東京二期会「カヴァレリア・ルスティカーナ」

今回の東京二期会の公演は、チラシを見ると、指揮者にパオロ・カリニャーニを据えていることが目玉らしい。確かにそれはそうかもしれないが、二期会の客層の大半の目的は、おそらくキャストであり演目であると思われる(失礼?)ので、指揮者目当てはどれほどいるのか、と思う。(宣伝戦略が的を射ていなかったわけではないと思うが、実際、空席の目立つ入り具合だった。)

そのカリニャーニの指揮であるが、かなりはっきりとした音を作っているように感じた。良く言えば、音がしっかり聴こえるのだが、悪く言えば、平板に聴こえてこなくもない。シチリアのこぶしのきいたうねりはないが、心にずさずさ刺さるような演奏である。出身はミラノということだが、なんだかドイツ人の指揮するイタリア・オペラみたいである。もし舞台装置が、シチリアの片田舎をリアルに再現したものであれば違和感のある演奏だったかもしれないが、今回のように最近よくあるすっきりした舞台装置の上演であれば、よく合う演奏だと思う。

演出(田尾下哲)は、舞台設定を大胆に変えているわけではないけれど、シチリア色は排除して、モノトーンを基調とした舞台を作っていた。セットは覆いかぶさるような暗灰色の壁だけで、そこにイスと机を自在に出したり引っ込めたりして情景を想像させる。

一方、人物の行動は積極的に舞台上で見せていた。前奏曲の間には、舞台奥の方で、悲劇の元であるトゥリッドゥとローラの逢引きを見せているし、ラストシーンのトゥリッドゥがアルフィオに殺される決闘も、舞台上で行われていた。(トゥリッドゥがアルフィオの腕をつかんで、自分を殺せるように仕向けているかのようにも見えた。)これらは、シチリアの背景にとらわれない生身のドラマとして、非常に緊迫感のある舞台になっていた。

また合唱が演じる村の男女は、合唱がない時でも、登場人物を取り囲んでいることが多かった。これは、小さな村では不倫も何もすべて衆目にさらされているということだろうか。そして、その合唱もひとりひとり、舞台上の事の成り行きに対する反応が違う。といっても、ドイツの演出でよくあるような、合唱ひとりひとりにまで性格の違いを際立たせるようなうるさいものではなく、少しずつ微妙に事件への反応が違うという程度のものである。これも、小さな村では集合体全体の意識は平準化され、一定の範囲内での性格の違いしか出てこないことを表しているととらえるのは深読みしすぎだろうか。

ここからは、私自身の作品に対する好みの話だが、ヴェリズモ2作品のうち、「道化師」についてはオペラ超初心者の時から大好きだったのに対し、「カヴァレリア」の方は(音楽の心地よさは分かるとして)、物語はいまいちおもしろいとは思っていなかった。それが、最近になってようやく「カヴァレリア」のおもしろさがわかるようになってきて、ここのところ、ビデオなどでも感動するようになってきていた。そして今回、「カヴァレリア」舞台鑑賞歴7回目にして初めて客席で泣いてしまった。しかも前奏曲から泣いた。これはどういうことであろうか。演出にシチリア色が抜けて、物語の純粋なところが顕わになったから、感動したのであろうか。多分それも大きいとは思う。だけどそれよりも、元恋人との不倫という状況の話をおもしろいと思うまでに、ようやく自分が成長したということの方が大きいと思う。もちろん自分の現生活においてそういう状況はないのだが、登場人物4人の機微が何となく分かってくるようになったので、泣けるようになったのだと思う。(マンマ・ルチアについては、まだその域に達していない。)ローラとトゥリッドゥの不倫も片田舎の小さな村だから必然的に悲劇になるのであって、もし大都会だったら偶然が重なってから悲劇になるという違いも、理解できるようになってきたし、それが音楽で十分に表現されているということも分かるようになってきた。多分、まだまだ理解の余地はあるのだろうけど、この齢になってようやく「カヴァレリア」に感動できるなんて、やっぱりオペラは一生聴き続けるものである。それにしても若くして「カヴァレリア」に感動できる人は、どのような経験をしたのか知らないけれど、うらやましいものである。

(2012年7月15日 東京文化会館)

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