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一 「狂れたるものの言葉も、賢き人は擇ぶ【狂夫の言も聖人これを擇ぶ(史記淮陰侯傳)】といへるを便とし、見し・聞きし・思ひし事どもを、漫に書きつゞけて、世の謗いかゞ。」と恐ろしけれど、「わが後なる人の、庭の訓とも思へかし。」と、焚く火に燒きもやらず、殘し侍るなり。
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一 古き記録の書を見るに、智慧なき人のいへることはいつの世にても行はれ易く、智慧ある人のいへるは用ふるものも少し。智慧ある人の言葉は、智慧ある人こそ「さる事あり。」とはいへ、智慧ある人、いつの世とても少ければ、智慧ある人の言葉行はれざるは宜なり。歎くべきの甚しきなり。
「虞翊が諫を用ひず、税布を増せしより、■(羌の儿にム:きょう:〈=羌〉:大漢和28454)人謀叛せる。」と、漢史に記せるを讀みて、感じて此書をつくれり。それゆゑ、此言葉をもて卷を開くのはじめとするなり。
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一 世の亂るるは、いつとても男女の道正しからざるより起れり。人々の云へることなれども、實に知る人少なし。
詩始關雎易基乾坤。(*詩は關雎に始り、易は乾坤に基く。)【關雎は周文王夫婦の和を稱せる詩、乾の卦は男の道を示し坤の卦は女の道を示す。】まことにしる、眞知之爲貴也。(*眞知をこれ貴と爲す〔と〕。)
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一 此國の假名にて書ける文ども、言葉の美しく妙にして、人の心を感ぜしむる事、まことにわれ人のいふにや及ぶべき。されど記せる事は、「若き・生立つ人などには知らせん事いかゞ。」と思ふ事多し。「世の中に斯る事もあるや。」とおもひなば、人の心を傷ふの端なるべし。「世の道の衰へたるより、斯る文もいでき、又斯る文をもてはやせるより、世の道いやましに衰へたるならん。」と、悲しく覺え侍る。難波の役【豐臣氏滅亡】より、天が下ひとつに統べし後は、年は百年にはるか餘り、幕の府、七葉八葉になり給へど、男女の道、否【正しからず】といへる事、世語にも聞かず。「世の中めでたからん例ぞ。」と、有りがたくおぼゆ。
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一 「三種の御寶は、天地開けし始より、御寶によそへて、三つの理を傳へ給へる。」と、諸家の記録にも見え、其言葉さま\〃/なれど、「仁み、明かに、武し。」といへる他はあるまじ。此三つの理は、天が下知しめす、上なき御寶なれど、周の道も昭穆【昭王穆王】より衰へたるが如く、いつとなくやう\/疎かになり、いとも畏き天日嗣【後鳥羽天皇(*ママ)】の、隱岐の國に幸び給ふにいたりては、冠裳倒しまに置き、この御寶隱れさせ給ひて、上下安き事なく、戰國の世とはなれりける。されど、天の運行の絶間なく、雲霧のあとたえ、照日と共に、三つの御寶また世に顯れ給ふより、今の世とはなりたり。「聖の御時は知らねど、『鎖さぬ御代』と、唐土人の言傳へしも、かくこそあらめ。」と有難くおぼゆ。「されば、此御寶の顯れ給ふも、また隱れさせ給ふも、上つかたの御責なれば、『其理を盡させたまへかし。』と、祝ひ祈りおもふ。」と、或人の語りき。
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一 「此國を呉の泰伯の後なりといへるは、唐の世咸亨【唐の高宗の年號、我が天智の末期】と年のなりし時、此國の人、唐土に來り、言出せる事なり。」と唐書に見えたり。いかなる人のかくはいひし。史記に「泰伯無子。」(*泰伯子無し。)といへるを見れば、其説の濫なる事明らけし。
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一 國史を考ふるに、天神瑞穗國を瓊々杵尊にさづけ給ひしかど、其後はるか年を經て、神武帝の御代にいたり、「難波より東、始めて職方に歸せし。」と見ゆ。二尊の生み給ふ八洲【淡路、四國、隱岐、筑紫、壹岐、對馬、佐渡、大倭】、おほかたは今の西海道にて、韓に近し。隱岐・佐渡・越の洲、いづれも韓に向へる國なり。その近きあたりには、風に放されて來る韓人、今も多し。一書に、「素戔嗚尊新羅の國に下りまして」とあり。又「韓地に、植ゑつくさす。」とあるを見れば、尊その地を經略し、根の國と定め給ふにや。「天よりして、出雲の國、簸の川の上に下りまし、大巳貴神を生み給ひ、それより根國にいでましぬ。」と。出雲も韓に向へる國なり。
自註。昔三韓をからといひ、西土を諸越といへるに、いつの時よりか混じてからともいひ、もろこしともいへり。誤なり。
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一 「八雲・八咫・八幡などいへる、此國にては、木の成數にしたがひ、八の數を貴ぶとぞ。唐土にては、六部【吏部・戸部・禮部・兵部・刑部・工部】、韓にては六曹と官を別ちしを、此國にては八省【中務・式部・治部・民部・兵部・刑部・大藏・宮内】と定められしも、その心なり。」といへる人あり。
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一 大いに飢饉せし時、唐土にては、人相食むといへる事、紀傳にいかほども見えたり。此國にては、終に聞かず。獸の肉さへ、忌て食はぬ故なめれ。」と、或人の語りき。神の使なりといへる鳥獸、その氏子は食はず。神の鎭めたまへる山は、金・銀ありても、貪れる人開きあけんとはせず。いつまでもかくありたき事なり。
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一 「此國の如く、大きなる弓を用ふる所、外になければ、唐土人の夷【夷は大弓の合字】といへるは、もと此國を指したるにや。大連・小連といへるも、此國の人なるべし。孔子の九夷に居らまく思ひ給ふも【論語子罕篇に「子欲居九夷。或曰、陋如之何。子曰、君子居之、何陋之有。」】、此國孝順の俗ある事など、きゝ傳へ給へる故にや。」と、或人の語りき。「唐土の外なる國ども、狄といひ■(羌の儿にム:きょう:〈=羌〉:大漢和28454)といひ、蠻といへる、北南西ともに、獸・蟲のつきたる文字なれど、東の國は仁にして壽きゆゑ、さはなきなり。」と、唐土人のいへることばあり。唐土代々の記録をも閲し、又韓の風儀をもしたしく見るに、「實にも。」と思ふ事多し。されど仁といへるも、その道を得ざれば眞の仁にあらず。壽きも、其人々の心にこそよるべけれ。ありがたき國に生れたる人は、その道を盡して、唐土人の言葉、虚ならぬやうにすべきにや。
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一 この國は人の心素直にして、夏・商の風に近し。聖賢をして今の世にあらしめば、おほかたは忠質の間をもて教とし、事々周家の文章には從ひ給ふまじ。昔王政の盛なりし時、朝廷の官職規禮をはじめ、唐土を法とせられしかど、衰季の仕方もまじりたれば、此國の風俗にもあらず、三代【夏・殷(商)・周】の道にも違ひたる事少しとは言ひがたし。世の書好める人の、動もすれば唐土の事を引きて、古今の異なるありて風俗の同じからぬといへるに心附きなきはいとうらめし。
自註。三月の服【忌服】は、夏后氏の禮にして、同姓不相娶(*同姓相娶らざる)は、周禮のみ然りといへり。一つをあげて其他を知るべし。
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一 唐土代々の風儀を見るに、漢の時までは、古の近き故にや、さはなかりしかど、次第に物事心附け過し、いづれにしたりともと思ふ事、とやかく議論して、無き事を有る事となし、小事を大事となし、おほやうならぬと覺ゆる事多し。一事をあげていはば、御製の詩を其一代のうちに群下の詩と同じくえらび出し、一部の書として世に行ふ事、此國代々の撰集の如くし、又は法師、女などいへるものの中に書きつらね、我が起臥する所に懸け置かば、狎れ汚すといひ、又は不敬といひて、唐土にては罪を蒙ぶるなるべし。これはその道理さる事なれど、他の事に押移り、物事かくありては、法の網嚴しく、わが豐葦原の豐にして有難き風儀には及ぶまじ。事の別ちもなく、一筋に彼れを學びて、此れを厭ふべきにしもあらず。めい\/その時世の勢ひなれば、また此れを推して彼れを罪すべきにしもあらず。「文の弊は、小人もて■(人偏+塞:し::大漢和1171)なり」といへる言葉、面白しとおぼゆ。
自註。文のつひへ。太史公(*原文「大史公)曰、文之敝小人以■(人偏+塞:し::大漢和1171)。註文尊卑之差也。■(人偏+塞:し::大漢和1171)無悃誠也。細碎也。白虎通作薄。(*文の敝は小人以(て)■(人偏+塞:し::大漢和1171)す。註に文は尊卑の差也。■(人偏+塞:し::大漢和1171)は悃誠(=真心)無(き)也。細碎也。白虎通薄に作(る)。)
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一 聖人の風儀にも、狹しと見ゆるもあり、また恭しからぬと見ゆるもありとぞ。唐土漢より後の風儀は、せばしなどいふべきにや。
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一 或人唐土の風儀を慕ひ、わが骨を徑山寺【支那姑蘇にあり。】の側に葬れと遺言しけるとなり。せめて三代の時ならばこそ。
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一 「今の世にも、遣唐使もがな。」といへる人ありしに、「菅相公の見たまへるこそ甚じき理なりと思ひ給ふべし。「日出處天子」、又は「東天皇」などとし給ひては、元より彼國取擧ぐべきにもあらず。「須美羅彌古都」とし給ひなば、いかにもその使をも入れ、書をも答へ候ふべけれど、使を接するの禮儀を始め、書中の文句、いづれ他の蕃王を待つの式に違ひあるまじ。『曲江集』(*張九齢の文集。)など讀みて知るべきなれば、遣唐の御使なきに如かじ。」と或人のいひき。わが國の人高麗の使の下に就ざりし事を、威光の如くおぼえて、漢の匈奴を待つの禮にもちがひ、規模(*面目・手柄)ならぬといへるに、心附きなきもをかし。
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一 「唐土は世界の中にて、仁義禮樂起りたる聖人の國なれば、中國といへるは理なり。」といへるもあり。また「其の國より見ればいづれか中國ならざるや。」といへるもあり。韓人も其國を尊めて夷にはあらずといへる心にて、東華と稱へ、若も夷なりといへば快からず覺ゆと見えたり。國々の言葉物語りせし折節、「東西南北ともに、言葉の次第、いづれも體を先とし、用を後とし候ふに、十五省(*ママ。中国に同じ。明が国を十五の州に分けて統治したことから。)の言葉ばかり、用を先とし體を後とするこそ不思議なれ。其國のことばも、北虜南蠻西域に違なく侍るなり。」といひしに、韓時中といへる韓人、「さればこそわが韓國にも夷の字免れ難く候ふ。」と答へき。
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一 「世の中は相持(*お互い様・相互扶助)なり」と、卑しき諺にいへる、誠に道に叶へる言葉なるべし。都ありても鄙なければ、其國立ち難きが如く、中國ありても夷狄なければ、生育の道普からず。藥材器用をはじめ、大事小事ともに、互に助くる事多し。國の尊きと卑しきとは、君子小人の多きと少きと、風俗の善惡とにこそ因るべき。中國に生れたりとて、誇るべきにもあらず、又夷狄に生れたりとて、恥づべきにしもあらず。愚なる人は、田舍人の田舍人なりと人のいへるを聞きて、恥ぢ罵るが如く、何の故もなくその國を中國なりと云はんとす。さる事にはあるまじ。
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一 惡しきと思ひし事も、「世の中に何程も斯る事あり。」と聞けば、惡をにくむの心、次第に薄くなり、善き事なりと思ひし事も、「世の中に然する人は稀なり。」と聞けば、善を好むの心、次第に薄くなる。これは蓬の中の麻【蓬生麻中、不扶而直。(荀子)】ならぬ、賤しき性質より起りたるなれど、世の中の風俗こそ、上なきものとおぼゆれ。
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一 「櫻は命短し。いかなれば斯くあるやらん。」といひしに、「花多き故にこそ、松・檜には及ばず。天地の理誠に有難くおぼゆ。國も家も繁華なりといへるは、久しからずと知るべき事にや。」と答ふ。
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一 「文書く時、闕字する事、此國の昔は、唐土の如くにはせざりき。」と、或公達の語り給ひしとぞ。されど「大政事し給ふ御身の、或大徳【高徳の僧】の有樣を書き、銅の碑に鏤められしを見れば、大元師といへるに闕字し給ふ。安からず覺ゆ。」と、或人のいひし。
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一 此國は災異を見て恐るる事少し。されど祥瑞をもて、諂諛の助とする事もまた少し。元日に日食あれば百官に命じて、政治の得失を言はしむる事、強ち言を求むるの實あるにもあらねど、後の世にては一つの儀式のやうになれり。告朔の■(食偏+氣:き:贈る・生贄:大漢和44316)羊【虚禮となりたるのを、古禮のおもかげを存するものとして殘し置くこと、論語に見ゆ。】に同じく唐土にては捨てざるぞよき。此國にてその眞似し、眞似を眞似するには及ぶまじ。
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一 衆人會議する時、「この事いかゞ思ひ給ふや。」と問へば、上を憚り、傍を見合せ、とやかくするうちに、「我は斯くこそ思ひ侍るなれ。」と頭だちたる人言ひ出せば、おほかたは「仰せ然る事なり。」とのみいひて退くものなり。智慧ある人も、ふと聞きては、「さして思寄も侍らず。」といふべき他やあるべき。これは會議に似たれど、その實は會議にあらず。唐土を學びて、各自その思寄を書きつけて奉るやうにありたきものなり。
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一 世の中の亂れんとする時は、必ず所々に盜賊起る事あり。盜賊といへるは、常の盜人にはあらず。百姓の年貢運上【租税】、年々に重くなり、上に訟へんとすれば、咎を蒙り、其の儘にてありなんとすれば、妻子を育むべき樣なきより、止むことを得ず、徒黨を結び亂を起すに至れり。それよりしては、種々の變故いできたり、大藩小藩、思ひ\/の心になり、大きなる亂れとはなるなり。脾胃害ねたる人の、百病競ひ起りて死するが如く、恐るべきの甚しきなり。然るに、年貢運上の重くなる因をいへば、上たる人の奢るによれり。凡そ奢といへるは、華美榮耀を好むばかりをいはず、その分限に應じ、入るを量りて出す事を爲すの政なきより、大家小家ともに、常に定りたる年貢運上のみにては償ふべき道なく、民を虐ぐるに至れり。國を建つるのはじめ、多くは物事質素にして、定りたる年貢運上にて經費に餘りありて、自然と仁惠の政行はれ、上豐かに下安く、めでたき世のありさまなれど、一葉過ぎ、二葉過ぎ【一葉二葉—一代二代】、五十年たち、百年たちたる後は、何時となく物事重く結構(*手厚いこと・繁文縟礼)になり、覺えず分限の外に出で、下を虐ぐるに至れり。一事を擧げていはば、器物にはじめは素器【木地のまゝなる器】を用ひたるに、いつとなく漆器になり、またいつとなく彩畫を加へ、またいつとなく金銀にて裝ふにいたる。衣服とても、初めは木綿を著、いつとなく紬になり、またいつとなく絹となり、それよりしては、緞子・ぐんちう【たんちうか。緞綢は支那より舶來のもの。】などいへる、唐土のものを貴び、又は羅紗・猩々緋などいへる蠻國の品を用ふるに至れり。斯る類、一事ならねば、いかでか入るものゝ數、出づるものの數償はんや。其間には、奢を禁ずるこそ政事の要なれと知れる明君賢相なきにしもあらねど、おほかたは小事小物にのみ心を用ひ、大事大物の、いつとなく分限に超えたるといふに心附きなければ、禍亂を救へる益とはなりがたし。
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一 いつの時にかありけん、材木の費を厭ひ、乘物の槓細まりし時、「昔はさゝら竹に硫黄をつけ、これをつけだけ(*火口にする竹)といひしに、今の世檜を用ふるいかゞなり。」と、小賢しき人のいへるにより、「さらば。」とて、つけ竹に改まりけれど、ほどなく止みてけり。小事に心を用ふるもをかし。また話のみ聞きて未だ試みざることを、妄りに言ひ用ふるもうらめし。
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一 天地と齊く生ひいでたる金・銀・銅を、濫に掘り出し、有りてもよし、無くても濟むといへる、異國の物に換へて、五行【木・火・土・金・水】の氣を損じ、奢侈の源を長ずるこそ、眞の惜むべきとはいふべき。鐵は此國の産するところ、萬國に勝れたれば、讐に兵を貸すに同じとて、昔より之を禁ぜり。是もよろづ世のため、農器の乏しからん事を恐るるなどいはば、然もあるべし。その國道なければ、竹を伐りたる旗、木を削りたる戟にて、さしも甚じき百二の關も平地となれるといへば、兵器にはよるまじ。されど渡らぬぞめでたき。南蠻より來れる鐵にて刃をつくり、人々のもてはやせるを見れば、此國の鐵のみ勝れたりともいひがたし。韓の鐵も、此國には勝れりといへり。金すくなくして、吹煉の費に當らざるを、山する人【鑛山にて働く人】の言葉には若しといへり。
自註。胡居仁(*『居業録』『胡敬斎集』等の著あり。)曰、金人不以布帛換金銀。是他有見識。(*胡居仁曰(く)、「金人(は)布帛(を)以(て)金銀に換(へず)。是れ他(に)見識有(りと)。)
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一 「唐土には、金銀少く、此國には多し。」といへる人ありしに、或人の云へるは、「然にはあらず。此國は金銀を惜む心なく、濫りに山より掘り出せばこそ多くは見ゆれ。天地のものを生じ給ふ、おおかたは過ぐる事もなく、または足らざる事もなし。此國のみ金氣餘りありといへる理やあるべき。唐土は金銀の價貴く、此國は然無きにて金銀の少き事知れたるにあらずや。」といへるに、又或人のいへるは、「然にはあらず。唐土の金銀あらゆる數をいはば、此國には幾萬倍といふほどなるべけれど、これを用ふる人多き故にこそ、其價貴く少く見ゆるなり。此國はあらゆる數、其少き事、又唐土には遙に違ひたれど、之を用ふる人また少き故、價いやしく多しと見ゆ。たとへば奧すぢ【陸奧の地方】某といへる邊は米多く、其價廉しといへるが如し。米の地より生ずる事、一段には何程といへる數、他に違ひて多きにはあらず。船の便惡く、他國へ賣出すには勝手よろしからず、大方其國のみにて之を用ひ、其用ふる人少き故、價も貴からず、他よりは多きと見ゆ。某斯くいへるは、唐土を勝れりとし、此國を劣れりとせんといへる心にはあらず。世の人、此國は金銀多しとのみ心得、其實を知らざる故に、重き寶を濫に掘出し、或は濫に費し、或は他國に送りて、此國のゆく\/禍となる事を顧みざる悲しさのあまり、かくはいへるなり。」と答へしとぞ。
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一 「此國は絲少ければ、唐土より來り賣れる人なくば、衣服豐ならじ。」と言ひし人ありしに、或人のいへるは、「此國の絲元より少きなるべけれど、蠶も、桑も、皆此國の産する所なれば、昔の王后【雄略天皇の后親しく養蠶したまへる類。】をはじめ、親ら蠶の禮を行ひ給ふ如く、下は士大夫の妻までも其屋敷々々に桑の木を仕立て、我先にと蠶飼するの風俗となりなば、絲の少き事やあるべき。今も絲拵へいだせる村里なきにしもあらねど、唐土より來れる絲多く、しかも其價卑しき故、骨折り拵へても、賣る所の利少し。人々其益不益を考へ、蠶飼ふには及ばざるなり。此後、天下後世の事を深く思ふ人、上にたち給はば、唐土より來れる絲を禁じ、家々に桑をしたて、蠶を養ふ事を教へ給ふなるべし。」といへりとぞ。
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一 「唐船を禁じ給はば、藥材【藥をつくる材料】はいかゞすべきや。」といひし人ありしに、或人のいへるは、「それこそいと易き事に候へ。賣藥の司をたて、代金の數を定め、『唐土に渡り、藥材のみ調へ來り、藥店に賣拂へ。』と下知し給はば、何の難き事やあるべき。渡唐を禁じ給ふは、邪教【天主教】の恐れあるゆゑと聞き侍る。」といひしに、「それは猶々易き事なれば、これを防ぐの道いかほどもあるべし。しかし『藥材のみ調へ來れ。』とはじめは下知し給ふとも、後々には其法みだれ、ほかのものも調へ來り、上奢り、下私し、罪人多くなり、其憂唐船の來れるには勝れる事あるべし。良法ありても良人なければ、其災救ひ難し。世の中には歎くべき事のみ多し。」といへりとぞ。
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一 凡そ法といへるものは、輕き・重きを考へ、其輕きを捨て重きをとりて、一定の法とす。物の長短あるを、刀をもて一つに切り揃ふるが如し。されば萬に支なきといふ法やあるべき。愚なる人の、輕き支あるを見て良き法を捨るこそ惜しけれ。
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一 「昔の公服は、素襖【布にて製す。直垂に似て紋所あり。武士の禮服。】ばかりなりしに、其後今の上下と云ふもの出來、單裏附・綟肩衣など品々ありて、事煩はしく覺ゆ。上著・下著など、外に見ゆれば、古き垢附きたるは用ひ難く、自ら取繕ふに至れば、その費も限あるまじ。昔の素襖に復らんには如かじ。」といへる人(*原文「いる人」)ありしに、又或人のいへるは、「然にはあるまじ。衣服は身に便あるをよしとす。素襖は身に便あらざるものなりし故、いつとなくその袖を截り、裾を縮めて、今の上下とはなれるに、今又昔の素襖に復らば、附竹(*火口・燐寸)に等しかるべし。襟脇開きて長き下著の見ゆる、さまで大いなる違ひなければ、費を省くとも、何ほどの事かあらん。その上雨などふり、供人しか\〃/ともなき【整はざる】ものは、傘の下あまりて濡れしをたれ(*しほたれ)、遠道行くに股立とりたるも妨げ多かるべし。」といへり。
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一 此國、常の衣服、いつの時よりか、かくは定まりけん、費なる事多し。人の背中は陽にして陰を惡む故にや、甚だ寒く覺ゆ。此國の常の衣服には、上の二重四重なるとき、その寒きかたは、一重二重なり。これは唐土の衣服も然あれど、異國の人の、前のとほりを鈕にてしめ、後前の重一樣にする【洋服のことをいふ。】も宜しと覺ゆ。上著・中下著、共に袖下に綿入るる事、寒氣の防となるにもあらぬに、絹・綿の費え、無益なる事ならずや。肩より先・膝節(*膝頭)より下は、さまで寒からぬもの故、肩より先に當る所は、手通るまでに細くし、綿入るる事もなく、裾は脛限りにせば、手を働かし、道行くにも便あらんと思ふ。背筋を縫ひ通せるゆゑ、腰に當りたる所は破れ易く、道行くには足に纏ふ。下部のものの褄まくりしたる有樣見よしとは云ふまじ。腰より下は縫ひ合せずもがな。かゝる事など、其の道知りたる人に精しく尋ねて、先づ常の衣服を、便宜しく、費えなきやうに改むべきなり。むかしは上衣下裳といひて、上下二つなりしかど、これも便惡き故にや、その後は一續きになり、此國の常の衣服も「さあれば素襖がな。」とおもふこゝろをもて、一續きなる跟まで達く袍を新に拵へ、襟は團領にして、袖は手先隱るゝまでにして、是を此國の禮服と極め、五月より八月まで、羅紗・さよみ布【麻の布の精きもの】(*貲布)、九月より四月迄は、緞子類・絹紬・木綿何れも單にして、其分限に應じて著し、今の袴は、夏は單、冬は綿入にし、腰を除け、脇を縫ひ合せ、二便の支へなく、肌に附け著るやうにせば、常の服は脛かぎりなりとも、袴には綿入、上著は跟に達けば、寒さを防ぐに餘りあるべし。かやうになど衣服改まりなば、下著はさまで取繕ふにも及ばず、費えを省くべきにや。」と或人の語りき。されど容易き事にはあらじ。
自註。衣服之制、果能如此、毎一件省帛不下數尺、綿亦稱此。擧域内而算之則爲不貲矣。(*自註に、衣服の制、果してかくのごとくんば、一件ごとに帛を省くこと數尺に下らず、綿もまたこれに稱ふ。域内を擧げてこれを算ふれば、すなはち貲られず、と。)
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一 衣服改制の仰せあらば、唐土人の眞似せさせ給ふと批判する人多かるべし。されど朝廷の冠服も、その初め、此國にはなかりき。服の結構或人のいへるは、其大概なり。委くせんとならば、此國の道服をはじめ、異國の服まで、皆々集め、そのうちにて便宜しき、禮服・便服、尊卑・上下を別ち、新に拵へてより、永久不易の服とは成るべけれ。眞に容易き事にはあらず。
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一 或人の屋敷を東向に建てられしに、年月の經つに隨ひ、「南向こそ良からん。」といへる人次第に多くなり、その後火災に遭ひてければ、「今こそ。」といひて南向になりけるに、「元の東向こそ良かりしに。」といへる人、また次第に多くなる。これも火災に遭ひてければ、また東向になりたり。この頃聞くに、「元の南向がな。」といへる人多しといふ。また年月たちて火災あらば、元の南向となるべし。また善き事もがなと思ふよりして、此處にありては彼處に往かん事を思ひ、此をなしては、彼をせんことを思ひて、心騷がしくはなる。されど心に足ると思へる善き事は、いつとても有るまじ。善惡を忘れて分を安んぜんには如かじ。
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一 山科のかたはらに、佃業する父子ありしに、道行く人金の入りたる袋を落し置けるを、其子高き丘に駈け上り、呼びて返さんとす。(*父)「何事ぞ。」と問ふ。「しか\〃/。」と答ふ。「落すも拾ふも、世の習なるに、入らざる事にかまひて、我が佃業を捨つるぞ。」といひけるとなん。この人は、荷■(艸冠/貴:き・かい:あじか:大漢和31989)・丈人【論語に見えたる隱者】の類ひなるべし。
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一 堺に仁徳帝の御陵【舳松村に在り、方八町、山陵中の最大なるもの。】をはじめ、諸帝の御陵、今も殘りて、之を望むに大山の如し。
古へを好みて、力ある人は、周の法に從ひ族葬【墓域をつくりて一族をその内に葬る。】すべき事なり。方孝孺【明の學者。文集を遜志齋集といふ。】の文集に、その理悉しくいへり。尤もなると覺え侍りき。此國にも、遠く慮りたる人は、國を建つるのはじめ、村里隔たりつるつ間驗き所(*ママ。「村里隔たりつる、閊なき所」あるいは「間曠き所」か。)に寺を造るもあり。人を葬る所を市街の中に構へ寺地の限りあれば、年經たる後は、古き墓を發きて、新しき骸を埋む。眞に慘ましといふべし。
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一 「此國には諫官もなく、大目附などいへるは、御史の職に當れど、彈劾の式、唐土には違ひたり。」といふ人ありしを、「此國は今までの通りこそ。」と、或る道知れる人言はれしとぞ。これを諫なくても宜しといふにもあらず。又百官の良否は、糺すに及ばずといふにもあるまじ。國々の勢を見て、深く思ひたる言葉ならん。知る人ぞ知るべき。唐土にも古は諫官なしといへり。
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一 漢の薜廣徳【御史大夫となり、元帝が樓船に乘らんとせしを乘輿の下に頓首して諫止せし人。】が「船は危ふく候ふに、橋よりしたまはずば、御車を血にて汚さん。」と諫めしを、海にもあらぬこよらなる河風に船乘り給はゞ、御遊ともなりなんに、餘り氣疎く【ばからしく】覺ゆ。「白麻を裂かんといへるほどの人、七年まで、何の諫もなかりしこそ尊けれ。【唐の陽城諫議大夫となりて肯て諫爭せず、斐延齡の丞相に任ぜられんとするや、「彼相とならば、吾當に白麻を壞らん。」と切言せり。白麻は親任の辭令書。】」と明儒の論ぜる、眞に面白く覺ゆ。されど宋儒は、薜廣徳を善しとし、陽城を盡さずと論ぜり。これも亦面白しといふべし。
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一 「その子の惡しきを悲しみ、朝夕切諫【通常折檻とかく。】せし人ありしに、或人のいへるは、『其御身の若き時は、物事御親の命のまゝにありしや。』と問へるに、暫しありて『然はなく候ひき。』と答ふ。『さればこそ、卑しき諺にも「年こそ藥なれ。」と申し侍れば、年長け給ふ後には、気遣ひ思召すほどにはあるまじ。』といひて、その子なりし人を側に招き、『此程道行く人の、言葉爭ひして、年長けたるものを打擲きなどしたる話聞き給ふや。』といひしに、『如何にも安からず覺え侍る。』と答ふ。『他の親なれど、年長けたるものゝ憂しと思ふ樣は、安からぬ御事なるに、親しき御親の、朝夕心を苦め給ふ事、少しの御心附なきこそ怪しげなれ。』といひしに、恥顔して、何の言葉もなし。其後は親子の中、睦まじくなりたる。」と語れる人あり。
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一 或人やんごとなき御方の、藥あそばせし折節參りかゝれるに、「これは唐土人の傳へし、無價の寶といへる藥にて、遘合のかずかさなりても、猶々めでたきなる。」とのたまひしまゝ、「藥は五臟をして、平かならざらしむと聞き傳へ侍れば、御痛み所もなきにいかがや。」と申せしに、程なく御目ひらき【開悟】たまひけり。
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一 醫師はその知りたるほどは「それはよし。これはあしゝ。」と人の面を破りても【怒らるゝを顧みず】いふべきなれど、然ある醫師は稀なるこそうらめしけれ。
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一 世の中は、賢きをもて賢きを欺くもあり。又愚なるをもて、賢きを欺くもあり。賢きをもて賢きを欺くまではなれど【原本の儘】、愚なる振して、賢きを欺くより、限なうおそろしけれ。
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一 「それがし若き時、武藏にありしに、其頃までは、人參を用ふる醫師甚だ稀なり。若しも人參を用ふる醫師あれば、下手なりといへり。世の人、人參の功ある事を知らず。」とて、杉某といへる醫師、常に憂として語りき。其後李士材・蕭萬與などいへるものの方書世に行はれ、今日此比に至りては、かろき病にも、人參を用ひざる醫師は少し。若しも人參を用ひざる醫師あれば、下手なりといへり。去る頃又武藏にゆき、杉某にあひしに、「世の人、人參の害ある事を知らず。」と語りて、其事のみ憂ふ。「徐景山が通介なり。【魏の盧欽、徐■(之繞+貌:ばく・まく:遠い・遥か:大漢和39198)の見識高くして時流に動かされざるを稱して通介といへり。】」と賞めけり。定りたる見識ありて、世の流行に從はざるこそたふとけれ。
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一 「乳のみ子の癇氣、女の血の道には、醫師の方書を考へて盛れる藥よりは、世の人の家傳といひてとりはやせる藥こそよけれ。」といふ人あり。さる事にや。
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一 韓人の物語に、「毒蛇の噛みたる所は、早速竹の筒にてつよく押附け、毒氣の筒の中に腫上れるを、利刀にて切り除けば、痛みもなく、皮ばかり切れて癒ゆる。」といへり。
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一 韓の醫師を見るに、人毎に妙なるといふにはあらず。拙きも多し。されど、脈をしり、藥を用ふる事、此國の醫師には違ひ精しき樣におぼゆ。疾により藥一種にて効を得る事あり。これを此國の醫師は、「單方なり。」といひて笑へど、許胤宗【南北朝時代の陳の人】が言葉を見れば然にはあるまじ。
自註。許胤宗曰、「古之上醫、病與藥値唯用一物攻之。今人以情度病多其物以幸有功。譬獵不知兎、廣絡原野、冀一人之獲。術亦疎矣。」(*自註。許胤宗曰く、「古の上醫は、病と薬と値ふるに〔原文送りがな「値ヘ」〕ただ一物をもつてこれを攻む。今の人は情をもつて病を度り、その物を多くして功有らんことを幸ふ。譬へば、獵するに兎を知らず、廣く原野を絡て、一人の獲んことを冀ふ。術もまた疎ならん。」と。)
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一 或人、其子を京にやり、醫師にさせしに、「著る物のあしく、いかがなり。」と、(*聖にか。)消息せしまゝ、其事をいひて哭きしに、法印なりし天台の聖のいへるは、「唐土も、此國も、醫師の衣服をかざれる風儀期らずして同じきこそ不思議なれ。佛も莊嚴よろしからねば、庸俗の人は尊みおもふ事薄き理と同じ事なるべし。されど、外の飾より、内の飾なるにや。それがし京にありし時、宿の主なるものの語りしは、『何のなにがしは、豐後の人にて、はじめて京に來りし時、伴ふ人もなく、破傘・缺木履、いとさう\〃/し【寂し】かりけるが、人柄おとなしきを尊くおぼえ、諸人慕ひしまゝ、今は世に名を數ふる人のうちとなれり。』とかたりければ、言忠信行篤敬といへるこそ、外の飾にはまさるべけれ。貴方の御子なりし人も、人々よしとこそいへ、あしゝといふはなければ、後には時を得たまふなるべし。」といへりとぞ。有がたき言葉にや。
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一 昔より、秦の始皇の事を論じて、「遠く慮るものを妖言とし、直言するものを、誹謗する。」といへり。かくありては、その國いかでか滅びざらむ。されど、かゝる事を、文字の上にて見れば、珍しき事のやうに覺え侍れど、世の愚なるものは、今も然なり。「人の家には、生死病苦、又は水火の憂など、必ずある事なれば、豫め其備なくては叶はぬ事なり。」といへば、「『祝ふ門には福來る。』とこそいへ。目にも見えぬ、忌々しき事なのたまひそ。」とて、女童の腹立て罵るは、遠く慮るものを妖言とするなり。又「かゝる身持にては、道にもあたらず。人の思はくもいかゞ。」といへば、「惡口いひて、人を辱かしめ給ふ。」といひ、泣き哀しむに至れり。これは直言するものを誹謗とするなり。いたましきことなり。
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一 「思へば詛ふ。」【其人を愛する餘り】といへるも、卑しき諺なれど、面白き言葉にや。人主をして此意を知らしめば、誹謗妖言なりとて、忠直の人をそこなひ給ふ事はあるまじ。
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一 「舜水【朱之瑜】といへる人、明の末に、其國の亡ぶるをかなしみ、恢復の志ありて、此國に來れるを、水戸に招き、師傅の位をもて待ち給ふに、『唐土にては、昔の封建の世まされるかといふもあり、又は末の世の郡縣こそまされりといへるもありて、その説さま\〃/なれど、此國に來り、はじめて封建の世の風儀といへるものを親く見て、誠に三代の聖人の法こそ有りがたく覺ゆれ。』と語られしとぞ。柳子厚が封建論に、『封建は聖人の心にあらず、勢なり。』といへり。聖人の心にあらずといへるも疑はしけれど、勢なりといへるもさもあるべし。郡縣の世を封建にし、封建の世を郡縣にする事、聖智の君ありても容易く成るまじけれど、勢にまかせらるべき外はあるまじ。此國も郡縣なりし時もありしに、いつとなく聖人の法にかなへる封建の御代となり、上下其分を安んじ、めでたくすめるこそ誠にいみじけれ。されば、物事聖人の教にしたがひ給ひ、人の心のそこねざる御政行はれば、周家の八百【周天家(*ママ)を治むること八百六十七年。】は數ふるに足るべきやと覺え侍るなり。」と、心ある人の語りき。
芸■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)筆記論封建曰、「封建・郡縣、孰優孰劣。古今儒家議論紛紜。余雖庸劣、二百四十二年間春秋、一千三百六十二年間綱目、略窺其顛末、間嘗以爲郡縣不如封建。既而屡遊朝鮮、觀其郡縣之俗、亦以爲郡縣不如封建。然則彼其以郡縣爲優者、乃古今儒家經遠之慮未審、而折圭擔爵、躋々蹌々上下安分共躋太平。」余以爲、「唯有我國物有固然事有心至。蓋郡縣之世者、天下人心、奔競是務。賄賂盛行、讒毀併興、雖有善者難以爲防而已矣。」或問賄賂行焉讒毀興焉、何獨郡縣日釣之利也。商者之遑々酷於工者之役々。勢使然也。(*『芸窗筆記』に封建を論じて曰く、「封建と郡縣と、いづれか優り、いづれか劣る。古今儒家の議論紛紜たり。余庸劣といへども、二百四十二年間の春秋、一千三百六十二年間の綱目、ほぼその顛末を窺ひ、間かに嘗て以爲く、『郡縣は封建にしかず。』と。既にして屡朝鮮に遊び、その郡縣の俗を觀、また以爲く、『郡縣は封建にしかず。』と。しからばすなはち彼その郡縣をもつて優ると爲すは、すなはち古今儒家經遠の慮いまだ審かならずして、圭を折り(*折桂=科挙に合格する。)爵を擔ひ、躋々蹌々として上下分を安んじ、共に太平に躋るのみ。」と。余以爲く、「ただ我國のみ、物まことにしかる有りて、事も心至ること有り。蓋し郡縣の世は、天下の人心、奔競をこれ務む。賄賂盛んに行はれ、讒毀ならびに興り、善者有りといへどももつて防を爲すこと難きのみ。」と。或ひと問ふ。「賄賂行はれ、讒毀興るは、なんぞひとり郡縣のみ日に利を釣めん。商者の遑々たる(*落ち着かない様子)は、工者(*官吏)の役々たる(*疲れ切った様子)よりも酷だし。勢のしからしむればなり。」と。)
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一 韓國の重き司する人、大勢咎にあひしをりふし、朴射夫といへる翁、窃に語りしは、「わが國は、郡縣の世にて、下なるもの、上に進み易きまゝに、自然と讒言も多く、又は、賄賂も行はれて、旦にはさかえ、夕にはおとろへ、世の中靜ならず候ふ。其御國の、皆人その分定りたるこそ、羨ましとおぼゆれ。」といへり。これは古き事なり。よく思ふ人は知るべし。
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一 「周の赧王【周の最末の天子】の、避債の臺を設け給ひしは、然もあるべし。此國の上つ方は、傳へしその國々のひろさ、昔に同じく租税の納もかはりなきに、債をはたすもの、その門に席しき、又は御輿にすがるも、たまさかにはありといふ。『一葉落つるを見て、天が下の秋なる事を知る。』といへば、此後安からずおぼゆ。」と、或人の語りき。
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一 狂歌といへるもの、何時よりか始まりけん。或貴き人の、數多集まり給ひし時、狂歌よくするといへるもの、伺候しけるまゝ、「借債の歌よめ。」とありしに、よめるとなん
もとよりもかりの世なればかるもよしゆめの世なればねるもまたよし
此歌を見るに、人の心ありといはんや。
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一 「昔は徳政【足利時代に行はれたる政令。債務を免ずる令。】といふ事、屡ありし。」と語れるを、「世の中かくなりては、亂をさる事遠からずと知り給へ。」と、ある道知れる人のいひしとぞ。
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一 或物知りたる人の、數多集まりて、昔物語するを聞きしに、「げにも。」とおもひ侍る。「上奢り、下たなひたる(*「たなびきたる」か。)國の民ども、年貢運上の重きに堪へかね、頭だちたるものなど、その役所にまうで、しとやかに(*慎みながら)その苦みを訴へ、上の憐みをもとむるを、哀訴といひ、或は一村二村、又は一郡二郡、諸人といひあはせ、國の守の事執る人の家におしいり、口々にうつたへ、「是非に。」と狂ひ罵しるを要訴といふ。されば、民の哀訴するは、亂のはじめなれど、これは人のふと病ひづきたるが如し。驚き恐れて、今までのしかたあしきを悔み、またよき醫師もありてその疾を療せば、あとは何事かあるべき。民の苦み甚しく、詮方もなく、要訴するに至りては、下のうらみはます\/ふかくなれど、上たる人は却つて惡む心のみ出で來、初めは世の批判など恐れ、「事勿れかし。」と靜めなどし、なだむるもあれど、度重なるに及びては、「頭だちたるもの、咎におこなひ、嚴しくいましめてこそ。」と、智慧なき人の智慧がましくいひなすを、愚なる人は「げにも。」とおもひ、刑罰をもて治めんとす。これは、補ふべき病を下手なる醫師に相談して、猛藥を飮み、元氣を撃つに同じ。政の道かくなりては、亂をさる事遠からざるものぞかし。されど、重き病ありて、下手なる醫師の藥飮みても、朝に飮みて夕に死するは稀なるが如く、亂のはじめと思ふよりして、世の中亂るるといふまでは、はるか年月を經るものなるゆゑ、智慧ある人ののちを憂へて、とやかくいふをば、疎ましき事に思ふもあり、又は、片腹痛くおもふもありて、「さる事やあるべき。」と月日をくらしゆくうちに、程なう、再びとりかへされぬ世の中とはなるなり。身持あしき人の、遂に思ひよらざる病つきて、夭死するが如し。古への文ども見るに、いつの世にてもかくあるぞかなしき。朝廷の天工共にし給ふ方々は、かゝる事をこそ、よそに思ひ給ふまじきなるに。」と、昔の事を今の樣におぼえ、そゞろに涙ぐみて語りしまゝ、「後の世の戒めにもや。」と記し侍る。
自註。「あまだくみともにする」「共天工」(*天工を共にする。)なり。國の補佐たる人をいへり。書經に、「天工人其代之。」(*天工人それこれに代る。)
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一 貨は國のもと、財は國の命なる故、平天下の章【大學】に、財をなすの事を説き給へり。國家をたもつ人、此道知らでやあるべき。讀書する人、仁義禮樂の事は、文にもあらはし、言葉にもいへど、財用の事いふは少し。「これは人の好きこのみていへる事なれば、我れいはずとも。」と思ひ、義を先とし、利を後として、人に讓るもあるべけれど、貴きも賤しきも、貨なくして何事をかなすべき。許魯齋【元の許衡】の「學者は生を治むるをもて先とす。」といへる、譏るべきにあらず。されど、財をなすといへるは、その番を節よくする(*組合せのバランスを保つ。「節」は「節制」)事をこそいへ、下を損じて、上を益し、人を瘠しめて、己を肥すにはあらず。
自註。たからは、漢書曰、「貨者國之本也。」唐書曰、「財者國之命也。」賈誼曰、「積貯者天下之大命也。損下而益上、瘠人以肥己、竊之道也。」(*『漢書』に曰く、「貨は國の本なり。」と。『唐書』に曰く、「財は國の命なり。」と。賈誼曰く、「積貯するは天下の大命なり。下を損して上を益し、人を瘠しめて己を肥すは、竊の道なり。」と。)
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一 千里の馬をしりぞけ【漢文帝の故事】、雉頭裘を燒き【晉の大區司馬程據雉頭裘を獻ず(*原注「猷ず」)。武帝奇技異服は典禮の禁ずる所なるを以て之を殿前にて焚かしむ。】、宮女三千人を出せる【唐太宗の故事】類を見て、上の御身より儉約を行ひ給ふこそ、眞の費を畧くとはいふべけれ。されど、御心附あるは少く、下たるものは憚りていはず。儉約の名のみありて、其實なければ、國を保つ益とはなりがたし。
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一 唐土人の物語りに、「或人友達かたらひて、山の麓を通りしに、『此山に虎ありて、人を食ふ。此虎を殺したるものあらば、十萬貫をたまふべし。』と、榜文たちたるを見て、大に喜び、腕まくりなどし、そのまゝ駈けあがらんとするを、傍の人ひきとゞめ、『命は惜しからずや。』といへば、『貨だに持ちたらば、命は何か惜しからん。』と答へし。」と語りき。愚なる人の志、眞にをかしき事なれど、貨集めするものの、人の怨・謗をもかへり見ず、悖りて(*逆る=逆う)入れば、又悖りて出づる事のいかほども出でき(*後出。『大学』の語。)、遂にはその身も危くなり、家も滅ぶるに至れる、何か此物語に異ならん。漢の帝の西園の禮錢を貯へて【漢の孝靈皇帝、西園にて官爵を賣りしを云ふ。】、人の心日々にはなれ、火徳の消ゆるをおぼえ給はず。董卓が■(眉+邑:び::大漢和39514)塢の米をあつめて、臍の上に火點す事を知らざる【漢の獻帝の時の人。米を儲へて晩年を安くせんとせしも、遂に殺さるゝに至る。】、まことに痛ましといふべし。かゝるゆゑにこそ、「貨集るとき、民散ず。」【孟子の語。】とはのたまひけめ。
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一 「貨悖うて入れば、また悖うて出づ。」【大學の語】といふ事を問ひしに、「上たる人、下を虐げなどし、故なきに貨を集め給へば、天地も平かならず、洪水・旱などして、思ひよらざる事に費多くなり、又はこゝかしこ騷ぎたち、これを鎭めんとするに、限なき軍の費いでき、倉に積みたるものいつとなく失せゆくものなり。取るまじきものを取るも悖ふといひ、有るまじき災あるも悖ふといへるなり。」と、或道知りたる人の答へけるに、「その類は、下ざまにも、目のあたりある事にこそさふらへ。いやしき商人など、公の、その事する人と言合せ、一つの物を二つといひ、麁かなるものを精しといひ、上を欺き、多くの貨をまうけなどするものは、必ず酒のみ、色ごのみして、朝に得たる貨は暮に失ふに至れり。これも『悖うて入れば、さかうて出る。』にて候ふ。」と、或年配なる人のいひし、「げにも。」と思ひ侍る。
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一 「世の中ほど、思ふやうならぬものはあらじ。貨は國の命たるを知らざる人は、妄に使ひすてて、代々の貨をも失ひ、又貨は國の本たるを知れる人は、吝かにして、『貨さへあらば。』とおもひて、世の有樣あしくなりゆくを知らず。」と、或人かなしみて語りき。
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一 此國には記録少し。凡そ記録といふは、治亂興亡のあと、萬世までの勸戒となるをこそたふとめ、いらざる軍物語のみかきちらしたる、まことに紙の費とやいふべき。唐土の事を引かんよりは、「此國の某かゝるよき言葉ありき。」又、「某かゝるよき行ひありき。」「某・何がしは、然さなくて、家やぶれ國亡びたる。」などいはば、人の心を感ずる事、もろこしの物語するには遙かにまさるべきに、記録のなきこそをしく侍れ。唐土にても、記録をつくるには、才學識の三長なければといへり。容易き事にはあらず。
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一 いづれの國にも、日帳・日記などいひて、書き記しおく事あり。年を積みて見れば、「牛に汗し、棟に充る」【車に積みて出づれば曳牛は汗をかき、書庫に藏すれば棟にとゞくまで多きをいふ。】ほどなれど、大方は、「陰り」「晴れたる」などいへる類の事のみかきて、政務・人事にあづかりたる議論、號令まで、精しくかきたるは希なり。疑はしき事あれば、「年配なる人こそ。」とて、問うて決する事多し。それも五六十年には過ぎじ。記録さへ確かならば、幾百年ともなき長生したる人を左右に置けるに同じかるべし。されば、此國の智慧唐土に及ばざる一つは、記録に乏しきゆゑにや。
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一 世の中ほど怪しくをかしきものはあらじ。唐土人の記録を精しくするは、眞にいみじき事なれど、記録を考へてけやけき【きはだちたる】惡事をなし、この國より見れば不思議なると思ふ其君・其臣いかほどもあれば、かゝる時は、「記録なきこそましならめ。」と思ふなるべし。
自註。漢儒の經學をもて史術をかざるをはじめ、國をうばふの賊、堯舜湯武をもて證據とするたぐひの事をいへり。