新国立劇場「ローエングリン」
まずはタイトルロールのクラウス・フロリアン・フォークトの特徴的な安定した高音が、ローエングリンを印象付ける。フォークトの歌うローエングリンは、決して力強くはないが、終始一貫して揺るぎがない。こんな歌声を聴かされると、何も言わなくても信じてしまう気分になってくる。もしかしたら、ワーグナーのテノールでもほかの役だったら違和感が出てくるかもしれないが、ローエングリンには申し分のない声である。この声だと、ハインリヒ王も民衆も兵たちも、たとえ名前が何であっても全幅の信頼を置いてしまうのも納得がいく。演技や歌唱の技術ではなく、声の質だけで信頼してしまうのである。
もちろんエルザも同じ気持ちだったと思う。とはいえ、その効果は、昼間に大勢の前で信頼を得る声であったとしても、夜、二人きりの部屋で同じように揺るぎのない声で説教されると、やっぱり聞いている方はやりきれないものが出てくるのではないだろうか。エルザの不安も、なんだか分かるような気がしてくるのである。エルザとしては、目の前の騎士がもっと不安な声で「名前を聞かないで」と言ってくれた方が、逆に自分を信頼してもらっているようで、知りたくても聞こうとは思わなかったのではないだろうか。ワーグナーの意図したエルザの動揺とは違うかもしれないが、そんなことを思わせるフォークトの声であった。
ペーター・シュナイダーの指揮も、東京フィルから可能な限りのワーグナーの演奏を引き出していた。さすがに作品に精通しているだけあって、全くクセのない演奏である。たとえば3幕の前奏曲なんて、指揮者によってはほんの少しテンポが速かったり遅かったりして、それだけで気になるのだが、シュナイダーの場合はそういうことが全くなかった。指揮についてもタイトルロール同様、全く揺るぎのない信頼感たっぷりだったといえる。
演出(マティアス・フォン・シュテークマン)は、私が感じたところ可もなく不可もなくといったところ。極端な解釈を持ってくるわけでもないが、決して基本的な分かりやすい舞台ともいえない。エルザやオルトルートの扱いは納得できるものの、合唱の動かし方が通り一遍のように感じる。舞台セットの色彩感覚なんかは、「ローエングリン」のイメージによく合っているのだが、それも雰囲気にとどまる。最後の幕切れでゴットフリート王子が一人舞台に取り残されるが、特段インパクトもないし意図もすぐには読み取れない。このあたりは、ワーグナー上演に対する期待の方向で、それぞれ受け止め方は違うのだと思うし、少なくとも演奏を邪魔するような演出ではなかった。
(2012年6月16日 新国立劇場)