新国立劇場「椿姫」
本日の目的は上岡敏之の指揮する音楽を聴くことであって、「椿姫」の、しかも新演出でもない公演で、いまさら舞台上での感動は期待していなかった。しかし、そういう気の緩みというべきか、「私は指揮者を聴きに来たのだ」というような妙に気取った気持ちでいたためなのか、いざ幕が開くと、思いのほか「椿姫」の世界に私の感情が浸ってしまって、途中から何度となく涙がこぼれてしまった。ヴィオレッタはなんてひどい境遇なんだろうと、確かにいまさらなのだけど、あらためて作品そのものにも感動した。泣いてしまっても、まだ最終幕の場合はカーテンコールのあいだに涙を晴らすことができるのだが、2幕なんてすぐに明るくなって休憩に入ってしまうものだから、ハンカチで目を押さえながら席を立たなくてはならなかった。平日夜の公演で、会社帰りのサラリーマンとしては、結構恥ずかしい状況である。
主役の3人(エレーナ・モシュク、ロベルト・サッカ、ラード・アタネッリ)が、それぞれの役にふさわしかった。舞台の状況に合わせてうまく声を出しているし、演技でもたとえば歩き方までよく考えている。特にヴィオレッタのモシュクは、強力な声ではないけれど、適度な声の大きさと、高音の美しさが安定していて、心地よかった。顔もいいし演技もよくて、もうあとほんの少し体型が、と思われるが、それでも実際の動きは身軽で、アリアの最中に2度も回転を披露していた。アルフレードのサッカは、うぶな青年ではなく、気の強い青年の感じであって、2幕ではその味がよく活かされて、ヴィオレッタの悲劇が際立っていた。
さて、それでも今回の公演は、上岡敏之の指揮が目当てであって、そして十分にその音楽を堪能することができた。私は多分上岡さんの指揮は初めて(少なくともオペラでは初めて)であって、ドイツの劇場での地道なキャリアからのイメージで、堅実な指揮をするのかと想像していた。しかし実際に聴くとそうではなくて、前奏曲の最初から、指揮台の左端に立ちVnに向かって大振りしていたかと思うと、すぐに右を向いたり前を向いたり、結構動きが激しい。右に左に指揮台からこぼれ落ちそうだし、歌手に指揮するときは身を乗り出して、歌手に指揮棒が刺さるのではと思われるほどである。といって、大きな音を出すわけではなく、逆に抑え気味で、音を小さくしたり、音と音の間をとったりするところは、とても納得のできる演奏であった。こういうところが劇場を知っている指揮者というのであろうか。余韻を持たせるのがとてもうまい。ドラマだけでなく音楽に感情移入できてしまう。多分、指揮のおかげでキャストもよく演技ができたのだろうし、私が泣いてしまうことにもなったのだろうと思う。
ここのところ、初めて観る作品の公演に出かけることが多かったが、こういう何度も何度も観たスタンダード作品でも、新たな気持ちで泣けるところがオペラのおもしろいところ。尽きることのない欲求の原因でもある。
(2008年6月5日 新国立劇場)