東京二期会「ドン・ジョヴァンニ」

 久しぶりに奇妙な舞台だと感じられたモーツァルトであった。演出意図と読み替えされた舞台との乖離。これほどの違和感は井上光演出の現代横須賀版「魔笛」以来のことだ。

 そもそもの「ドン・ジョヴァンニ」に対する着眼点自体は、プログラムを読めば分からなくもない。その演出意図が、たとえ私の「ドン・ジョヴァンニ」に対する想いと違うものであっても、そのコンセプトがしっかりしたものであれば構わない。おそらく今回の舞台は、現代人のすさんだ姿を浮き彫りにさせようということだと解したが、それならそれでよい。それが、分かりやすく受け入れやすく演出されれば、それで納得するのである。

 でも、舞台設定がテロ後のニューヨーク、しかもそのテロの残骸の上ですべてが展開されるのである。これは意味がない。いや正確に言うと、この舞台設定だと、全く別のメッセージを包含することになり、そういう意味合いの演出になるのである。それが今回はそういう意味合いの演出ではないのだから、舞台設定はニューヨークでも東京でも、どこかの大都会のごくありふれた下町や裏通りの方が、よっぽど分かりやすいのである。

 おそらく演出の宮本亜門自身の体験上は、テロの残骸=現代人のすさんだ姿というイメージはあるのかもしれないが、現代日本人の一般的な等式ではない。それは別のものとして表現の場を設けるべきだと思う。それが同一の舞台になっているため、少々分かりにくい疲れる舞台になってしまっている。

 また舞台美術そのものも、テロの現場というより、荒れ果てた廃寺の山門みたいでヘンな感じがしたが、それについては私だけの感想かもしれない。

 キャストは総じてよく、室月哲也のドン・オッターヴィオや斉木健詞のマゼットをはじめ、全員よく演出にマッチできていた。特にツェルリーナの林美智子はなかなかいい感じに現代娘に変身していた。東京二期会の層の厚さがうかがえるキャスティングである。パスカル・ヴェロの指揮も良くて、そういう意味では質の高い「ドン・ジョヴァンニ」ではあった。

 話は少し本質から外れるが、私はずっと昔からケンタッキーフライドチキンをほおばった瞬間に、「ドン・ジョヴァンニ」第2幕のフィナーレを連想し、自分がドン・ジョヴァンニになっている気分になるのである。なんか貧弱で突飛で他人には分からない連想だなといつも思っていたのだが、今回の舞台では本当にケンタッキーを食べていた。自分の連想がそれほど突飛なことでもなかったのだと安心するのと同時に、宮本亜門への親近感もでてきた。

(2004年7月24日 東京文化会館)

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