通俗三國志 卷之壹
(『通俗三國志』 15冊 信濃出版會社 1884.11.日付ナシ)
※ 原文の仮名遣いは正格ではないが、なるべく原文に従い、無い箇所は補った。
画像は有朋堂文庫のものを用いた。
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祭リテ二天地ヲ一、桃園ニ結ブレ義ヲ
熟邦家の興廢を視るに、古より今に至るまで治極マルトキハ則入ルレ乱ニ、乱極マルトキハ則入ルレ治ニ。その理、陰陽の消長・寒暑の往來せるが如し。此ノ故に、人君小ムルレ心ヲこと兢々業々として須臾も敢て不レ忘レレ焉ヲ、堯舜モ猶病メリ矣とす。况や傭人をや。
漢の高祖三尺の劍ヲ提て秦の乱を平げ玉ひしより哀帝の御時まで二百余年、天下よく治りしに、王莽漫に位を簒て海宇大に乱る。
然るを光武これを平げて後漢の世を興し玉ひ、質帝・桓帝の御時まで已に二百年に及べり。
光武帝より十二代の天子を靈帝と申奉る。桓帝の讓を受て、御年十二歳にて帝位に即玉ふ。此時大將軍竇武・太傅陳蕃・司徒胡廣三人相共に天下の政務を攝て君を輔佐し奉る。其のち内官に曹節・王甫と云ふものあり。諂佞にして君を欺き、漫に權柄を專にせしかば、竇武・陳蕃これを誅せんとして計洩聞へ、反て其身を害せらる。此より内官いよ/\志を得て放に朝綱を手に握れり。
建寧二年(*169年)四月十五日、帝温コ殿に出御なりて已に御座に着んとし玉ふ時、俄に殿角より狂風をこりて、其長二十余丈の蛇梁の上より飛下りて椅子の上に蟠りければ、帝大に驚せ玉ひ、地の上に昏倒し玉ふ。殿中の騷動斜ならず、百官みな上を下へ反して武士を召してこれを拽出さんとするに、大蛇は消が如くに失て、雷の鳴こと天地を碎が如く、雹まじりの大雨夜半に至て靜まり、洛陽城中の民家數千間崩れ破れて死する者も多かりけり。これをこそ希代の珍事かなと怪む所に、同き四年の二月に洛陽夥しく地震して、禁門省垣こと/〃\く倒れ、海水溢れ湧て、登・萊・沂・密の海ちかき國は人家みな大波に捲れて百姓死する者數を知らず。
是直事にあらずとて改元ありて熹平と号す。此より邊境より/\(*しばしば)謀反する者あり。熹平五年又改めて光和と号す。ゥ處に怪異の事ありて、雌雞化して雄となる。
六月朔日、十余丈のK氣地より起て温コ殿に入る。秋七月、玉堂の内に虹あらわれて五原山の岸こと/〃\く崩る。其外種々の怪ことども數を知らず起りければ、是まことに一人の愼・天下の大事ならんとて、勅して群臣を金商門に集め、災を除の術を問玉ふ時に、光祿太夫楊賜・議カ蔡邕二人表を上て申けるは、近年打つゞき怪異の事共起り候は皆是亡國の兆なり。天なほ漢朝を捨ず、變を示して君臣を戒玉ふ。古より天子見ルトキハレ怪ヲ則チ修ムレコヲと云り。今内官漫に權を執て天下の禍を成す。早く之を除玉はゞ、天災自ら消すべしと密に奏聞しければ、其の事忽に洩て楊賜・蔡邕等内官の爲に殺されんとせしを、呂強と云ふもの蔡邕が才を惜み、命を乞て助てけり。
其後内官に張讓・趙忠・封諝・段珪・曹節・候覽・蹇碩・程曠・夏輝・郭勝と云もの十人、みな君に諂ひ事て專天下の政を掌る。此ゆへに之を十常侍と号して、朝廷敬ひ重んずること師父の如く、ゥの官人その門下に伺候して阿り服せんことを欲す。
爰に
中平元年(*184年)甲子の
歳鉅鹿郡に
張角と
云ものあり。
二人の
弟を
張梁・
張寳と
云り。
元來不第の
秀才たりけるが、
或日山中に
入て
藥を
採、
一人の
翁に
逢。この
翁眼の
内碧にして
顔は
童子の
如く、手に
藜の
杖を
携へ、
張角を
呼で
怪き
洞の
中に
到り、
三卷の
書を
授けて
申けるは、これを
太平要術と
名づく。
汝よく
此ノ書を
讀て、
唯つねに
道を
行ひて
善を
施し、
天に
代りて
普く
世の
人を
救はんことを
思へ。
若惡心を
起しなば、
必ず
身を
亡べきぞと
云ひければ、
張角再拜して
其名を
問に、
我は
南華老仙なりと
答て、
一陣の
風吹起り
行方しらず
飛去りにけり。
張角この
書を
讀て
晝夜怠ず
學び、
遂に
雨を
呼風を
呼の
術を
得て、
自ら
太平道人と
号す。
其ころ天下大に疫癘行はれて死する人多かりければ、張角あまねく符水を施すに、驗を得ずと云ものなく盡く張角が座前に來て、自ら其過を讖悔し、皆立どころに平伏(*平復)す。張角これより大賢良師と号し、五百余人の弟子を四方に分て病を救しめ、三十六の方を立て大小を分ち、皆將軍の名を以て方に名づく。此ゆへに大方を行もの一万余人・小方を行もの六七千人、みな一部の長を立て、蒼天已ニ死ス、黄天當ニシ レ立ツ。歳在テ二甲子ニ一、天下大吉と云はやらせ、甲子の二字を書て遍く施與へ、郡縣・市鎭・宮觀・寺院こと/〃\く之を推ずと云フこと無く、その後州・幽州・徐州・冀州・荊州・楊州・兗州・豫州の間には、家々に大賢良師張角と書て敬ひ貴こと鬼~を禮するが如なりければ、張角心の内に非分の望を發し、先大方の馬元義と云ものに金銀を持せ、禁裏に入て密に十常侍が心を結しめ、封諝・徐奉等に内通のことをョみ、二人の弟張梁・張寳を呼て申けるは、至て得がたきは民の心なり。今民の心われに皈す。若この時に乘て天下を取ずんば、万人の望を失はん。ねがはくは二人の本意を聞ん。張梁・張寳これ元より望ところ也と云ければ、張角大に喜び、一樣に黄なる旗を造り、三月五日に一同に事を起んとて、唐州と云弟子に書簡を持せ、禁裏に入て内々たのみ置たる封諝・徐奉等に告知さしむるに、唐州にはかに心を變じ、直ちに奉行所に行て事の子細を訴へければ、帝大に驚き玉ひ、大將軍何進に命じてまづ馬元義を生取て首を刎させ、内應せんとしたる者共千余人を獄に下し玉ふ。
張角事の現れたるを見て速に兵を興し、自ら天公將軍と号し、張梁を地公將軍と号し、張寳を人公將軍と号し、百姓を集めて申けるは、今漢の運氣すでに盡て大聖人世に出たり。汝等宜く天に順て太平を樂めと云ければ、四方の愚民われも/\と來り集り、皆黄なる絹を以て其頭を包ければ、世の人これを黄巾の賊と号す。張角已に四五十萬の勢を得て、在々所々に火を放ち、人の財寳を掠め取。これに依て地頭・官吏も防べき樣なく、盡く逃かくれて其騷動斜ならず。
大將軍何進これを誅せんとて帝に奏しゥ所の守護職に命じて軍勢を催促せしめ、廬植・皇甫嵩・朱雋三人を大將とし、三手に分て追討せしむ。此時張角が一軍幽州・燕州の界を手痛く犯しければ、大守劉焉これを防ん爲に校尉鄒と云ものに命じ、ゥ處に高榜を立て忠義の兵を集めしむ。
其ころ涿縣の樓桑村と云ところに一人の英雄あり。此人つねに言少して禮を以て人に下り喜怒色に形さず、天下の名ある人を友として其志きはめて大ひなり。身の長七尺五寸、兩の耳肩に垂、左右の手膝を過ぐ。能く目を以て其耳を顧る。
漢の中山王劉勝の後胤にして景帝の玄孫なり。劉備字は玄コ、父を劉弘と云しが幼して喪しかば、母に事て孝を盡し、自ら履を售莚を織て家業とす。舍の東南の方に大なる桑の木あり。高さ五丈あまりにして、遙に望めば重々として車蓋の如し。往來の人この木を見ては尋常にあらずと云。李定と云フ人これを見て、この舍より必ず貴人を出さんと云へり。
時に年二十八歳なりけるが、天下に黄巾の賊蜂起して國々より忠義の士を招くと聞て、自ら出て州郡に立たる高榜を讀長嘆して歸んとするに、後より大なる聲を揚て大丈夫の士國の爲に力を出さずして何ごとをか長嘆するぞと詞を掛る者あり。
玄コ後を屹と見れば、その人身の長八尺、豹頭・環眼・燕頷・虎鬚、聲雷の如く勢ひ奔馬に似たり。乃ち立回てその名を問ば、答て曰、某は張飛字は翼コと云もの也。世々涿郡に住居して少の田地を持、酒を賣猪を屠て家業とし、專ら名ある人と相交る。今この處を過るに、足下の高榜の下にて長嘆し玉ふを見る。是いかなる故ぞ。
玄コの曰、われ今は流落たれども本は漢室の宗族にて劉備字は玄コと云もの也。近ごろ黄巾の賊しきりに州郡を掠刧す。我これを平げて社稷を扶んと思へども、力の足ざるを恨る也。張飛が曰、よくも我心に合へり。其義ならば我に相從ふ者四五人あり。共に志を合せて大義の計略を成んとて、伴て玄コの家に來り酒を飮で相議する所に又一人の男きたり。一輛の車を酒店の門外に留め置、内に入て桑の木の下に座し家主を呼て酒を買。玄コその体を見れば、身の長九尺五寸、髯の長さ一尺八寸、面は重棗の如く唇は抹硃の如し。丹鳳の眼・臥蠶の眉、相貌堂々威風凛々たりしかば、迎へ入て名を問に、答て曰、われは河東解良の人にて關字は雲長、始め壽長と云り。先年クの豪雄勢ひに依て我を侮しゆへ、我之を殺して江湖の間に遁れ流浪すること五六年なり。今黄巾の賊蜂起して國々の守護英雄の士を招く。我この故に來りたり。
玄コ大に喜び、我志の程を詳に語りければ、關天の助なりと喜び、共に張飛が家に行て義兵を起さんことを議し、三人の内に玄コ年長じたればとて二人再拜して兄とす。張飛が曰、わが宅の後なる桃の園幸に花の盛なり。明日白馬を宰て天を祭り烏牛を殺して地を祭り、三人生死の交を結ばんは如何に。玄コ・關しかるべしと。
同じ
次の
日、
桃の
園に
出て
金紙銀箋を
列ね、
牛馬を
殺して
天地を
祭り、
共に
再拜して
誓て
曰、いま
此三人
姓氏異なりと
云ども
結んで
兄弟となり、心を
合せ力を
恊せて
漢室を
扶け、
上は
國家に
報じ
下は
萬民を
救べし。
同年同月同日に
生ることを
望まず。
願くは同年同月同日に
死ん。
皇天后土この心を
照鑒し、
若義に
背き
恩を
忘ば
天人共に
誅戮すべしとて、
祭り
了て
玄コを
兄とし
關を
次とし
張飛を
其次とし、
共に玄コの母を
拜して、
其後クの
内にて
腕立する
若者共を
集、
桃の
園にて
酒宴し、
三百余人に
及びければ、
明日より
旗を
擧んと
議するに、
馬一匹も
無れば
如何せんと
案ずる
所に、
誰とは
知ず
數十人打つれて
多く
馬を
引せたる
人々この
處へ
向ひ
來ると
申す。
玄コの曰、此天われを助る也とて、共に出て之を見れば、中山の大商人に張世平・蘇雙と云ものゝ二人也。毎年北國に行て馬を商ひけるが、賊徒路を塞で往來を惱しけるゆへ空く故郷に回るなり。玄コ迎へ入て酒宴をなし、逆賊を退治して漢室を助るの由を語りければ、張世平・蘇雙その志を感じ、駿馬五十匹・金銀五百兩・鉄一千斤を贈る。玄コこれを受て、良功(*良巧)に二振の劔を打せ、關は重さ八十二斤に龍の偃月刀を作り、冷艶鋸と名づく。張飛は一丈八尺の蛇矛を造りて、甲兜までも一齊に備りければ、さらば時を廻さず打立とて其勢五百餘騎にて幽州に到る。
大守劉焉大に喜び、其姓名を問に漢室の宗親なりとて家の系を語られければ、劉焉甚だ敬ひ相親むこと叔姪の如し。時に黄巾の賊徒大方程遠志と云もの五萬余騎にて涿郡を犯しければ、太守劉焉乃ち校尉鄒を太將(*ママ)とし玄コを先陣として打向て戰はしむ。
劉玄コ破ル二黄巾ノ賊ヲ一
玄コ五百余騎にて直ちに大興山の麓に推寄ければ、賊軍五萬余騎にて陣勢を張。玄コは關・張飛を左右に備へ、反國の逆徒なんぞ早く降らざると呼はりければ、賊の陣より副將ケ茂と云もの馬を飛して打て蒐る。張飛眼を怒して虎髯倒に竪、丈八の矛を舞して出迎へ、只一合にしてケ茂を馬より突落し首を取て徐々と回りければ、賊の大將程遠志大に怒て斬て蒐る。關窒アれを見て八十二斤の龍刀を提げ、馬を躍らせて出ければ、程遠志その勢ひに畏れ退んとする所を關一刀に斬て落す。賊軍大將を討れて皆降人に出ければ、玄コ打取たる首を路の岐に梟させ、功を収て幽州に回る。
大守劉焉喜で出むかへ、ゥ軍を厚く賞する所に州より早馬きたり、太守龔景急を告ると報じければ、大に驚き牒文を披き見るに、黄巾の賊徒城を圍で事すでに急なり。兵を興して後攻をせよと也。劉焉乃ち玄コを呼でいかゞせんと議するに、玄コの曰、某ねがはくは行て救はん。劉焉大に喜び、鄒に五千余騎を授け、玄コを先手として州を救しむ。
玄コの一軍すでに賊の陣ちかく推よせ、其体を窺見れば、盡く髪を乱して黄なる絹にて額をつゝみ、八卦の文を書て證とし、救の來るを見て引分れて之を拒ぐ。玄コ五百余騎にて入乱れて戰へども、賊は目に餘る大勢にて新手を入かへ/\防ぎしかば、玄コ戰ひ屈して三十里引退き、關秩E張飛と相議し、味方寡して勝こと能はず、明日奇兵を出して賊を破らんとて、關窒ノ千余騎を付て山の左に伏をき、張飛に千余騎を付て右に伏をき、皆金を鳴すを相圖と約し、次の日鄒・玄コ一手に成て推よせければ、賊の大勢潮の湧が如クに競ひ蒐り、喊の聲大に震ふ。玄コしばらく戰ふ体にて、詐て退きければ、賊軍急に追きたる。既に山の邊に近づき、玄コの勢一度に金を鳴しければ、左に關秩A右に張飛、二手に分れて討て出、三方より取卷たり。賊軍大に破れて四角八方に逃ちりければ、玄コ勢ひに乘て州の城下に殺到す。城中より之を見て大守龔景門を開て打出ければ、賊軍前後に度を失ひ、右往左往に落失て州の圍忽ちに解にけり。
大守大に喜び、重くゥ軍を賞しければ、鄒軍を収めて幽州に回らんとす。時に玄コ申されけるは、近ごろ中カ將盧植勅命を受て賊の首將張角と廣宗にて戰ふと聞り。我昔し公孫瓚と共に盧植を師とせり。今ゆいて力を合せ、共に賊を平ぐべし。鄒が曰、某いまだ主の命を受ざれば輕々しく行ことは叶まじ。足下もし行玉はゞ、兵粮は心の儘にし玉へ。幽州の勢は某こと/〃\く収め回らん。
玄コこれに依て手勢五百餘騎を引て廣宗に到り、盧植に見へて右の趣を語りければ、盧植大に喜び重く賞して手下に留む。此時賊の首將十五萬の勢にて廣宗に屯し、官軍五萬の兵と日久しく攻戰ひ、いまだ墓々しき勝負も無りければ、盧植乃ち玄コに向て曰、此所は賊軍みな要害に引こもりたれば、急に勝負はあるべからず。今賊の弟張梁・張寳二人穎川に在て官軍皇甫嵩・朱雋と相戰ふ。今御邊に千餘騎の官軍を借べし。急ぎ是より穎川に行て戰を扶玉へ。玄コ乃ち牒状を請取、千五百餘騎にて穎川に向はる。
この時皇甫嵩・朱雋は賊將張梁・張寳と挑み戰ふこと數度に及び、賊の勢打負て長社と云ところに引退き、草木の深き所に陣を取ければ、皇甫嵩一手の勢を忍で敵の後に廻し、ゥ軍に投火把を持せ、夜の二更の頃四方より推よせて一度に火を掛、喊を造て攻ければ、折ふし風急にして火焰天を焦し、賊の勢共上を下へと騷ぎ立て、馬に鞍置く隙もなく、人は甲を被るにも及ばず、十方に散乱せり。
張梁・張寳這々のがれて走りければ、向ふより一彪の軍馬みな紅の旗を指て打出、眞先に進むは又これ一人の英雄、身の長七尺、細眼・長髯、膽量人に過、謀衆に超、つねに齊桓・晋文匡扶の才なきを笑ひ、趙高・王莽縱横の策少きを嘲り、兵法は呉子・孫子に劣ず。沛國譙郡の人に曹操字は孟コ、小字を阿瞞と稱し、又吉利とも云り。乃ち漢の相國曹參より二十四代の後胤にして、大鴻臚曹嵩が嫡男也。官騎キ尉に報ぜらる。今黄巾の賊を破んとて官軍五千餘騎にて馳きたり、路を塞ひて攻戰ひ、首を取こと一萬餘級、馬物の具を奪取、皇甫嵩・朱雋に見へ一手に成て逃る敵を追蒐る。
玄コは此の時穎川に來り、賊の破たるを見て、入て皇甫嵩に見へ盧植が牒状を出しければ、皇甫嵩が曰、いま賊軍大に破れて走たれば、必ず廣宗に行て張角と一手に成べし。御邊早く馳皈り盧植に力を合せて怠ること勿れ。玄コこれに因て又廣宗を指て引回す所に、向より二三百の兵共罪人を車に載て出きたる。玄コたれやらんと怪み、近くなりて之を見れば乘たる罪人は中カ將盧植なり。大に驚き馬より下て其ゆへを問ば、盧植涙を流して曰、われ久しく廣宗に在て張角を取圍み度々戰ひ勝けるが、張角あやしき術を成けるゆへいまだ盡く破り得ず。近ごろ黄門左豐と云もの勅使として來り、我に賂を與よと云しゆへ、我軍中には金銀乏して勅使に献るべき物候はずと答ふ。此に依て左豐深く我を恨み、帝に讒して枉て我を罪に落し、此の如く召捕て、董卓を大將として廣宗の賊を退治せしむ。張飛きゝもあへず大に怒り、守護の武士を殺して盧植を救んとひしめきければ、玄コ急に止めて曰、これ天子の勅命なり。汝なんぞ躁しき。關窒ェ曰、いま盧植官を罷らる。我等不レ如カ涿郡に回るべし。玄コこれに從ひ兵を引て進む所に、忽ち山の後に喊の聲きこへて、馬烟夥しく起りしかば、岡の上に登て之を望に、廣宗にて官軍戰ひ負ぬと覺へて、黄巾の軍勢天公將軍と書たる旗を先に進め、官軍を追蒐るなりければ、玄コの曰、これは張角が勢なり、官軍を救ずんば叶まじとて、關秩E張飛と馬の鼻を双べて討て出れば、張角が勢大に驚き、すはや敵の伏勢の蒐るは、後を塞れなとて我先にと引回しければ、玄コいよ/\進んで賊の勢を四角八方へ打ちらし、五十里あまりぞ追蒐たる。
董卓は廣宗の戰に負て賊軍に追れけるが、誰とも知ず一手の勢打て出賊軍を蒐ちらしぬと報じければ、立回りて玄コに對面し、禮了て今いかなる官職ぞと問。玄コ官位なき由を荅られければ、董卓甚だ輕んじて了に恩賞をも與ず。張飛大に怒り、我等血を流して大敵を破り彼が辛き命を救たるに、假令恩賞こそ無とも、何とて芥の如に輕んずるぞ。我この賊を殺んとて矛を舞して入んとするを、關昼}に引留め、玄コ諫て申されけるは、彼は官高き朝廷の臣、殊に許多の軍馬を領す。我等もし之を殺さば、必ず謀反人と呼るべし。不レ如カこの處に留るべからずとて、其夜兵を引具して朱雋が陣へ趣ける。
安喜縣ニ張飛鞭ツ二督郵ヲ一