ベルリン・コーミッシェ・オーパー「ホフマン物語」
ハリー・クプファーを絶賛してよろしいでしょうか。
私は、演出家ではクプファーが一番好きです。彼の演出した作品は「ラ・ボエーム」「フィガロの結婚」「ムツェンスク郡のマクベス夫人」「タンホイザー」、そして今回の「ホフマン物語」と、一流どころの演出家としては最もたくさんの舞台を観せてもらっている。そのどれもが、張りつめた緊張感の中、何か新しい体験をさせられた気分になった。
クプファーの演出は、今の時代となっては過激な演出とまではいえない。しかし、常に新しく、示唆的で、女性の生き方を大切にし、そのうえ舞台が視覚的にも美しい。(この「美しい」は、豪華な舞台装置とは違う意味での、現代的な小道具と電気的な光を使ったわだかまりのない美しさだ。)彼は、時代設定を現代や未来に変えることがあるが、変えないこともある。つまり彼の演出の斬新さは、作品の内容の「読み替え」にあるのではなく、作品の中の登場人物のアイデンティティーを確立させることにある。彼にかかれば全ての登場人物が、自らの意志を持って行動する人物として再生する。(その結果、今回の「ホフマン物語」のミューズ(ニクラウス)は女声でなくバリトンが演じることになった。)確かに、人物の動きや道具の扱い方が大きなウェイトを占める舞台になり、歌そのものを純粋に楽しめないと、批判的に感じる人も多いと思う。でも、クプファーだって歌が上手い人しか選ばない。(もちろん、演技と容姿もよくないと選ばれない。)決して音楽を軽視してはいない。
「ホフマン物語」は、ロイヤルオペラのすばらしいLDでしか接したことがなかった。コーミッシェ・オーパーはそれとは全く別の作品のようだった。幕開きからして全然違った。オーケストラの序奏も、ロイヤルではとても叙情的に奏でていたのだが、コーミッシェはナイフを突き刺すように鋭く威圧的で、迫りくるような音楽で開始した。この瞬間からして、私は席に縛りつけられたような感覚になり、呼吸が小さく乱れ出した。人間なんかどうでもよく、芸術家にしか興味のないミューズによって、ホフマンを芸術家たらしめていく展開になる。これを観ているうちに、真の芸術家とはどんなものか、真の芸術至上主義とはどんなものか、それがわかるような気がしてきた。それと同時に恐ろしくてわかりたくないとも思ってきた。自分の娘が燃えている姿を見つけても美しさを感じスケッチする絵師、自分の身体を引き裂かせて命を落としてもその姿を芸術とする前衛アーティスト。人生を犠牲にして芸術家にさせられたホフマンには、そこに通じるものがある。ただ、私はそれがわかりたくはない。クプファーにはそれがわかったのだろうか。わからなくとも彼の才能によって芸術家の本質を分析したのだろうか。
クプファーの舞台を観ると、何か一つ得るものがある。しかし、完全な答えとしては提示してくれない。示唆してくれる。そういうわけで、私はクプファーが好きだ。
直接クプファーとは関係ないが、今回の「ホフマン物語」のチケットを取るか取らないかで我が家はもめた。結婚以来、1回1万円未満の席しか取らないという家庭内不文律があったのだが、今回は私がチケット取得提案を出したのが公演2週間前。既に1万円未満の席があるわけなく、安くて2万6千円だった。チケット代は家計から支出されるのだが、不況の建設業界に勤めるサラリーマン家庭としては一大問題だ。「ホフマン物語」をめぐって我が家は一瞬険悪なムードに陥った。全くもって芸術性のない日常だ。
(6月27日オーチャードホール)
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