新国立劇場「コジ・ファン・トゥッテ」

近年の「コジ・ファン・トゥッテ」の舞台演出では、話の展開をすなおに読み込んでモヤモヤ感の残る終わり方とすることが多いのだが、今回の新国立劇場の演出(ダミアーノ・ミキエレット)はこれまでにないほどスッキリとしたモヤモヤ感が残る舞台であった。恋人たちが元のカップルに戻らずにみんな信用できなくなってしまうことは、この物語の感想としては普通の感覚であり(多分それは現代だけでなく、モーツァルトの時代も、ベートーヴェンやワーグナーの時代も感覚は同様であったと思う)、最近はそういう演出が多くなっていて、今回の演出についても基本的にはその路線であり、それ以上の奇を衒ったおかしなことにはなっていない。

舞台設定は現代のキャンプ場に変えている。これも、いろんなアイデアの演出が乱立している現在においては、特別おかしなことではない。しかし多くの場合、舞台設定を変えることにより、現代の観客にとって身近な感じが出てきて分かりやすくなる反面、やはりオリジナルの台本まで変えるわけにはいかないので、長いオペラ作品のどこかのシーンですきが出てしまいやすい。そういったすきを見せないことが秀逸な演出なのだろうけど、そんな舞台は滅多にない。それが今回の演出は、終始納得して魅入ってしまうほどの舞台を作り上げていた。こういう舞台が、新国立劇場の新演出で鑑賞できるとは思わなかったほどである。

舞台セットが、また美しい。とても具体的に作っていて、豪華である。演出の設定がキャンプ場なので、舞踏会場のような豪華さではないが、自然風景を巧く再現している意味で豪華である。木々に囲まれたキャンプ場で、回り舞台の中央には小高い丘があり、小径や坂道もあれば、水遊びができる池もあるし、ログハウス風の管理小屋とそれに併設されたバーもあって、どれもこれもリアルで美しい。キャンピングカーも停まっていて、テントを張るスペースだってある。回り舞台を使用する場合は、通常場面を仕切っていて、反対側のセットはまるで見えないものなのだが、この舞台は丘の向こうに反対側のセットが遠景として見えていて奥行きがある。特に夜の林の風景は雰囲気が良くて、暗い木々の影の中、キャンプファイヤー(実際に炎が出ていた)を囲んだりとか、夜の小径を懐中電灯だけで歩いたりとか、そういう状況であれば、まるで中学生のごとく、ドラベッラもフィオルディリージもすぐに恋に堕ちてしまう気持ちがよく分かってきて、納得してしまう。

これまで観てきた舞台の中でも美しさではトップクラスであるが、ただ音響面を考えると、室内風のセットと違って、本当に森林の中で歌うような開放感があり、歌手たちは大変だったのではないかなと思ってしまう。時には、回り舞台中央の丘の上で歌わされることもあって、指揮者や客席からは結構後方になってしまっていた。このあたりは、演劇以前にオペラなのだから、多少の演技の不自然さは承知で、舞台前方中央で歌わせてもらいたい。

このような舞台演出だと、キャストについても、それなりの現代的な演技が求められてくる。特に衣裳が現代のものになると、演技の現代っぽさが途端に気になってくる。その点では、今回のキャストは舞台にしっくり溶け込んでいた。これは個人的な好みになってしまうかもしれないが、特にドラベッラ(ダニエラ・ピーニ)が舞台の設定によく溶け込んでいて、今どきの感じが十分だった。デスピーナ(タリア・オール)も同様に演出の雰囲気に合っていた。

ただ、この日の鑑賞では、舞台の成り行きから目が離せなくて、音楽に集中するどころではなかったことも確かである。それでも演奏面での不備があれば気にはなるだろうから、そういうことがなかったということは、音楽も十分に楽しめていたということだろう。できれば、このようなおもしろい舞台の場合は、何回か公演に出向いて、耳で楽しむ日、目で楽しむ日、頭で考える日、総合的に楽しむ日と段階的に分けて鑑賞したいものだが、家庭持ちの困窮したサラリーマンには到底無理である。

2011年6月5日 新国立劇場)

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