トリノ王立歌劇場「椿姫」

感想文の展開が、タイトルロールを歌ったナタリー・デセイのことで大半が終わってしまうことが目に見えているので、まず最初に公演全体の感想から。

トリノのオペラは、知識としては、「ボエーム」初演地ということや、イタリアのオペラハウスにしては客席が馬蹄形でなくモダンタイプということは知っていたが、実際のところ現状の音楽レベルはまったく知らなかった。生ではもちろんのこと、録音を通じても多分聴いたことはないと思う。私のイメージとしては、一流でもないが決して二流、三流でもない、過度な期待はしていないがある程度の期待はしている、といった感じであった。しかし、オケは思った以上に満足できた。弾きなれている曲で得意としているのかもしれないが、それでも日本の公演で聴く東京フィルやその他のオケでは(少なくとも「椿姫」については)及ばないものを感じる。どこがどういいのかは特定できないが、全体として板についている感じ。これには指揮のジャナンドレア・ノセダの適格な音楽作りによるところも大きいのだろうが、オケの本来的な水準がないと表現できないことでもある。

演出(ローラン・ペリ)は、そんなに特筆すべきほどのものかな、と思った。箱型の大きな固まりをいくつもならべて、その抽象的なセットを基本として各幕ごとに具体的なアレンジをするのだが、どうも私には可もなく不可もない普通の「椿姫」に見えた。少なくとも不満は感じないし、普通とはいっても見た目に平凡さはない。敢えて言うならキャスト中心に作っている舞台なのかもしれない。

さて、この日の公演の中心は、何といって主役のデセイにあった。というより、客のほとんどがデセイ目的のために来ていたのではないだろうか、と思うほどの熱狂であった。(気取った言い方で恐縮なのだが、私は「デセイ」目的ではなく、「トリノ」目的であった。)

世界的なデセイの人気は知っていたが、これは異常ではないか。カーテンコールのパフォーマンスは異常である。言い方がちょっとネガティブになったが、言い方を変えればサービス精神旺盛である。オペラ公演のあとのカーテンコールで、まるで子供みたいにピョンピョン飛び跳ねるし、プロンプターボックスの上に飛び乗るし、おじぎついでに前屈までするし、退場のときはエビのように後ずさりしていくし、自ら客席の手拍子のテンポまでとるし、お客様を最後まで楽しませる意気込みが十分である。これまでもカーテンコールで、たとえば喜劇のあとにバリトン歌手が少々のパフォーマンスをしたりするのは見たことはある。しかし、悲劇のヒロイン役を演じたソプラノ歌手が、しかもトップクラスの名声を得ているソプラノ歌手が、ここまでパフォーマンスを披露するなんて見たことがない。客席の喝采が、本来の演奏に対してではなくてパフォーマンスに対してのような気がしてきて、少し冷静になろうかなと思っても、どんどん繰り出してくるデセイの魅力についついのせられてしまい、不覚にもわくわくしながら手拍子をとってしまう。芸術の枠から外れたショー・ビジネスの中に引きずり込まれているのではないかなと感じながらも、とても楽しく満たされた気分にさせられてしまう。それに、デセイは子供のように身体が小さいから、あまり嫌味もない。20分もカーテンコールが続いているところで、もう私は出てしまったが、外には既にサイン待ちの長蛇の列が楽屋口からホールの玄関まで続いていた。トータルな集客力は、紛れもなく実力のうちだろう。

さすがに歌唱も良い。最近はつやが衰えてきているという論評も多く、どうかなと思っていたのだが、初めて聴く分にはそれほどのことは分からない。少しおやっと感じるところもあったが、それは私個人的な感想かもしれないし、衰えているというような感じとは違うものである。それにしても、小さな身体にしては声も大きいしよく通る。

演技は表現が際立ちすぎている感がある。悪くはない。その場面ごとの特徴をよく表現できていると思う。しかし、元気満点のヴィオレッタなのである。舞台の端に立っているアルフレードに向かって、反対側の舞台端から駆け寄っていく演出があるのだが、デセイは「駆け寄っていく」のではなく、「全力疾走」しているのである。アルフレードめがけてタックルする勢いである。これは、舞台裏から助走をつけて走っているに違いない。

肺病とは思えない活力にあふれている。考え方次第である。

2010年8月1日 東京文化会館)

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