updated 2003/3/1

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下記は叔父(故・松本重雄氏)が、「貯蓄時報」誌(1978年6月、日本銀行貯蓄推進部発行)に掲載したものです。大正時代の銀座の様子が詳しく述べられています。長文のため、ここでは三光堂に関連のある部分を抜粋しました。


大正時代の銀座の系譜

(注)下記の私とは、故・松本重雄氏(元 日本銀行理事、全国銀行協会専務理事)のことです。

先端をゆく銀座の商品

 私は、明治41年(1908)に銀座で生まれ、大正4年(1915)から同10年まで、銀座周辺の人達のゆく数寄屋橋の泰明小学校に通った。泰明小学校は、当時としては施設においても抜群の学校であった。卒業と共に、住居が麻布の笄町(こうがいちょう)に移って銀座の生活を離れたが、その前後から、銀座の商家が店と住居を分け始めていたと思われる。
 これも銀座の変化の一つであったが、2年後の大震災はこの変化を著しく促進したし、大きな商店街が渋谷や新宿などにも発達するようになって、銀座はその後も繁栄したが、違った姿のものになった。
 従って、私の経験した頃が、銀座が明治以降に昇りつめた良き時代の盛りであったろう。そうした意味で大正10年頃の銀座を描いてみたい。
 銀座の商店と商品は、今もそうだが、その時代の経済の発展段階の顔である。庶民向け商品も多いが、当代の内外における技術と技巧の粋を集め、流行の先端を知りうる。一方では、時代の移り変わりで去ってゆく商品の残っている姿も見られる。

 (中略)

 明治から大正にかけての銀座らしい先端的商品に写真機と蓄音機があって、一、二店の専門店があった。時代の寵児になりつつあったのが活動写真館で、金春館とか豊玉館が老若男女を喜ばしたが、その頃は表通りになくて横町や裏にあった。
 私の育った商店は、その蓄音機屋の三光堂であった。そして、この三光堂の店舗については、お菓子の老舗風月堂のものとともに、明治43年(1910)に見事な出来栄えの写真が今も残されている。
 この写真は、渋沢篤二という方の撮影にかかるもので、特記に値する事情がある。明治のわが国経済の先達であった渋沢栄一氏は、新商品である蓄音機にも関心が深かったが、篤二氏はその長男で、故あって父栄一氏全盛の頃に隠棲されていたが、大変な義太夫の名手で、写真愛好家としても著名であった。
 その貴重な作品を、その子息である渋沢敬三氏(元日銀総裁・蔵相)が、昭和38年に「瞬間の累積 渋沢篤二明治後期撮影写真集」として編集し、出版された。三光堂の写真は、渋沢篤二氏が特別な因縁で特に見事に残されたのであろう。
 この写真を見ると、三光堂の六間間口の店舗の両側の陳列の上に、大きく「大声蓄音器平円盤発音器販売」とあって、「直輸入発売元」と添えられている。そして陳列の両袖と二階のバルコニーには、当時最大の光源であったガスを点灯する大型の蓄音機の広告施設が設けてある。私の記憶では銀座にもそんな派手な広告灯はなかったと思うが、現在のネオン広告の先祖がガスであったことは興味深い。

蓄音機と社会主義


 蓄音機は、その後の音響革命といわれるラジオ、テレビ、ステレオなどの先駆であるが、当時は漸く筒型の蝋管式から平円盤と称せられる当今のレコードにまで発達した頃であった。正に音響商品の質的進化の時代に入った頃である。
 その吹き込みと製造が、蓄音機の製造と共に、国産化したのは大正に入った頃で、技術導入の難しかった頃なので、吹き込み・製造の技術を取得するについての関係者の苦労は、並み大抵の苦渋ではなかったようである。国産化とはいっても三光堂の新宿工場の情景は、家内工業の域を出るものではなかった。
 それよりも、この当時の画期的商品のわが国への導入と普及には、明治のわが国の社会主義思想の発達との間に興味深い係わりがあった。このことは戦前、私の父もつとめて秘して小声で内々話していた程度であった。
 蓄音機がわが国へ渡来したのは、明治23年(1890)頃で、初めは浅草の花屋敷で、蝋管からの発声をゴム管で耳にあてて聞かせる仕方で、余興としてお目見えしたとされている。その後、銀座の裏の縁日でも聞かせたとの記録がある。
 それが明治32年6月(1899)、19世紀最後の年に、わが国最初の蓄音機専門店「三光堂」として、浅草の並木町で(のちに銀座に進出)、松本武一郎、片山潜、横山進一郎の3人で共同事業の形で、3人を表象する三光堂の屋号によって開店した。
 松本武一郎は、私の父の実兄で、大正に至らず早逝したため、父の常三郎(横須賀海軍工廠技術要員)が継ぎ、かえって技術開発を進めえたのであった。片山潜は、武一郎の親しい友人だった。このことは商人に転じた武一郎自身の思想傾向も推測できることである。片山潜は申すまでもなくわが国の社会主義と社会運動の草分け的存在で、昭和8年(1933)にモスコーで客死した人である。この人が蓄音機店創業に加わっていたことは、三光堂開店の翌々年(1901)に、片山潜が幸徳秋水らと共に社会民主党を結成、即日禁止されていることと考え合わせると、蓄音機の生い立ちは劇的であった。
 そうした事情で、蓄音機という先端商品は、わが国の初期社会主義と併存していたわけで、経済社会史の一こまになりうると思う。
 明治末年から大正にかけて一世を風靡した音曲は、桃中軒雲右衛門の浪花節であった。その忠臣蔵外伝などの全曲目を、当時としては世間を驚かすほどの報酬を払って吹き込みをし、原盤をドイツに送って象印レコードとして輸入した。輸入直後、明治天皇崩御のため長い歌舞音曲停止にあたった。その間に、今日のいわゆる海賊盤が出回り、三光堂が大正大震災前後の外国資本の攻勢下で米国資本に買収され、蓄音機業界がしばらく外国資本に外国資本に独占される遠因ともなった。
 ちなみに、当時はレコードが著作権の対象となっておらず、海賊盤に対する訴訟は大審院で、浪花節は音楽にあらずとして敗訴したが、大正9年に至り著作権法改正によって初めて著作権の対象となった。私の東大時代、穂積重遠教授は民法講義でこの挿話を述べられたのを記憶しているが、穂積教授が父と同郷であったことに係わりがあったかと思う。
 また、不世出の浪曲家雲右衛門丈が、実は目に一丁字無く聞き覚えによって口演したとの秘話があるが、文句が確定していなかったことが、大審院で音楽にあらずと解された一因になったかもしれない。近代日本の形成期における一つの裏話である。
 
 (以下 「有ったもの・無かったもの」、「銀座の生活風景」、「交通機関と道路」は省略)
   
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 ○37〜41ページ   ○42〜45ページ    ○全文(37〜45ページ)