東京室内歌劇場「流刑地にて」
今年に入って、ワーグナーの「妖精」、ロッシーニの「どろぼうかささぎ」と日本初演を前面に出した公演が続いたが、今回のフィリップ・グラスの「流刑地にて」も、またもや日本初演らしい。もっとも、世界初演自体が2000年の作品なので、日本初演を公演の前面に出しているわけではないところが、先立つふたつの公演とは違うところである。
グラスについては、いくつかの作品名や公演評を知る程度の知識しかないのだが、現代作品が好きな私としては、その音楽がどのようなものかとても興味があった。弦楽五部(編曲ではなくオリジナル)だけの編成だが、実際に演奏を聴いてみると、意外に表情豊かに感じられて、もう一度聴きたくなる心地よさもある。プレトークでの長木誠司氏の解説によると、今回の上演は指揮(中川賢一)のおかげで、思いのほか起伏の大きい演奏になっているらしい。ただし、現代音楽風の、切り刻む連続した音楽であることに変わりはないので、どれだけの聴衆が楽しめたかは微妙だが。
物語は、カフカの短編小説が原作で、カフカの奇抜なストーリーを端的にまとめるのは難しいが、敢えてまとめると、南方の植民地において、旧式の処刑装置(罪状の文章を12時間かけて罪人に刻むことで死刑が執行されるもの)のすばらしさを絶賛する士官と、その説明を聞いて批判的になる旅行者の二人だけの会話でなるオペラ。最後に、士官自ら処刑装置に入って、死ぬ。これだけでは、どこに物語の核心があるのかわからないだろうが、実際にオペラを観てもはっきりとは分からない。(多分、小説を読んでも1回では分からないのだろう。)この物語に接した各人に解釈の余地があるのだろうか。私は、この短編小説を読んだことはないが、カフカの時代からすると、機械に人間が従属する人間疎外が感じられた。(プログラムに寄稿されていた井上正篤氏による原作の謎解きでは、カフカ自身の婚約解消のやりとりをあらわしているらしいが、カフカ研究者でないとそこまで到達しないと思う。)一方、原作から離れてオペラとしては、自らの意思を持たない男の、人間性のなさによる悲劇であるように感じられた。ひとつの古い考えに固執する士官が哀れに見えるが、それを批判する旅行者にも同じような側面を感じた。いずれにしても、処刑方法そのものは単なる題材であって、それについての感想を持つようなものではなかった。
セットは、作品の性格上、当然のように簡素なもの。それでいて、処刑地の不気味さは出る。おもしろいのは、舞台背後に大きなスクリーンがあって、そこに演奏している楽器や登場人物の顔が映し出されるまでは現代としては普通だが、それが同時に字幕にもなっていた。だから、舞台中央に字幕があることになるのだが、現代アート風に見えて、違和感はない上に、字幕としても見やすい。時折、他の映像と字幕がダブったりするのも、(実は私がこういうアートが好きだからかもしれないが)おもしろい。
また、天井に吊るしてある数十個のライトを徐々に下まで降ろして処刑シーンを演出する方法は、ピットを舞台中央にまるで電源装置のように埋め込む手法と合わせて、劇場自体を処刑装置に見立てた秀逸なアイデアであった。
(2008年3月15日 新国立劇場小劇場)