国立オペラカンパニー青いサカナ団「マーマレイド・タウンとパールの森」

昨年8月の「アゲハの恋」から1年もたっていないのに、神田慶一の新作「マーマレイド・タウンとパールの森」が初演された。チラシには、「青いサカナ団の新作を(お好きな方は)今年も見逃せませんぞ!」と、括弧書きで(お好きな方)限定と謳っている。そもそもオペラ好き自体が世の中では限定的な存在であるにもかかわらず、更にその中でも対象を限定する謙虚さである。もちろん私(を含めた「お好きな方」)が青いサカナ団の公演に足を運ぶ理由は、単なるレアもの収集なんかではなくて、社会や人生に訴えかけてくる芸術性を感じ取りたいからなのである。このことは、こんにゃく座や東京室内歌劇場についても同じようなことがいえるのだが、青いサカナ団の場合は一層のキワモノ観があるのか、オペラ好きの中でも敬遠されがちなのは残念である。(もっとも、誰でも楽しめるという保障はしないが、それはオペラそのものだって誰もが楽しく感じる保証はできないことと同じである。)

今回の新作は、前作の純愛もの化身譚から一転して、現代社会への辛辣な批判が込められているものになっていた。ストーリーは、少々長いが次の通りである。1幕。街の雑踏の中で、待っていても携帯電話に着信が来ないことに失望した若い女性が、衝動的にビルの屋上から飛び降りる。地上に落ちたら、そこは太陽の国マーマレイド・タウンであって、彼女はなぜか、女の子だけのスリ団の一味になっていて、追われる身となる。2幕。月の国パールの森の青年に助けられ、パールの森にやって来るが、そこへもマーマレイド・タウンから追っ手が来る。彼女と青年は、どうにか逃げるが、月の力によって、ふたりは恋におちる。童話的な魔笛風の冒険談の雰囲気だが、1幕も2幕も幕切れは、女性が病院のベッドに横たわり、青年が医師として手術をしているので、この童話が集中治療を受けている彼女の夢であることを示している。3幕。マーマレイド・タウンに戻ってきた彼女は、月の力で知らないうちに万能を得ていて、何でも自分の思ったとおりになる。あげくに彼女は時間まで止めてしまって全員固まるのだが、その中でひとりだけ彼女に話しかける人物がいる。その人は「管理者」であって、この物語は死ぬ直前に、願いが叶う夢を見られる「サービス」の「プログラム」だという。彼女が、プログラムに逆らったところで、夢から覚めて病室に戻る。医師は助かったと言って、彼女も元気になる。病室の離れたところでセールスマンが医師に、死ぬ直前の人が願いの叶う夢を見られるサービスを売り込んでいる。彼女が変だなと思っていると、マーマレイド・タウンとパールの森の人たちが病室に入ってきて、恐怖におののく彼女を連れ去ってしまう。

3幕の途中までは、童話風の物語を、死の直前の少女の儚い夢に仕立てたものとばかり思っていた。だが最後は瞬時に一転して、プログラム・エラーが引き起こしたホラー仕立ての結末となっていたことには、結構な衝撃があった。

私は、3月の東京室内歌劇場の「流刑地にて」で、人間が機械に従属する人間疎外を感じていたが、考えてみれば、それはまだ実体のある機械であった。しかし、「マーマレイド・タウン」に至っては、人間が実体のないコンピュータ・プログラムに従属している世界を暴いているのである。現代社会は、プログラム・エラーが起これば、電車も止まるし、銀行も止まる。止まるだけならいいが、止まらなくなるものが出てくるかもしれない。これは恐怖である。このオペラが最後にホラーとして終わるのも納得できる。実は、3幕の途中、彼女がプログラムに逆らって、夢から覚めて回復したところまでは、私は不覚にも、この作品のメッセージは、「プログラム依存から脱却しなさい」という社会への警告なのだと感じていた。しかし、その感想は浅かった。結末まできて、既に世界はプログラム依存から脱却できないところまできていることを知らされたのである。

主役(月子という名があるが、作品中一度もその名前は出てこず、ディアナと呼ばれる。)は、若手の森美代子であったが、童話風の雰囲気からクライマックスの恐怖の表情への激変は、こちらも身の毛がよだつほどであった。青いサカナ団のキャスティングは、日経新聞の池田卓夫氏が担当していて、前作もそうであったが、よくこれほどまでに役をぴったりと創唱できる若手を見つけるものだな、と感心する。そのほか、脇を持木弘や中村靖といったベテランで締めるのも、作品に重厚さを出す配役であった。

2008年5月24日 新国立劇場小劇場)

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