オペラシアターこんにゃく座「ゴーゴリのハナ」

ゴーゴリの「鼻」が原作のオペラといえば、ショスタコーヴィチの名作がすでによく知られているので、いまさらどうして新しく作るのかということが、まず疑問に思うし、気にもなる。上演するこんにゃく座や、作曲した萩京子にしても、ショスタコーヴィチの前例があることは十分意識しているようなのだが、それは先達への敬意のようなものであり、タイトルを「鼻」とはせずに「ゴーゴリのハナ」としているのもショスタコーヴィチの作品と区別するためらしい。

ストーリーはそのままで、特段の改変はない。床屋のパンの中から鼻が出てきて、同時に八等官の官吏の顔から鼻が消えていて、その鼻が五等官となって逃亡するが、警察につかまって、鼻が元の顔に戻るという話。全体的に、喜劇とも悲劇ともとれない雰囲気になっている。

それで、このオペラの主眼はどこにあるのか。そもそも、なぜゴーゴリはこんな不思議なありそうもない物語を書いたのか。また、なぜショスタコーヴィチは、これをオペラに仕立てたのか。ショスタコーヴィチのオペラがある上に、なぜ改めてこんにゃく座が新作として取り上げようという気になったのか。今度の新作を観ても、結局その答は出ていない。おそらく、簡単に答えが出てしまったら、この物語のおもしろさは半減するのかもしれない。このオペラについても、始まりと終わりに、「ありそうもないが無いとも言い切れない」と物語の不思議さを歌い上げていて、問題提起だけは行なっている。その不可解さそのものを楽しむのだろうか。もちろん直接には答えを出していないだけであって、何度か観ているうちに納得できてくるのかもしれない。(少なくとも、市井の庶民はありきたりのニュースよりも奇天烈な話を好むということは、歌詞になっていて、これが解釈の端緒かなとも思える。)

一方、プログラムに、19世紀のロシアの官位制度についての解説があり、これを読むと、主人公の言動がどういう状況から来ているのかが理解できる。当時の官吏は14の等級に分けられていて、九等官までは普通だが、そのひとつ上の八等官になるのが結構大変だったらしい。しかし、この主人公の八等官は、地方から成り上がりで、たまたま八等官になったようなものである。だから、自分の職位に自慢があるが、空威張りのような悲哀さが出てくる。本人は気付いていないその悲哀さは、今回のキャストの大石哲史の歌と容姿によってよく現れていた。でも、そういった中級官吏の姿は、文学やオペラのテーマには十分なりうるとは思うのだが、それが、顔から鼻が失踪してしまうような事件として現れるには飛躍が大きすぎる。上級の五等官が登場することによって、主人公の立場を際立たせるのも分かるが、その五等官が自分の鼻でなくても、と思う。

また、プログラムには、ゴーゴリが「鼻」以外の作品でも鼻にこだわっていることにも触れていた。しかし、これ以上、題材についての詮索は必要ないだろう。

今回の作品は、原作の内容がよく分かるようになっているが、それはやはり、こんにゃく座特有の、聞き取りやすい日本語の歌詞と、その歌詞を上手くのせている音楽によるところが大きいと思う。主人公にとっては深刻な話だが、その周囲の人たちにとっては楽しい話であるように、音楽の上でも、全体にテンポのいい軽妙な流れで進むが、笑えるほどの喜劇にはなっていない。

日本語の台本(加藤直)もよくできている。韻や洒落が各所に散りばめられていながら、それらがわざとらしくなくスッと歌詞の中に入ってくる。韻や洒落が旋律に溶け込んでいるのだ。この点は、喜劇やオペレッタを訳詩上演する際の、苦心の駄洒落とはまったく自然さが違う。強引な駄洒落ではないので、客席に笑いが巻き起こるのではなく、聴いていて気持ちが軽くなってくるような効果があるのだ。ともすれば深刻な立場に陥りそうな主人公も、こういった歌詞と音楽によって、肩肘張らずにその姿を楽しめるようになってくる。

伴奏は、ヴァイオリン、サクソフォン、パーカッション、ピアノの4人だが、状況に応じた楽器の組み合わせで、各場面が表現されている。また、器楽のみによる序曲や間奏曲のようなものもあって、そういったところも楽しめるようになっている。

今回の演出ではどこの国でもないような舞台設定になっているが、台本の上では、場所がロシアのペテルブルグであることはちゃんと歌われる。だから、演出によっては、原作の雰囲気がもっと出せるのでは、とも思う。(もっとも、今回の演出は台本作者自身である。)

2011年9月10日 俳優座劇場)

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