東京二期会「ドン・ジョヴァンニ」

今回の感想は、演出(カロリーネ・グルーバー)についての私の見方だけになってしまいそうだ。

序曲の音楽が始まる前に、雷鳴が轟き、とりあえず嵐であることが提示される。舞台は大きな額縁に入った絵が飾ってある貴族の館の部屋で、食事のテーブルの近くにかつらをつけた従僕(レポレッロ)がいる。

序曲が始まると扉から、現代の身なりをした若い男女が飛び込んでくる。突然の嵐に、風雨を避けるために貴族の館に迷い込んだようである。中世貴族の従僕の身なりをしているレポレッロの姿に、二人とも戸惑っている。序曲が終わって、第1幕が普通に始まるのだが、ドン・ジョヴァンニ、ドンナ・アンナ、騎士長と、次々に時代がかった人たちが部屋に登場してきて、殺人事件まで起こるのだから、若いカップルは事の次第におびえている。

この時点で、この若いカップルは現代からドン・ジョヴァンニの時代にタイムスリップしてしまった設定だと思った。そしてこの男女が、ツェルリーナとマゼットだということは察しがつくのだが、他の登場人物たちとの設定のギャップが大きく、どうやって流れに入り込んでいくのかが見ものになってきた。

レポレッロのカタログの歌まできて、おそらくそのカタログの人たちであろう、時代がかった衣裳を着た大勢の男女(男性もいる)が、まるで人形か亡霊のような動きで出てくる。その男女の集団が、次のツェルリーナの合唱に応じてつながってくるのだ。最初はとてもおびえていてツェルリーナだが、ここまで進んだ時点ではマゼットよりもこの状況に溶け込み始めているのである。意外にもすんなりツェルリーナの歌詞もマゼットの歌詞も流れに入り込んでいて、違和感がなかったのはすばらしかった。

舞台セットは、貴族の館の部屋で、大きな額縁に入った絵が壁にあるのだが、その絵が消えると、その向こうに手前の部屋とまったく同じ部屋あって、やはり大きな額縁の絵がある。そしてその部屋の絵が消えるとその向こうにもまた同じ部屋がある。入ったら最後、絶対に抜け出せない空間であることが感じられる。

見ているうちに、これはタイムスリップではなんかではなく、性的倒錯した異常なコスプレ集団の館ではないだろうかと思えてきた。みんな実は現代人なのかもしれない。その証拠に、衣裳の時代が不統一で、たとえば、オッターヴィオは途中で昔の列車の車掌の様な格好になったかと思えば、ドン・ジョヴァンニのことを訴えに行くと言い出しているときは、館の外に出るためなのか、普通のスーツにネクタイ姿になっていたりする。どこかの山の中の廃墟のような館で、外界とはシャットダウンされた状況での異常嗜好者たちの乱痴気騒ぎのようだ。

実は、ツェルリーナとマゼットの二人も、嵐の中で迷い込んだのではなく、わざわざ訪れてきたのかもしれない。それも、もしかしたらツェルリーナの方が大いに興味を持っていて、気乗りのしないマゼットをつれてきたのかも。そうであれば、最初は部屋の様子に驚いていたツェルリーナが、すぐになじんできて、ドン・ジョヴァンニに近づいていくのも分かるような気がしてくる。

ここのドン・ジョヴァンニは、相手は女でも男でもいいのかも。カタログの歌の擬人化では男性もいたし、第2幕でレポレッロに変装したあと、通常はマゼットをたたきのめして痛めつけるのだが、ここではマゼットを脱がせて押し倒していた。

変装といえば、このドン・ジョヴァンニとレポレッロの衣裳の取替えは、エルヴィーラの目の前で行なわれるのである。だからエルヴィーラは、夜のデートの相手が、ドン・ジョヴァンニに変装したレポレッロだと承知しているのである。エルヴィーラ自身はあまり喜んではいないようだが、声も背格好も似ているので、ドン・ジョヴァンニの代わりになる位には思っているみたいだ。このように、ドン・ジョヴァンニの周囲も含めて、全体的に倒錯した性嗜好の集団である。

騎士長の亡霊は、ローマ法王のような雰囲気で、ドン・ジョヴァンニ以外のみんな(地獄堕ちのシーンは、全員立ち会っているのである)の頭に手をかざして祝福を与えているような仕草をしていた。明らかに騎士長の亡霊でなく、生きている人間だ。一瞬、山奥で集団生活するカルト教団かとも思ったが、あまりにも単なる法王っぽいので、これもコスプレ趣味のひとつかもしれない。

ここまでくると、ドン・ジョヴァンニの地獄堕ちもウソで、ひととおり落ち着くとまた這い上がっていた。

以上は、この演出の私なりの見方だが、演出家の意図は違うかもしれない。多分違うと思う。まったく違うかもしれない。合っているにしても違っているにしても、この公演で何かしらの感動を得るところまでは達しなかった。とてもおもしろい舞台だとは思うし、十分に楽しめたのだが、だから何だったのだろうか。もし自分自身が偏狂的な嗜好を持ち合わせていたとしたら、感動的な演出だと感じることができたのだろうか。少なくとも私には実感が伴う演出ではなかった。

沼尻竜典の指揮は、モーツァルトらしい流れるような音楽で、舞台上との格差が妙な感じがしたが、その格差もなんだか心地良かった。

2011年11月26日 日生劇場)

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