新国立劇場「ムツェンスク郡のマクベス夫人」
日本では過去にそれほど上演されていないと思われるショスタコーヴィチの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」だが、私とは相性がいいようで、今回が3回目の鑑賞となる。そして3回目にしてようやく、作品として感動できるまでおもしろいと感じられるところまできた。それは上演の内容にもよるが、私自身の年齢的状況によるところが大きいように感じる。
私が最初にこのオペラを観たのは、ケルン・オペラの来日公演で、その頃の私は十分に若かった。ハリー・クプファー演出による舞台は、今回の新国立劇場の演出とは比べものにならないほどセックス表現が過剰、過激で、舅ボリスによるレイプシーン(だっとと思う)は、未熟だった私には直視できないほどの衝撃であった。その時受けた衝撃の印象は、今になっても鮮烈な思い出だが、当時の私には強烈なショックだけが残り、それを超える作品への理解はなかった。時が少し下って、その次に私がこのオペラを観たのが、キーロフ・オペラの来日公演。その時の私は、結婚直前。人生のそんな状況において、殺人、不倫、自殺が連続するこの作品は、私の心に何の共感も呼ばず、どんな公演だったのか、ほとんど記憶に残っていない。公演の質によるところもあったかもしれないが、私の状況からしても、それは仕方がなかったことだと思う。
そして今回が3回目。私自身の人生も進んでいるが、社会全体も進んでいる。個人的には不倫や殺人という事件そのものは縁遠いとしても、作品全体を包み込む閉塞感は、一歩踏み外すと自分自身が陥りかねないすぐ隣の空間のような身に迫るものを感じる。また、主人公たちの周りにいるいろんな人たちの空虚な脳天気さにしても、警察署のシーンに代表させている社会風刺にしても、ゴールデンウィークも出勤続きで忙しい合間に新国立劇場まで駆けつけた私には、個人的にも社会的にも胸がすくほどおもしろく感じられた。ベルカント・オペラをうっとりと鑑賞することも、もちろんオペラファンとしては、無上の愉悦であり、現実社会の疲れを吹き飛ばす効果は絶大だが、高いチケット代を出しているからには、一時の気晴らしではなくて、しっかりと自分の気持ちに納得できる舞台を観たい。
そして、3回目の鑑賞にして、初めてこの作品の終幕に感動した。この作品のイメージはエキサイティングな音楽と舞台であって、実際に1幕から3幕まで延々とそういうシーンの連続なのだが、終幕は一転して静かで暗い雰囲気になるので、これまで私はこの終幕が退屈であった。しかし今回、この終幕でのカテリーナの境遇に、殺人犯人である彼女の境遇に不覚にも感動して涙を流してしまった。カテリーナの立場では入水自殺しか行動の余地がなく、しかもそうしたところで他の誰にも影響を及ぼさないことは彼女自身が分かっているのである。せめてもの最後の自己表現として、不倫相手セルゲイの新しい女を道連れにするが、それでもセルゲイを含め社会にはこれっぽっちも影響を及ぼさない。そのことがこのオペラを過激なだけの作品にしているのではなく、ロシア・オペラの重厚な系列を引き継ぐ芸術作品としての内容があるのだと思う。
リチャード・ジョーンズ演出による、英国ロイヤル・オペラのプロダクション。この作品のことを何も知らない人がいきなり観たら強烈な演出に見えるかもしれないが、実際には(時代設定を少し後にしているとはいえ)作品に沿った演出で、話の展開やそれぞれの人物の性格について分かりやすい舞台であった。台所のゴミ箱にレジ袋をかぶせているような疲れた現実感もあれば、ボリスの亡霊がテレビの画面に現れるといった処理にもなぜか疲労感が漂う舞台になっていた。作品を貫く閉塞感は暗色の高い壁によって常に伝わってくるが、特にボリスを殺害した後の間奏曲を使って、セルゲイとの不倫生活のために壁紙をくすんだ花柄に貼り替えるシーンが、その音楽とも相俟って、破滅に向かう虚構の幸福がよく表現されていて、胸にぐっとくるものがあった。
ミハイル・シンケヴィチ指揮の東京交響楽団は、鮮烈な演奏を長時間持続できていて、気が緩むことがなかった。この作品の場合、そういう演奏の方が、神経を舞台の進行に集中することができる。キャストも同様に緊張感あふれる演奏と演技が終幕まで続き、展開に息もつかせないほどである。特にヴィクトール・ルトシュクが演じるセルゲイは、見た目にも無責任さがあふれていて、どうしようもないものが感じられ、生娘ではないが若い人妻の雰囲気のステファニー・フリーデ演じるカテリーナの惨めさとの対比が際立っていた。
(2009年5月10日 新国立劇場)