柳 原 通 商 店 
のご案内

 


  1. 柳原通商店街の位置
  2. 交通アクセス
  3. 柳原通商店街について
  4. イベント等
  5. 名前の由来
  6. 柳原通周辺について
  7. 再開発事業
  8. 柳原近辺の学校
  9. 名古屋城築城について
  10. 柳原周辺の神社仏閣について
  11. 堀川(黒川)

 

 

 


1.柳原商店街の位置

  名古屋市北区の南端に位置し、東を国道41号線、北を堀川、西を名城公園と市営、県営住宅、南を官庁街にそれぞれ接している。

    名古屋城の北東方向にあたる。 簡易地図

 


.交通アクセス

地下鉄名城線名城公園駅より東へ徒歩約5分。
名古屋高速2号黒川出入口より、南西へ車で約1分。

 


3.柳原通商店街について

商店街組合法に基づき、昭和37年12月1日、柳原通商店街振興組合が設立。

歩道上に片流れ式アーケードがあり、現在、約70店舗が営業している。

 柳原通商店街振興組合の設立は昭和37年(1962)4月で県下では振興組合設立第1号、全国でも2番目の早さである。
 当時は商店街振興組合制度の実地に合わせ、全国第1号をねらっていたがタッチの差で全国初を逃がした。

 


4.イベント等

4月上旬2日間 春祭り 柳原公園にて開催
7月下旬〜8月上旬
2日間
夏祭り 1日目 郡上踊り、ブラスバンド行進
2日目 阿波踊り、和太鼓ショー等
12月下旬 歳末大売り出し くじ引き

 


5.柳原の名前の由来

 名古屋城築城以前、名古屋北部は沼沢地であり、その中の台地に柳が多数生えていたことに由来する。

 また、名古屋城の非常口として作られたとされる、土居下と柳原の間にあった柳原街道が元になっている。

 中古には大河の川筋の両岸に柳が多く茂った野原で名古屋城が築城されるまでは沼や沢の中にある台地に柳が多く茂っていた事から名付けられたと言われる。

北区誌 平成6年度版


 柳原の土地は名古屋城が築城されるまでは沼や沢の中に有る台地に柳が多く生えていたので柳原と呼ばれていたと云われている、御土居下と柳原との間600mは昔から沼地であって慶長の初めの頃までは何者もこの沼を渡る事が出来なかったが、後に開墾されて田となった。柳原街道は御土居下と柳原を結ぶ唯一の街道でこの田の中を通っていた。

 この柳原街道の中央に「石橋の川」と呼ぶ小川があって石橋が架けてあった。この石橋から北東約200mの所に古池があり、これが七尾天神ができたゆかりの池である。

天台宗開宗1200年記念 平成15年9月30日発行


柳原通周辺について

 


御土居下

 御土居下のあたりは、はじめ沼地であったが三の丸造営の時、その東北隅の丘陵の土を埋立て、藩主の脱出口にしたものである。

 もとは鶉口(非常口または裏口の意)と呼んでいたが、後に藩主の脱出経路の警備にあたる同心の屋敷地にとなってから、御土下と呼ぶようになった。

 囲いや木戸で外部との接触は遮られており、一般にはその存在が知られていない場所であった。屋敷の数は時代により若干の変動はあるが、およそ18軒〜16軒であった。御土居下の同心は軽輩ではあるが、武芸、書画など一芸に秀でた者が多かった。


柳原

 三の丸御門から柳原街道のきこく坂を下ったあたりを深田と云い、その先に長栄寺付近一帯が柳原であるが、深田を含めて柳原と称する事もある。

四至

東は杉村の西杉南は成瀬隼人正の中屋敷、西は御深井御庭、北は田幡村であった。

 かつてこの辺りには、大きな川が流れ柳が生茂っていて馬も通れない低湿地であった。
 後に水田が開かれ、尾張家御付家老で犬山城主であった成瀬隼人正の家臣屋敷も立ち並んだ。


 明治2年の「尾府全図」によると、御用水杁あたりの南に長栄寺がある。天台寺の寺で豪潮寺とも云い、元は愛知郡東郷村にあったが、文政六年(1823)十代藩主斎朝から祈願所を設ける事を命じられた豪潮が、この地に移したものである。

 長栄寺の南は御広敷組、御側組両組の武家屋敷地であった。ここはかつて柳原御殿があった所で尾張藩の支藩、高須藩別邸として使用されていたが、後にすたれ、両組の屋敷地となった。


 御側組地内にある深島神社は主神が田心姫命であり、宝徳二年(1450)、九州の宗像神社に勧請して祭祀したのが始まりとされている。

 柳原の古名「深島」から付けられた社名で、藩主はじめ民間の信仰も篤かった。
 柳原街道沿いにあった「祭場殿」は名古屋城の東北にあたり、鬼門よけのために城内から移されたものである。


 柳原街道をはさんで祭場殿の右側は柳原表町、柳原裏町といい、成瀬隼人正の家臣の屋敷地である。

 柳原の南の方は深田を経て成瀬隼人正の中屋敷になっており、ここに七尾天神永生寺がある。
 その由来について『志水の西、成瀬家の中屋敷の内にあり、真言宗長久寺末。永正年中(1504〜21)建立にて天満宮の社僧なり、管神の霊像は文亀年中(1501〜04)、七尾ある亀に乗り給ひて此側なる石上に出現ありしかば、永正改元(1504)のころ社を建て、安置せしよし当寺縁起に見えたり』とある。
 この七尾の神亀は、七尾天神と御成道との間のあった天神池から現れたといわている。

 柳原の中程を東西に横切る御成道は杉村を経て大曽根地内の下街道に出る街道で、元禄年間(1688〜1704)に、二代藩主光友が隠い後、大曽根に御殿を造営した際、光友の通う道として開設されたものである。

名古屋市北区誌 北区制50周年記念誌   平成6年2月11日発行


清水口の繁華街

 元和四年(1618)に成瀬正成が犬山城主になってから、名古屋と犬山の往来が盛んになった。この時代には本街道とも、稲置街道ともよばれていた。
 稲置街道は、木曽街道の楽田の追分から犬山を結ぶ重要な街道であった。
 清水あたりでは、木曽街道と呼ぶのが正しいのであろう。また藩主の参勤交代の時もここを通った。

 小牧方面からの名古屋への入口になっていたので、昔から買い出し町として商業活動がさかんにおこなわれた。小牧方面からの人々は、乾物、漬物、日用品を買い、明治の頃は、馬を連れた農家の人々が買物をした。近くの農村の人々は大八車を引いて名古屋を売りに来た帰りに、買物をした場所であった。

 当時の様子と現在の様子を比べて見ると、3店あった銀行がなくなっているが、郵便局や酒蔵は現在でも残っている。
 春日神社の北に清栄座という名前の劇場がある。今は残っていないが、この町の人々や買物に来た人の娯楽の場であった事だろう。現在では、市バスは国道41号を通るが、かつては東区白壁町から市バスも通り、人通りが多く賑わっていた。
 今では市バス路線からも外れ、人通りが少なくなると共に多くの商店が商売をやめていった。 


明治の土居下

 土居下は明治4年(1871)名古屋城三の丸の北東の士いに沿った東西に広がる町として誕生した。

 この地名の由来は、宝歴7年(1757)この地に18軒の御土居下同心屋敷きが設けられた事にちなんでいる(→図2)。

 明治の廃藩置県によって、この同心の役目も終った。それとともに他の地域と比べて生活が不安定な御土居下の同心屋敷に住む者も次第に減っていった(→図3)。
 更に明治40年(1907)になると、陸軍の命令で立ち退きを余儀なくされ、その地に昔の姿をとどめる事がなくなった(→図4)。

 現在は公務員住宅の南に「御土居下同心屋敷跡」の立て札と柳原の市バスの停留所「土居下」に、その名前を残すだけとなっている。

北区誌 北区制50周年記念 平成6年6月22日発行


明治末年頃の柳原には「天神池」という池があり、ぶくぶく泉が湧いていたという。

「清水、開校百周年誌」


明治の清水

 清水は名古屋台地の北端の坂の下ったところで、古くから町並みがあり、名古屋城下の北の入口として重要な所であった。

 明治時代になって、街道を自由行き来出来るようになると、小牧方面からの人々が名古屋に来るときに良く通るようになって来た。
 安井村や辻村、光音寺村の農民は、枇杷島の青果市場へ農産物を搬入するために、この急坂を大八車を押して通ったり、大家さんの了解を取って下肥を集めに来たりして、この清水の町を行き来した。その為、農民を相手にした乾物や日用品を売る店が多く立ち並ぶようになった。

 この通りに住んでいる古老の話によると、天びん棒屋、たびももひき屋、かっぱ傘屋、呉服屋等の店と清栄座という旅回りの役者が来る劇場もあったと云う事である。
 おそらく、この劇場は人々の憩いの場であり、また、コミュニケーションの場となっていた事であろう。

 この清水町あたりでは「清水」という町の名前とおり綺麗な水が湧いていた。そこでこの水を利用して酒を造る店もあった。

 旧城下と周辺地域との間で、人や物の交流が頻繁に行われるようになってきて、清水の町は名古屋の市街地の出入口として一層に賑わい、その重要性を増した。
 明治13年(1880)明治天皇が民間視察に巡幸された折に、この町の林家で休憩された事は、町の発展とも深く考えられる。なお、それを示す石碑と林家の座敷が、八王子神社の境内に今も保存されている。


柳原商店街  霞たなびく柳原

「名区小景」に柳原の霞という題で数多くの歌が載っている。

  の2首は柳原の情景をよくとらえた歌だ。

 柳原は三の丸の土居下にある里だ。
 朝日に輝く名古屋城。夕日の中に沈む名古屋城。城とともにあり、城とともに暮す里であった。
 春ともなれば、桜の花より先に柳が青々と芽吹く町であった。

 「金鱗九十九之塵」は柳原について、次のように記している。

 この地は太古は入海(陸地に入り込んだ海)であった。また太古は大河の川筋(川の流れに沿った一帯の地)で水源は三州猿投山である。今の御深井丸の地は、その川の深いところであった。

 両岸に柳が多く生茂っていて、このあたりは広い野原であった。柳が多く茂っている原なので柳原と呼んだ。
 今、この辺をすべて柳原と呼んでいるが、地名の由来の柳の木を見る事ができない。
 この地に植えられていた柳は、柳籠裏を作る柳の木であるという。今でも柳原の旧跡であろうか、畑一枚ほどの土地に柳が植えてある地がある。

 柳原の里を南北に抜ける道が柳原街道である。築城以前は馬が足をとられたら出られないという沼沢地帯であったが、しだいに埋められて田んぼになった。
 この柳原街道の中央に小川にかかる石橋があった。小川は清水地方から流れてきて、御用水の堤に突き当たって北進した。御用水は南進していく。
 南に流れる川筋、北に流れる川筋と二つの川が平行して流れていた。これは御用水に下水や田の落し水が入らない様にするためであった。

北区歴史と文化探索トリップ 名古屋北ライオンズクラブCN40周年記念誌


柳原御殿址  八重一重咲き乱れる

 長栄寺の南の地に、江戸時代八代藩主宗勝の第六子松平藤馬の豪壮な邸宅があった。世の人々はこの屋敷を柳原御殿と呼んだ。

 広大な庭には、山あり、池あり、四季おりおりの花に彩られていた。特に春の桜の見事さは圧巻であった。

 柳原御殿の主、藤馬が寛政十三年(1801)1月28日に亡くなってしまった。
 「高力猿候庵日記」は、その死を次のように伝えている。

 『二十八日柳原御殿、藤馬様ご逝去、二月三日まで物静か、音曲、鳴物等御停止。ただし普請は不苦由。』

 藤馬の死を悼み、城下が喪に服してひっそりとして居る様子がうかがえる記述である。藤馬が亡くなった後、柳原御殿は、その兄の松平掃部頭の別荘になった。

 松平掃部頭の夫人、聖聡院は「やなぎはらのはな」の文字を歌の句ごとに置いて、四首の和歌を詠んだ。

 松平掃部頭は文化八年(1811)に没した。別荘は日に日に廃れてゆき、文政2年(1819)にはとりこわされた。
 その跡地に柳原御側組という藩主の警固にあたる同心の屋敷ができあがった。

 柳原御殿のあったあたりは、今は人家がぎっしりと立ち並び、往時をしのぶ様子が何一つ残っていない。

北区歴史と文化探索トリップ 名古屋北ライオンズクラブCN40周年記念誌


 

枳穀(きこく)坂  夏草や つわどもの 夢の跡

 夏草が一面に生茂った御堀が眼下に広がっている。
 瀬戸電の東大手駅の横にある駐車場に立って御堀を見てる。おそらくこの御堀の下には何十年もの間、誰一人として足を踏み入れた事はないだろう。

 かつては、のんびりと瀬戸電(現名鉄瀬戸線)が走っていた。瀬戸電が栄に乗り入れられるとともに、東大手駅が地下に作られた。御堀の中の鉄路は取り払われて、今は夏草の生茂るままになっている。

 瀬戸電が走っていた三の丸の外堀の上には、江戸時代には枳穀が植えられていた。
 枳穀とは白い花の咲く「からたち」のことだ。清楚な純白の花を咲かせる「からたち」には鋭い刺がある。盗人を防ぐ防ぐ為に「からたち」を植えて垣根とした家もある。

 柳原の商店街に下る坂道の東側には、成瀬家の中屋敷と呼ばれた控地(万一の時に使用する為、おらかじめ備えておく土地)があった。中屋敷の垣根にも「からたち」が植えられていた。
 坂道は東側にも西側からも「からたち」にはさまれている。からたちの中の坂道は枳殻坂と呼ばれていた。清楚な甘い香りが漂う花の中の坂道が枳穀坂だ。

 そんなロマンチックなイメージとは、かけ離れた使命を江戸時代の枳穀坂に帯びた。瀬戸電東大手駅とは、名古屋城の東大手門をさす。東大手門は、東門とも呼ばれ、三の丸から東方に出る門であった。

 東大手門から坂道を下った地に、かつては瀬戸電の土居下駅があった。
 土居下駅の地には、江戸時代から明治の中ごろまで馬冷所があった。馬冷所とは、冷たい泉のわき出ている池に馬を入れて休ませる所だ。
 馬冷所の近くには、東矢来木戸があった。この木戸は、いつも固く閉ざされていた。万一の時に藩主が城をぬけ出し、木曽路に落ち延びてゆくための非常口の木戸であるからだ。
 非常口を守っていたのが御土居下屋敷の同心たちだ。

 枳殻坂は、東大手門から土居下にくだる坂だ。坂道の両側に植えられている枳殻は、何か尾張藩に重大な事件が起きた時には、柳原街道を防ぐバリケードになった。枳殻で坂道をふさげば、道をあがる事も、さがる事もできない。枳殻を坂道の両側に植えて防備柵としたのは、藩祖義直の時であったという。

北区歴史と文化探索トリップ 名古屋北ライオンズクラブCN40周年記念誌


御土居下同心屋敷址  藩主を護る秘境の同心

 同心とは与力の下にあって庶務や警察の事を司った下級の役人の事だ。御土居の下には、18名の同心が住居を構えていた。

 御土居下に住む同心は、他の同心と違い特殊な任務を帯びていた。城に不慮のできごとが起った場合、あるいは敵が城に攻め込んできた場合、藩主が城をぬけ出し、秘密の出口から土居下に出て、大曽根、勝川を通り木曽に落ち延びてゆく。その時、藩主を身命を賭して守る役目が御土居下同心だ。
 藩主の脱出口は、本丸と二の丸の間の空掘だ。そこに石段を伝わっておりる。その空掘りを渡って対岸の高麗門に出る。
 高麗門のところから御土居下同心が警固をして、藩主を落ち延びさせるという脱出方法が考えられていた。高麗門一帯は鶉門(非常脱出口)と呼ばれていたが、それでは脱出口を教えるようなものなので、土居下と改称された。
 御土居下同心は、平常は御深井の庭、二の丸御殿の警備、東矢来、清水御門の警備にたずさわっていた。
 しかし緩急あれば、藩主を落ち延びさせる秘密の使命を帯びていた。秘密の使命は、藩主と18名の同心以外は誰一人として知るものはなかった。

 秘密の使命は同心の子弟に代々ひきつがれていった。御土居下同心の組織が作られたのは、宝暦七年(1757)の事だ。
 明治維新と共に組織は消滅したが、同心たちは土居下の地を離れる事なく生活していた。

 明治39年(1906)同心屋敷が練兵場の邪魔になるというので陸軍から立ち退きを命じられた。多くの同心の子孫が、この地から去っていったという。

北区歴史と文化探索トリップ 名古屋北ライオンズクラブCN40周年記念誌


柳原街道  どこにつながっていた?

 土居下から北へ33mほどの区間は大曽根下屋敷を建てた時に整備された「御成道」の一部であり、どうやら柳原街道は「柳原へゆく道」という意味で、本当の意味での街道ではなかったようだ。

 本格的な街道ではなかったが、柳原周辺にはお城に絡んだ秘密のにおいのする道があった。
 落城時の脱出路である。土居下に同心屋敷がおかれ、万一の時藩主は同心たちに警護されつつ屋敷から柳原街道を横切り、小道を清水、大曽根を経て木曽をめざす手はずであったという。

 また、柳原街道を通り御用水に出て、用水の岸を松並木に姿を隠しながら落ち延びるルートも用意されていた。
 ここには旅人でにぎわう街道ではなかったが、戦に備えた武士が密やかに用意した道であった。

北区歴史と文化探索トリップ 名古屋北ライオンズクラブCN40周年記念誌


清水の昔話

 昔は大曽根、柳原通、すずらん通も商店街はなく清水通だけが様々な店舗が並び盛んな商業活動が行われていました。

 北の入口は安井町、小牧方面からの出入口となり、南は清水口で市電に乗る乗客は志賀町、安井町方面より沢山の人手で朝と夕方の清水通は大賑わいでありました。
 並んでいる店は漬物、日用品、農業用金物店又荷物をかつぐ天秤棒、お蚕のまゆ問屋、さつま芋問屋、足袋、もも引、桶屋、カッパ、傘や、石や、提灯や、等で買物客は大八車、馬車等で遠方から来るので弁当持ちです。
 途中荷売屋と云って弁当を食べる店があり、弁当持参の為、おかずだけを買って食事をしたものです。また明治天皇が明治十三年に名古屋へ御巡幸された時、清水一丁目で御休息され、その座敷を保存する為現在は八王子神社境内に移転されております。
 尚清水小学校東方清水通に西行橋と云う所がありますが、昔は川に橋が架かつていました。その橋で西行法師が休息されたと云うので橋の名前が付いたと云われています。

 昔は清水口より清水通をほろ馬車が小牧方面へ通っていました。昔の清水通のお祭りは4台の山車が出て名古屋中に知られた大祭で露天商も300軒程で賑いました。
 八王子神社には大きな池があり亀が何百匹もいました。祭りにはその池に3階建ての黒船をを浮べて、1階、2階、3階で地元の可愛い踊り子さんが舞踊を奉納されたものです。
 夜はローソクの灯りを付けた大提灯を百数個付け、それは見事なものでした。現在はその山車等は戦災で焼失しました。

平成3年4月25日 「清水区政だより」  文 故伊藤三由氏


柳原の昔話

 昔は土居下の坂に旧制愛知一中(現在の明和高校)があり、その南側には裁判所がありました。
土居下の坂はキコク坂と言って坂の両側はキコクの植木で一杯でした。坂の下には瀬戸電の土居下駅があり、その北には乗馬クラブ、その東には双葉プール(その頃は名古屋でも珍しかった)があり、以前はお土居下と云って同心屋敷があった一帯にお城を守る忍者、武士達が多く住んでいた。

 土居下山にはお城に通じる洞穴が所どころにありました。お城一帯を軍隊が使用した当時の土居下、柳原は軍人将校の住宅が多く少し北に行くと尼僧学論と云って全国で唯一つの尼さんの学校があり、その北に豪潮さんと云って足洗いの名所として知られ、遠くは瀬戸方面より瀬戸電の終夜運転を利用して参詣のお客で賑ったものです。

 その頃黒川沿いには、まゆを原料としての原製糸工場があり1000名以上の女工さんが働いていました。時の天皇がこの地方にお見えになった時、絹糸ををお買上げになられた記録が残っています。

 田舎出の女工さんばかりの為、盆踊りが昔から盛んで土地の人々出掛けて柳原の名物でした。(現在も商店街の夏祭で郡上おどりが引継がれている)。現在はその跡が北青年の家、丸栄の集配センター、シャチバス、八王子中学となり製糸工場の名残として残っているのはシャチバス内のレンガ造りの建物だけがその一部として残っています。
 現在のシャチバス、八王子中学、区役所の南道路は昭和36年までは御用水としてお城のお堀へ流れていた川でした。

平成3年9月5日 「清水区政だより」 故伊藤三由氏


名城公園と名城住宅地域の昔話

 この地域は昔北練兵場と言い、軍隊の演習場でラッパの音、軍馬の足音、銃声等で激しい訓練の様子が良く分りました。
 お堀の北東の小さな森の中に招魂社が安置されていました。この招魂社には戦死された人々を納魂され毎年5月6、7日の陸軍記念日には招魂祭が行われ広い練兵場では打上げ花火、競馬、又は見せ小屋その他沢山の露天商で大賑いでした。
 招魂社は今の護国神社の事で、大正の頃は正午になると今の国立病院の北隅の高台で北向きに空砲をドンドンと打ち時間を知らせました。月曜日から金曜日までは2発、土曜日はどんと1発、その為半ドンとも云われました。

 名古屋城や松林を背景に映画の撮影もされました。戦前の正月には軍隊の閲兵式や名古屋市消防団の出初め式が盛大に行われ、各町内の消防団員のハシゴの曲芸等が披露され大人気でした。

 荷物運搬にトラックが無い時代ですべて船を利用したものです。
 築港から掘川、黒川を通って現在の北区役所、北東猪子病院の北側で積荷を下し船を回転して帰ったものです。
 なお現在のキャッスルホテルの位置に伝染病患者の入院する好生館病院がありました。

平成4年1月8日「清水区政だより」 文 故伊藤三由氏


清水学区戦前の思い出(当時の町名等)

 深田町、船月町、豆園町、清水町上之切、出町、西杉町、金作町、八坪町、元柳原、柳原、田幡町。

 昔から学区内に在る神社は八王子神社(清水2丁目)大祭は戦前は5月14日、15日。現在は5月第三土曜、日曜に行われます。
 深島神社(柳原二丁目)大祭は10月10日、11日に行われます。

 学区内の仏閣は解脱寺(西杉1丁目)、西光寺(西杉1丁目)、長栄寺(柳原2丁目)、開闡(かいせん)寺(清水3丁目)、老松寺(清水5丁目)。
 尼僧学林(写真1写真2)(柳原1丁目)は昭和20はじめ年5月14日の大空襲で焼失(現在は覚王山内)。

 戦前は学区内を流れていた川が沢山ありました。
 北区役所南のバス通りには名城のお堀に注ぐ御用水が流れていましたが昭和36年頃シャチバスが移転、バス通りとなる為埋立てられました。
 清水5丁目には西行川が流れ西行橋がかかっていました。その橋に子供を捨てる真似をすると無病で寿命が延びるとの諺があり皆さんが実行されたものです。
 清水二丁目現在の清水市場の南の道路を東西に小川が流れていました。
 清水四丁目白竜酒蔵の南道路にも東西に小川が流れていました、どの川も綺麗な水で評判でした。

昔は「志水」でしたが清水に変った理由が分ります。白竜酒造は水が良いと云うので出来たと云われています。

平成4年4月25日、 「清水区政だより」 文 故伊藤三由


志水町

 志水は大坂を下った所にあって、町屋は道路の西側だけに広がっていたため、清水片町ともいった。

 ここは現在は東区である、片町に続く清水池町、杉出町の2町を含めて志水と称する事もあり、木曽街道の入口として、多くの商家が軒を並べる街村であった。
 慶長年間(1569〜1615)の名古屋築城に際し,三の丸付近にあった民家を、この地に移して町を形成した。町名を清水と記する事もあった。

 志水の大坂は現在国道41号の1本西の道路で、坂の上から北進するに従い、しだいに右に曲がっていた。
 大坂を下ると、道は直角に東に曲がって現在の国道41号を横切り、さらに北に曲がって坂を下る急な坂で往来がかなり難儀した。

 志水坂下の東の崖下には、亀尾志水という井戸があった、「この井ハ古しへより名水にして、百日の日照りにてもかくは事なし、この水あるゆへに、このほとりの地名を清水と号す」とあり、清水の地名がここに由来する事が分る。

北区誌  北区制50周年記念誌   平成6年2月11日


清水の昔話

 大正年間は犬山街道として東の瀬戸街道大曽根と共に名古屋の北の玄関として大いに栄七丁目に及ぶ町並みはあらゆる商家が軒を連ねていた。

 清水の町は農民の為の町であった、前記各村の農民は勿論庄内川以北の各村からも、この町を目指して集って来た。
 三師団の軍馬の寝藁を引きに来る車、荷馬車、牛馬、空の肥桶を大八車の前後2本ずつ立て並べ真ん中に大きな籠を据え、子供や時には妻を乗せた肥汲み兼買物の農民で混み合った。
 そしてこれらの荷車が帰る頃町は俄然活況を呈するのである。各店の前に車を止め一服付けながら買物をする態はさながら広重えがくところの一幅の絵であった。

 夏の明け方、遠く鍋屋上野あたりから娘や小学生が一荷の仏花を荷ない「お花イーキャー、お花はイイカイヨー」と声張り上げて通ってゆく。
 続いて新聞、牛乳配達の音、漬物屋のリン、豆腐屋のラッパ、玄米パン売りのメガホン、磨き砂売り、廃品回収業の美声、鍋釜のいかけ、こうもり傘直し、下駄の入れ、のこぎり目立て、らおし替、包丁磨きなどの渋い喉、熊の胃、孫太郎虫売りの恐ろしい声、オチニの薬売りの楽しい手風琴の調べ
、特に炎昼豊漁のいわしを百匹10銭、と声を張り上げて売りに来る下の一色や熱田のお兄さん。お客さんの差し出すどんぶりへ、“一ツヤー二ツヤー”と頭をちぎりながら数えるしわがれ声は何か頼もしい思いがしたものだった。

清水 開校百周年記念誌  鈴木丁魚氏


安土址 盆の月夜の酒盛り伝説

 弓を射る的の背後に土を山形に築いたところを安土という。

 柳原街道の坂をおりきった、土居下の南にこんもりと茂った森がみえる。ここが安土と呼ばれるところだ。
 安土は雑木が生茂るがままになっている。手付かずの自然が都心にそのままの形で残っている。

 安土は那古野台地の北端の崖に沿って作られた土居(城壁)である。柳原街道の西側は瀬戸電の走っていた御堀だ。御堀の西側は三の丸だ。三の丸の東北隅にある安土は高さ15mの崖の上に築かれたものである。

 名古屋城の安土に、弓の試射場ならぬ陸軍の鉄砲の射撃場が出来たのは明治時代の事であった。
 岡本柳英「名古屋城三の丸、土居下考説」には陸軍射撃場について、次のように記してある。

 東部の御土居はいわゆる安土であって、これを切り崩した東北隅の部分はほかの土居に比べ非常に巨大であって厚く、高さも約33mといわれた。

 明治時代になり、この東北隅の内側が陸軍射撃場になってからは、この土居の上に更に約7mの土を盛上げたのである。これは実弾が射撃場をそれるのを防ぐためであった。
 それにも拘らず流れ弾は時々土居下屋敷や北部の柳原の人家まで落下した。柳原では麦を干していた老婆がその流れ弾にあたり落命した。
 実弾実地の当日には土居の上に赤旗を掲げたが土居の人々はこの赤旗を見て戦々恐々としたのであった。

 後年実弾射撃場が小幡ケ原に移転して御土居の人々は安堵したのであった。実弾射撃場は幅約120mあり、御土居下の約4分の1はこの高さ約33mの土居によっておおわれていたのである。

 名古屋城の築城は難工事であった。幾多の犠牲者がでた。
 石を運ぶために、堀を作るために多くの人夫がかり出された。工事の犠牲となって、妻子の待つ郷里にふたたび帰る事の出来ない人夫も多くいた。特に安土の堀切(地を掘って切り通した堀)は難工事であった。土砂崩れが起きて、何人もの死者が出た。

 いつしか安土の土砂崩れで犠牲者になった人たちにまつわる伝説が生まれた。盆の月夜に酒盛りしている賑やか声が聞こえてくるというのだ。
 生前、苦しい堀切の工事の後に、仲間達と飲み交わしたと同じ様に盆の夜に、月光をあびて犠牲者たちが酒盛りを始めるという伝説。
 盆が終ると酒宴のざわめきは安土から消えてなくなるという。

 盆には犠牲者たちが冥土から、それぞれこの世に帰ってきて、久ぶりに逢って酒宴を開いて騒ぐというのだ。

北区歴史と文化探索トリップ 名古屋北ライオンズクラブCN40周年記念誌


名城公園  藩主の庭園から練兵場に

 名城公園は、名古屋城をはじめ、二の丸(愛知県体育館など)、三の丸(県庁街)、北園を含む、総面積76ヘクタールの広大な公園である。名古屋の歴史的、文化的な顔ともいうべき総合公園だ。

 春には2800本の桜が咲き誇り、660mの藤の回廊が散策する人々の目を、そのスケールの大きさとともに楽しませてくれる。

 名城公園と呼ばれている北園から城北住宅のあたりは、かつては名古屋台地が北側にむかつて切れ落ちた沼沢地で、広い北の水掘をへだてて御深井丸、及び二の丸の北に広がる城内よりはるかに低い土地であった。

 慶長十五年(1610)に名古屋城が築かれると、この沼沢地は北の守りの役目を果すとともに、一部を開いて「御深井(おふけ)の庭」あるいは「下御庭」と呼ばれる庭園がつくられた。
 庭園の中央には東西四町(463m)南北三町(327m)といわれた大きな蓮池があり、紅白の蓮が植えられ、ジュンサイが繁茂していた。ここの蓮根やジュンサイは非常においしく、将軍に献上されたこともあったという。

 北の池には、小高く土盛りし松が生茂る広い松山や竹林が造られ、城内の所々に御茶屋が設けられ、田や薬園などもあった。

 御深井の庭では、尾張徳川家の御庭焼といわれた御深井焼が作られた。ここで陶器が作られるようになったのは、名古屋築城から間もない元和二年(1616)からである。藩祖徳川義直が領内の産業奨励のため、蓮池の東北、瀬戸山と呼ぶ小山の下に窯を築かせ、瀬戸から工夫を招いて陶器を焼かせたのが始まりである。

 御深井釉といわれる独特の品があるものが生産され、瀬戸や美濃の陶器産業にも影響を与えるようになった。製品は茶道具をはじめ多種多様である。それらは一般には販売せず、献上品や贈答品、家臣や有力町人への下賜品に用いられ、「御深井製」「賞賜」と記されたものであって、御深井焼の持つ特別なステーサスを感じさせる。

 寛永十五年(1638)ころ、明の帰化人である陳元贇(ちんげんぴん・1587〜1671)が尾張徳川家に仕えた。彼は初期の御深井焼にも関与したようで、特有の作風から「元贇焼」と呼ばれ「陳柴山造之」銘の作品が伝わっている。
 その後御深井焼は一時中断したが、十代藩主斎朝の治世に再興され、以後廃藩まで続いていた。
 この地方の古くからの陶器製造の広がりを背景にした、尾張藩ならではのものといえるだろう。

 明治維新により名古屋城は大きく変貌した。

 明治5年(1872)から7年にかけて、本丸、二の丸、三の丸は陸軍省に引き渡され、東京鎮台第三部営(後名古屋鎮台第三師団)が置かれた。御深井の庭には築城当時から軍事施設ではなかったので、徳川家の所有のまま残される事になった。
 しかし明治22年(1889)になると軍用地拡張のため、この土地と小牧山の交換がおこなわれた。
 陸軍省に引き渡されたこの庭園に「北練兵場」に姿を変えた。練兵場とは兵を訓練をする場所である。

 富国強兵の国家政策のもと、強力な軍事力を保持できるように、徴兵された普通の若者を強い兵隊に変える為のきびしい訓練が日夜行われた。
 日々の訓練のほか、観閲式もこの広い北練兵場で行われ、毎年5月に行われる招魂祭では、花火の打ち上げや民間人による競馬が人気を博し、露天も出て大変な賑わいになったという。

 太平洋戦争が終ると軍はなくなり、再び平和な時代を迎えた。
 かつて若者たちが上官の怒声の下、汗と涙をぬぐった北練兵場は公園になり、子供や若者、お年寄りたちの場所になっている。名城公園は、今では古いものは残っていないが、歴史を探索する人々にとっても興味の尽きない所である。

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平成16年3月6日発行


清水口と稲置街道  名古屋の北の玄関

 国道41号と出来町通りが交差する地は「清水口」という交差点である。
 ここは名古屋台地の北端、空気が澄んでいるときは遠くに御嶽山も眺められる。

 江戸時代の金鱗九十九之塵には「越後の山々見ゆる」と書かれている。加賀の白山まで見えたのであろうが、今は滅多に見る事ができない。

 「清水口」の口は城下への出入口のこと。
 稲置街道(木曽街道)から城下へ入るには清水町を通るので、「清水口」というわけだ。
 名古屋の北の玄関口である。

 かつては清水口の他に、大曽根口(下街道)、駿河口(飯田海道)、熱田口(熱田街道)、枇杷島口(美濃街道)があり五口と呼ばれていた。
 今も口がついた名前が残るのは清水口だけではないだろうか。

 清水口から北へ41号は真っ直ぐに坂道を下ってゆくが、かつての稲置街道は清水口の交差点より西へ1本目の道として残っている。
 名古屋台地をのぼりおりするから急な坂道である。「清水の大坂」と呼ばれていた。
 今の様な舗装がない時代に、農作物などを満載した大八車を引いて上がるのはさぞかし大変だったであろう。

 坂の途中で道は国道41号線を渡って東側にうつり北へと続いている。所々にある商店は、北の玄関口として旅人や近隣農村地帯からの買物客でにぎわった事を示している。

 江戸時代初期には道の東側は1軒の家もなく1面の田畑であったが元禄6年(1593)ころからだんだん家が建ち始めたという。

 下りきると瀬戸線にぶつかる。
 昔はこのあたりに「亀尾清水」と呼ばれた清水が湧いていたという。

 瀬戸線の1本北に白龍酒造がある。嘉永年間(1848〜54)創業の造り酒屋だ。
 酒造りに欠かせない良い水が豊富に湧き、街道沿いで出荷に便利なこの場所が選ばれたのであろう。今でも純米酒はここの地下水で醸している。

 さらに進むと八王子神社がある。
 江戸時代後期になると、この神社付近まで商店が連なり「尾張徇行記」には『清水坂下から八王子神社までは商店がたちならんでおり、従来農家であった者も商売をしている』と書かれている。清水商店街の江戸の姿を伝える記録である。
 境内に古い小さな家が残されている。
 この建物は元は、瀬戸線より少し南の街道沿にあったものだ。わざわざ移築して保存されているのは、明治天皇ゆかりの建物だからである。

 明治13年(1880)、天皇は中山道経由で名古屋を経て京都を巡幸した。
 中山道の大井宿からは下街道を通っている。
 6月30日の午前7時に多治見を出発。勝川の地蔵池周辺の低湿地帯は馬車の通行が難しいので、新たに作られた道で稲置街道に出て南下、清水の坂下にあったこの建物で休憩した後、市内の東本願寺に午後3時30分に到着した。

 明治天皇が巡幸した全国各地に、戦前の皇威発揚政策により「休憩や宿泊した旧跡である」という内容を刻んだ石柱が建てられた。
 ここには「明治天皇清水御小休所」の碑が建っている。名古屋市内にも何か所か碑が建っているが、戦災や老朽化により建物はすでになくなっている。
 今でも残るのはここだけではないかと思われ、小さな建物ではあるが貴重な存在である。

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瀬戸電  堀川と瀬戸をむすぶ

 名鉄瀬戸線を今でも「瀬戸電」と呼ぶ人が多い。「瀬戸電気鉄道(株)」略して「瀬戸電」である。

 昭和14年(1939)戦争にむけた企業統合で、名古屋鉄道(株)に合併されてはるか昔なくなった名前だが、狭いお堀をゆっくりと走る電車を知って居る人は親しみを込めて瀬戸電と呼んでいる。

 瀬戸電の歴史は古い。
 鉄道敷設が具体化したのは中央線に大曽根停車場を誘致する運動がきっかけである。明治35年(1902)に「瀬戸自動鉄道株」が設立され、明治38年4月に瀬戸から矢田まで、翌年3月までには大曽根まで開通した。

 最初は蒸気機関を動力とするフランス製の車両を使用したが故障が多く、電車へ切り替えがはかられ、社名も明治40年1月に「瀬戸電気鉄道(株)」に変更した。
 業績の向上とともに、市内乗り入れが計画された、当時の名古屋の輸送幹線であった堀川まで線路を延ばし、瀬戸物と呼ばれ全国的に有名な陶磁器や陶土を、堀川から船で名古屋港へ、更に全国や世界へと輸送できるようにするためである。

 明治44年5月に大曽根から土居下、8月には堀川まで開通し、全国でも珍しいお堀を走る電車が誕生した。
 大曽根駅で中央線に、堀川駅で舟運につながるこの電車は、瀬戸や名古屋北部発展の原動力となった。

 時代に合わせた改良も加えられた、戦災復興事業では、曲折が多く民家に接するように延びていた線路が、両側に側道のある直線的で快適な環境へと改善された。また、堀川の舟運が衰退した事により、昭和51年に堀川−土居下が廃止された。

 昭和53年には栄乗り入れが始まっている。平成2年には大曽根以西が連続立体交差になり、かつての瀬戸電のイメージが一新された。ガタゴト走る昔の雰囲気は失われたが、地域の足として、いつまでも人々に親しまれる電車でいてほしいものである。

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中央線大曽根駅  盛衰かけた停車場誘致運動

 今も昔も交通の便のよい所に人や物が集散し、繁華街になる。

 大曽根は藩政時代から下街道と瀬戸街道の合流点であり、名古屋北東の玄関口として繁栄してきた。その大曽根が、交通体系の変革で在亡の危機に陥った。

 明治を迎えても交通の中心は街道であり、従来からの駕籠や牛馬といった交通手段が、新たに人力車や馬車に変わっただけであった。
 むしろ下街道がとおる大曽根は、藩政時代のような、稲置街道(木曽街道)保護のための下街道への規制が廃止され、かえって活気が出てきていた。

 明治20年代には、大曽根と内津(春日井市、愛知、岐阜の県境付近)との間に乗り合い馬車が運行されていた。

 ところが交通体系に大きな変化が出てきた。鉄道の敷設である。

 明治22年に東海道線が全通し、27年には中央線が建設される事になった。
 ここで大曽根にとって大問題が発生した。線路は大曽根を通るが、停車場がない。名古屋の次は千種、その次は勝川なのである。

 長距離輸送は停車場を中心に人も物も動く。大曽根は通過点に転落してしまう事になる。在亡の危機に、翌28年大曽根をはじめとする周辺36町村は「大曽根停車場設置置期成同盟会」を結成し誘致運動を始めた。
 用地の提供を条件に停車場の設置を要請したが、政府からなかなか良い返事はない。

 大曽根停車場の設置のめどがつかないまま、明治33年7月25日、中央線の名古屋ー多治見間が開通した。煙を吐き轟音をあげて真っ黒な汽車は進んでくる。
 馬車の何十倍の荷物や人を積み、はるかに早い速度で進んでくる。見守る大曽根の人々の前を一瞬のうちに通過し小さくなってゆく後姿は、人々にあせりと不安を残していった。

 「時代に取り残されないためにはどうしても停車場が必要だ」との思いを強くした期成同盟会は、知事の助力もうけ、さらに要請活動を強化した。そのかいあって、36年になり停車場用地の提供に加えて、その土盛り工事と人道橋設置、瀬戸とのあいだに交通機関を設置する事を条件に停車場設置が認められた。

 9年におよぶ苦労が報われ、やっと念願かなった。しかし長年の設置運動で1万5000円を超える多額の経費をついやした同盟会は、すでに四分五裂になっていた。
 やむを得ず地元大曽根の有志は「城東合資会社」を設立して同盟会の事業を引継いだ。

 明治38年用地買収を完了したが、合資会社は1万円余の欠損を抱いている。地元から出資する者もなく、着手のめども立たない。ここにいたって「瀬戸電気鉄道」の役員有志が自費での救済に乗り出した。

 明治40年に「大曽根停車場設置同志会」を結成し、6万5千円を合資会社に拠出して事業が再会され、43年ついに竣工した。同盟会結成から16年の年月が過ぎ、ついやした費用は12万円を超えたという。

 明治44年4月9日、念願の大曽根駅開業「祝開駅」と書いた花電車が運行された、5月1日には中央線が全通し、3千人の来賓を招いた祝賀会が鶴舞公園で行われた。
 大曽根は、岐阜、長野、山梨、東京と結ばれたのである。

 JR大曽根駅の南改札口を入ると左手に、第2時世界大戦で殉職した駅員30人の慰霊碑が建立されている。昭和20年(1945)4月7日11時、米軍B29飛行機160機は、大曽根駅東の三菱発動機等に爆弾を投下した。大曽根駅も全壊し、防空壕にいた駅員37名中30名が爆弾の直撃をうけて死亡した。
 爆撃の直前、プラットホームには100人の乗客がいた。助役のとっさの判断で、乗客100人を乗せて臨時列車が勝川にむけて出発した。列車は勝川に到着し、乗客は全員無事であったという。

 今の大曽根と北区の繁栄は、長い年月、大きな壁に立ち向かい、時には孤立しながらも駅の設置に向けて突き進んだ人々や、激しい爆弾の中で輸送確保に必死の努力をしてきた人々が礎を築いたのである。

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旧三井名古屋製糸所  赤レンガの紡績工場

 ケネデイ空港、アメリカの首都ワシントンなど個人の名前をつけた空港、都市は外国には数多くある。日本にも豊田市など企業名から、都市の名前が付けられた例はあるが個人名が町名や都市の名となっている例はあまりないであろう。

 北区に黒川という町がある。堀川の上流部は黒川と呼ばれている。
 木津用水を改修、木曽川の水を堀川に導水した愛知県の技師、黒川治愿(はるよし)の名をとってつけられた町名であり、川の名前でもある。

 黒川治愿の名は町名となり、川の名前となって残ったが、彼の実績を知る人は、数少なくなった。
「北区に流れる堀川のほとりには数多くの紡績工場がありました。そこから垂れ流す悪水のために、堀川が汚れてしまい、黒い川になってしまいました。堀川はいつしか黒川と呼ばれるようになりました」とある古老が語った言葉だ。
 はじめは冗談であると思って聞いていたが、真顔で真剣におっしゃっていたので驚いた。

 紡績工場のために、堀川は汚れ黒川と呼ばれるようになったと信じている人は、話を聞いた古老だけではなく、きっと大勢いらっしゃる事であろう。
 古老が語られたように、黒川には明治期以来多くの紡績工場が建てられた。時代の流れとともに隆盛を誇った工場も、いつしか川端から姿を消してしまった。
 今、唯一往時の姿をしのばせている赤レンガの建物が堀川端に残っている。

 八王子中学校の西にある東急鯱バス株式会社の寮に、現在はなっている建物だ。赤レンガの建物は明治28年(1895)から30年にかけて建設された三井財閥の三井名古屋製糸所の建物である。
 映画「ああ野麦峠」では、諏訪の赤レンガ造りの紡績工場で働く女工の悲惨な生活が描かれている。苛酷なノルマに追われ、低賃金で酷使され、体は蝕まれてゆく。
 赤レンガは明治の時代を象徴する建物だ。
 西欧文明を代表する赤レンガの堅牢な建物の中には、女工たちが体に鞭打って働いていた。
 名古屋に三井製糸所が建てられた明治28年に三井財閥が工業資本に進出を始めた年である。

 堀川に林立する紡績工場の煙突からはき出された煙は、新しい日本の工業が発展する姿を現するものであった。
 赤レンガの中では、来る日も来る日も、女工たちが糸を操って働いていた。

 この建物を施工したのは竹中工務店である。
 明治24年(1891)の濃尾震災の教訓を生かして、耐震、耐火造りであった。
 明治47年(1971)に解体されて、現在の鯱バスの所有となっている。

 鯱バスの寮には、各部屋事に冷暖房の設備がしてある。厚いレンガ積の壁面に、冷暖房の設備が突き出ている。

 遠く故郷を離れて、名古屋に出て来たバスガイドさんたちが住んでいるのであろうか。
 女工哀史の明治の時代と異なり、現在の赤レンガの建物の住人は、快適な生活を営んでいるようだ。

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染色工業地帯  御用水、黒川を錦に彩る

 名古屋は全国有数の繊維産業が盛んな地域であり、とりわけ北区には多くの紡績、織物工場があった。

 織物にはさまざまな色や模様をつける。
 染めた糸を織ったり織り上がった布を染めたりして色や模様をつくりだす。
 染色は実用品としての布を、使う人の個性を主張する布へと変身させる、重要な工程である。

 染色の多くは水に溶かした染料を布に染み込ませて定着させ、水洗いをして完成する。
 染色には大量の軟水が必要であり、染色業は良い水が得られるところで発達した。

 明治の終わり頃までは、水が得やすく旧武家敷の広い土地があった堀川の西や江川周辺で染色業が発達した。
 堀川の朝日橋あたりでも染め物をすすぐ風景が見られたという。

 明治も終わりに近づくと、染物工場の増加や人家の密集により、水質が悪化し、きれいな水を求めて堀川上流(黒川)や御用水沿川に工場が立地するようになってきた。

 第一次世界大戦をきっかけに繊維産業が大きく発展するとともに、この地域の工場も増え染色工場地帯になっていった。
 御用水や黒川の近くには、京染屋とよばれる多色染めの工場が建ち並んでいた。
 川の流れに膝までつかって、染め上げた長い布をすすいで糊を落とし、なかには御用水の水を工場の中に引き込んでいる大規模は工場もあった。

 工場には染め上げた長い反物を乾かすための高い干し場があり、風にひるがえる鮮やかな色がいたるところで見られた。

 かつては40軒以上の染色工場が建ち並んでいたが、繊維産業の衰退や水質の悪化で、今では伝統的工芸品に指定されている名古屋友禅が三軒など、数少なくなった。
 わずかに、桜祭などのイベントとして、名古屋友禅の水洗いが行われ、過ぎし日の風景をしのばせている。

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上絵付   世界を魅了した職人芸

 日本には昔からの陶器産地が多い。唐津、薩摩、備前、久谷、益子 ――。
 日本各地に窯が築かれ、色々な生活の器を作ってきた。しかし、近代産業に成長し世界を市場としたのは、瀬戸、多治見、土岐など「瀬戸物」と呼ばれる製品を送り出したのは、この地方だけである。

 瀬戸物の世界への雄飛には、北区や東区を中心に発達した上絵付が大きく貢献していた。
 瀬戸や東濃地方では、古代から陶器が焼かれ、安土桃山時代になると志野、織部などのすばらしい作品が生まれ、江戸後期には磁器の生産も始まっている。

 明治になると、殖産興業をはかる政府と新たなビジネスチャンスを狙う実業界は、いろいろな製品を積極的に万国博覧会に出品している。
 注目を浴びたのに陶器がある。とりわけ、金、銀、赤、青などさまざまな彩色による華麗な上絵付の薩摩焼や九谷焼が外国人の興味に合い、高い評価を得た。

 上絵付とは、釉薬をかけて本焼きした陶器の上に絵を描き、もう一度焼いて絵の具を定着させる技法である。
 下絵付は本焼きの焼成温度が高いので使える色が限られており、きらびやかな焼物を作るには上絵付が向いている。

 上絵付をほどこした陶磁器の需要が高まると、東京、大坂、名古屋などで絵付業が盛んになった。
 名古屋では東区の鍋屋町を中心に旧武家敷の広い敷地を活用し、瀬戸などから運ばれた素地に絵付をする人がたくさん出てきた。
 この工場が規模を拡大するため、安くて広い土地と瀬戸などへの交通の便にひかれて移転する事で、北区の絵付業が始まったのである。
 絵付業は零細企業が多いが、明治後半には「杉村画付工場」など50人を超える職人を雇っているところもあった。

 名古屋での近代的な陶磁器生産も始まった。
 明治28年(1895)の松村陶器工場をはじめとして、37年の日本陶器合名会社(現在のノリタケカンパニー)など、つぎつぎ会社が設立された。

 第一次世界大戦によりヨーロッパ製品の供給が止まった大正時代になると、輸出が急速に増加した。
 製品もノベルテイと呼ばれる置物から洋食器へと比重が移り、名古屋港は全国一の陶磁器輸出港となっていった。

 繊維とともに陶磁器が名古屋の経済を牽引しており、北区内には多くの陶磁器関連の工場があった。
 昭和9年(1934)の資料を見ると、瀬戸電より北の地域だけでも東原製陶や佐治製陶など素地製造工場が4ヶ所、絵付工場が11ヶ所、家内工業、付帯工業が109ヶ所、貿易業が5ヶ所もあった。
 とりわけ、現在の大杉3丁目から杉村1丁目、東長田町にかけて上絵付などの家内工業が集中していた。

 民家の軒先に素地や絵付け後の陶磁器をつめた木箱が山積みされている光景が、あちこちで見られたという。

 この陶器を求めるために世界中からバイヤーが名古屋に訪れた。
 瀬戸などの素地生産者と、北区、東区を中心に集る上絵付職人の優秀な技術がタイアップする事で、バイヤーの需要を的確に反映した優れた製品を生み出し、名古屋港から世界へと送り出されたのである。

 昭和60年代からの円高により、国際競争力が低下し絵付業も大幅に減ったが、今でもこの地方は世界有数の陶磁器産地である。
 東区の「名古屋陶磁器会館」や西区の「ノリタケの森」では、さまざまな陶磁器とともにこの頃に作られた製品を見る事ができる。

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西行橋  一名捨橋とも云う

 金鱗九十九之塵は次のように記している。

 町のはずれの石橋である。川の中にある西行法師の石像は、竹腰家の家来江口庄右ヱ門のたてたものである。
 ある人が、この橋の名前は西行橋ではないといった。それは、昔、お城御普請の時、この場所で人足人夫の裁許をしたので裁許橋というのだろう。

 子供をこの橋の上に捨てると、その子供は長生きができるという伝説がある。
 また、この橋の上で祈願をして、その願いが成就した時に西行法師の土人形をこの流れに捨てるという習慣がある。その習慣のために捨橋というのであろうか。
 西行橋という名前がなぜついたのか詳しくはわからない。

 考えてみると、ここは西行法師が東下りをした時の道筋であろうか。
 ここの北、上原村に西行堂という土橋がある。また小牧山などでも西行法師が歌を詠んでいる。


尾張名陽図会も次のように、その風習を伝えている。

 子供をこの橋の上に置いて、しばらく親が脇に隠れてまた橋にやってきてその子供を連れて帰る事がある。
 これは、子供をこの橋の上に捨てる真似ををするのである。
 ここに一度捨てた子供は寿命が長く、無病である事が昔より言い伝えられている。

 それゆえに、この橋を捨橋と呼んでいる。


松涛棹筆 は次のような風習を伝えている。

 志水町の町のはずれに小さな溝川があった。この橋を西行橋という。
 この川の水を子供に飲ませると天然痘にかかっても軽く済むという。また他の病気にも、この川の水を飲ませるとかからないという。

 この川は西行川ともいう。
 最近、橋の西側に棚を造りそこに西行の像を置いた。
 西行の像に願い事を祈り、願いがかなったときには、土細工の西行の一文人形をお礼に納めた。
 小さな壷には酒を入れて、お礼に供えた。


御成道。兵隊道  大曽根御殿とお城を結ぶ。 

御成道

 地図にも名が記されていない忘れ去られた名前の道だ。
「御成」という名前から、偉い人が通った道だという事は想像できる。いったい誰が通ったのだろう。

 一字違いの「御成通」という道もある。三階橋から平安道りを結ぶ道で、昭和2年に天皇が通った道だ。これは町名にもなっている。
 御成道はそれよりずっと古い。元禄時代にできた道だ。

 二代藩主光友がお城と大曽根の下屋敷を結ぶために造らせた道である。

 八王子神社の一本南のゆるやかに屈曲しながら東西に伸びる静かな道がそれである。
 尾張藩二代藩主徳川光友は、44年間の治世の後、元禄六年(1693)4月、70才で長男の綱誠に藩主を地位を譲って隠居した。
 9月に江戸から名古屋に帰着。隠居の身なので遠慮したのか藩主の出迎えも絶り、城の本丸には入らず三の丸の屋形で生活したという。

 翌七年7月15日に藩の重臣であった成瀬、石河、渡辺氏が大曽根に持っていた下屋敷を返上し、8月11日に光友が住むための「大曽根御殿」とも呼ばれた下屋敷の建築が始まった。
 これに合わせて、9月にお城と大曽根を結ぶ道普請も行われた。
 お城の東、外堀に沿って北にキコク坂を下った土居下から道普請が始まり、柳原から杉村に入り稲置街道を横ぎり大曽根に達する総延長2.4kmの道であった。

 現在の柳原商店街南端あたりから北へむかい、柳原4丁目5番付近で東に折れ、国道41号線を越えて開聞寺、久国寺、豪潮寺の南を東にむかい、大曽根1丁目19番の南で国道19号に出る道筋である。

 つぶれた農地の代替地は名古屋新田内に与えられたと記録され、道幅は9尺(2.7m)ほどであった。これが御成道である。

 元禄八年(1695)3月18日(2月25日という説もある)、光友は新築された大曽根の下屋敷に転居する。
 荒廃していた大曽根八幡社を見て、9月には神殿の再建を行っている。
 元禄十年4月に、灌漑用水として使われていた猫ヶ洞池(千種区平和公園内)を下屋敷で使う御用水に定め、かわりに七ッ釜池(新池、千種区田代町)を築いて灌漑用水にした。

 元禄十一年に16挺立て(16人で漕ぐ)の小早船(小型の軍艦) 従如丸が光友の指示で造られ、大曽根下屋敷の池に浮べられた。
 猫ヶ洞池からの水を満々とたたえた大きな池に軍艦が浮んだのである。
 文武にすぐれ、とりわけ水練を好んだという光友らしい趣向だ。

 元禄十三年(1700)10月16日、光友は当時としては長寿の76歳で逝去した。大曽根下屋敷での生活はわずか5年余りの短い期間であった。
 翌十四年12月には猫ヶ洞池を再び灌漑用水として民間に解放、十六年に船は江戸の尾張藩邸に移され、後に民間に払い下げられた。

 宝永八年(1711)四代藩主義通が下屋敷を訪問。邸内は相当壊されて元の持ち主に返されていた。
 しかし、光友が住んでいた建物はそのまま残っており、感慨深い様子で見ていたという。

 下屋敷と共に造られた道は、その後も城北を東西に貫く幹線道路として、幕末まで御成道と呼ばれて親しまれてきた。

 明治6年(1873)になると名古屋城に鎮台が置かれ、翌七年には小幡ヶ原(守山区、瀬戸線小幡駅北東一帯)に射撃場が置かれた。
 名古屋鎮台はその後第三師団になり、小幡ヶ原の射撃場も拡張されていった。名古屋城に駐屯する兵は射撃訓練のため、御成道を通って大曽根に出て瀬戸街道で小幡ヶ原で行軍するのが常だった。
 古老たちの記憶では、夕方になると演習から帰る兵が隊伍を組んで軍歌を歌いながら行進し、馬に引かれた大砲が大きな音をたてながら進んできたという。
 それにより、道は「御成道」から「兵隊道」へと呼び名が変わっていった。

 今では、軍歌や馬のいななきも消え、砲車の車軸がきしむ音もなく、御成道は住宅が立ち並ぶ静かな道になっている。

 道に面してお寺が多いのが、かってはメインストリートであった事を伝えている。

北区歴史と文化探索トリップ、名古屋北ライオンズクラブCN40周年記念誌。平成16年3月16日発行


萩野変電所  福沢桃介ゆかりの産業遺産

 小野町の昔の稲置街道に面した住宅街に中部電力の萩野変電所がある。変電所は市内のあちこちにあり、珍しくはないが、この変電所はそこいらにあるものとは少し違う。由諸正しい変電所だ。
 由諸書きの出演者は、旧尾張藩士と福沢諭吉の婿養子で電力王と呼ばれた福沢桃介、名古屋や東京財界の面々、舞台は明治後半の名古屋と木曽川である。

 夜の明かりは行灯からランプへ、工場の動力は水車から蒸気機関と変わり、文明開化が名古屋の街にも広く浸透してきた明治20年(1887)いよいよ名古屋でも電灯事業が始まった。
 中心になったのは、旧尾張藩士たちである。
 藩の禄を失った元武士たちの生活は苦しく、政府は不満を和らげるために勧業資金を貸与することにし、名古屋には10万円が貸与された。その内7万5千円を資本ににして電燈を始める事になり、20年9月に「名古屋電燈会社」(明治23年より株式会社)の設立願いが提出された。
 欧米の視察や発電機の輸入などの準備を経て、22年12月15日についに送電が始まった。
 当初の供給区域は名古屋都心の繁華街だけであり、灯数は400灯ほどであった。電燈事業の将来性がわかり競業者が現れた。
 明治27年に「愛知電燈株式会社」が、37年には「東海電気株式会社」が市内での供給を開始したが、いずれも数年のうちに名古屋電燈が吸収合併で終っている。

 名古屋電燈の初期は火力発電であり、東海電気の合併によりはじめて水力発電の小原発電所を所有、以後水力発電に力をいれるようになり巴川発電所、長良川発電所を建設した。長良川発電所は4,200キロワットであるが、ほかは1,000キロワットにも満たない小規模なものであった。

 明治39年(1906)には「名古屋電力株式会社」が設立された。名古屋電力は水量豊かな木曽川の水力による発電を計画し、名古屋だけでなく東京や発電所が造られる岐阜の財界も出資しており、社長は名古屋商工会議所会頭の奥田正香、相談役は渋沢栄一であった。
 明治41年に岐阜県八百津町の木曽川で発電所の建設が始まった。4台の発電機を備え、7,500キロワットの発電能力がある全国でも屈指の大規模施設である。ここから送られてくる高圧の電気を低圧に変電するために設けられたのが萩野変電所である。

 低圧に変電された電気は名古屋やその周辺に送電する計画であり,名古屋電燈にとり強力な競争相手が出現したことになる。このような時期に福沢桃介は、知人を介して名古屋電燈への出資を頼まれた。福沢は明治31年(1898)に「利根川水力電気株式会社」発起人総代になり、41年には「豊橋電燈」の取締役を務めるなど電力事業に携わってきていた。いったんは出資を断ったものの了承し、名古屋電燈の最大株主となり、43年には会長に就任した。福沢は名古屋電力との競争は不利と判断し、社内の旧尾張藩士グループの反対を押えて合併の道を選んだ。

 明治44年に八百津発電所と萩野変電所が完成、12月から送電を開始した。翌年には日本初の6万ボルトの高圧送電に成功しており、この萩野変電所は当時の最高技術が投入された変電所であった。

 現在の北区内では、山田に大正4,5年(1915−6) 西志賀などには6年頃から送電され、一般家庭でも徐々にランプから電灯へと変わっていった。
 9年の地図には、ここから上飯田、大曽根、西志賀、上名古屋などに伸びる送電線が描かれている。その後潤沢な電力を求めて名古屋に立地する企業が増え、名古屋の工業化を推進する原動力となった。

北区歴史と文化探索トリップ  名古屋北ライオンズクラブCN40周年記念

 


.再開発について


中日新聞より

 


8.柳原近辺の学校について

昭和20年代の小、中学校 清水小学校、八王子中学校

 小学校では疎開先から帰って来た児童達を集めて授業が再会された。
教科書はそれまでのものに墨を塗って使ったり、新聞紙大の紙に印刷したものを、各自で切って作った教科書を使ったりした。

 新学制が発足したからは、男女共学となった為、男子も家庭科の授業を受ける事になったり、修身が廃止されたり、地理、国史が社会科、図画、手工は図画工作、体操は体育へと呼び方が変更されたりした。

 また、学校給食もミルク(脱脂粉乳)だけだった物が、昭和25年(1950)からパン、ミルクに副食がつき、完全給食が実施された。
 ミルクと云っても、今では殆どみる事のない脱脂粉乳や副食といっても一品だけであり、明らかにカロリー不足のものであった。
 しかし社会状況を考えれば、昼食を確実に食べる事ができるというので、児童も親も大歓迎したといわれている。

 学校施設については、開設当時は、戦災によって数多くの校舎が焼失し資材不足のため、再建のめどがはっきりしない状況であった清水小学校では、昭和20年11月に集団疎開から帰ってきた児童が見たものは一面の焼け野原だった。
 昭和21年8月にバラックの平屋建て仮校舎が建つまで、児童達は、焼け残った杉村小学校や診療所、旧城北錬兵場内兵舎などに間借りしていた。

 昭和22年に開校した大曽根中学校は翌23年に、名古屋市の計画で上飯田東町二丁目の高射砲陣地跡地を買收し、木造平屋建ての校舎が、翌年の12月に竣工した。

 また昭和23年に開校した八王子中学校は、最初、杉村小学校に併置開設された。この学校名は、古来より子供の守り神として、尊崇の篤い八王子神社の名にちなんでいる。
 同校は半年後には元東白壁小学校の場所に移転、更に翌年には旧錬兵場内兵舎に清水分教場を設置した。第1回卒業式は清水小学校を借りて行われた。
 現在の地に平屋建て1棟、2階建て1棟の新校舎が竣工したのは、世の中が少し落着いてきた昭和25年8月である。

 このように、当時の新設中学校は、いろいろな施設を間借りしながら、新しい教育のために、努力し続けたのである。

北区誌 北区制50周年記念 平成6年6月22日発行


西春日井郡尋常小学清水校  現清水小学校

 明治20年、第17番小学清水小学校がが校名を変更した。

 通学区域は清水町、杉村、金城村であった。児童数280名、授業料1ヶ月5銭であった。

 当時、どの小学校でも、生徒は入学して まもなく中途退学したり、長期欠席したりした。時には、女子が全員中途退学になってしまう事があり、就学児童数が伸び悩み減少した。
 この理由は両親の学問に対する関心の低さと、授業料を納めなければならない為、生活を圧迫していたからと考えられる。


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