゝ包て売る。〔大を大錦、中を間錦、小を孫錦といひ、役者絵をきめといふ。〕大錦は箱入か色摺のたとう入にて四枚つゞき五枚つゞきなり。板元は馬喰町西村永寿堂なり。引続て一筆斎文調、勝川春章似顔の役者絵を錦摺にして出す。是をきめといふ。春信歿後磯田湖竜、清満が門人清長に至て、いよ\/色ざし摺やうともに盛になれり。金摺銀摺を初めしは喜多川歌麿なり。錦絵の出はじめの比浅黄といふ物あり。藍紙紅鼠色草の汁にて墨板を用ゐず、採蓮船邯鄲赤壁の様なる唐図を摺たるみよし四ツ切の絵にて、北尾重政の筆多かりし。浮絵は豊国が師歌川豊春が書たる者を妙とせり。