東京二期会「道化師」
「カヴァレリア・ルスティカーナ」に比べ、「道化師」は時代設定を新しくした演出が多いように思う。演出家がそう思う気も分からなくもない。前回の二期会の公演(1997年)の時も、確か、「カヴァレリア」と「道化師」は同じ村で起こった事件という設定で、「カヴァレリア」は昔の事件、「道化師」はより最近の事件という設定だったと記憶している。
今回の演出(田尾下哲)は、現在より4〜50年ほど前を想定していると思われる舞台を作っていた。特徴的なのは、終始テレビカメラが舞台にあって、これは現代の衆目という意味では、小さな村からグローバルに変化していて、おもしろい。但し、結果的なことから先に言ってしまうが、テレビカメラの登場はおもしろいのだが、テレビ局での設定というのは、いろいろムリがあったのではと思う。そこまで細かく手を入れなくても、単に、劇場でも屋外でもいいから、カニオたちの芝居公演をテレビ撮影しているという設定だけで、演出意図は十分果たせたのではないか、と思う。
プロローグは、ちゃちなテレビ局のスタジオでのトニオのインタビュー収録という設定。実際、プロローグでトニオはこのオペラの趣旨を前口上するので、このシーンのアイデアはおもしろい。続いて1幕冒頭の、カニオ一座の登場は、飛行機のタラップから。その様子は、半世紀ほど前の外国からのスターの到着のようではあるが、タラップから降りてくる滑走路にまで、取材陣はおろか、一般のファンたちまで詰め寄っているのには、本当にこんなことが許されるのかどうかびっくりした。もしかしたら、カニオ一座は外国から来たスターというほどのものではなくて、都会の人気者たちが地方公演に降り立ったシーンだと見れば、ムリはない。プロローグでのちゃちなテレビ局も、50年前の地方局と見ればいいのかもしれない。そのような地方公演の状況の中で、ネッダの恋人シルヴィオは、地元の観客の一人ではなく、スタッフの一人に設定しているのも、恋愛への時間を考えれば、ムリのない微調整である。
しかし、全体を通して観ると、どういうわけだか緊迫感に欠けているような感想を持ってしまう。端的に言うと、劇中劇がそれらしく見えてこないのである。そこが「道化師」の特徴であるにもかかわらず、その部分がいまいちぼやけているように感じる。そういう感想を持ったのは私だけかもしれないが、何がそう感じる原因なのか考えてみると、50年ほど前の地方テレビ局の中という設定に行き着く。テレビカメラでカニオの芝居を収録するという設定自体は、公衆の面前での殺人という状況が、現代では殺人事件のテレビ生中継ということに置き換えられることには十分に納得できる。それであれば、ふた昔以上前という中途半端な時代設定にするより、もっと思い切った設定(例えば直近の現代)の方が、ストレートに意図が伝わるのではないだろうか。(実は、今回の時代設定は、「道化師」初演時と現在とのほぼ中間時点になっている。そんな時代設定が、私には中途半端に感じてしまう。)
舞台装置は、背景をなくし、階段状の客席を前に向けたり後ろに向けたりして変化させているもの。それはいいのだが、背景がないことで、音が散るような感じになるし、階段状の客席の一番上でキャストを歌わせることが多く、その場合、立ち位置が結構舞台奥になってしまって、やはり音が散ってしまう。このような音楽上の効果からも、緊迫感に欠けているような感じがしたのかもしれない。
演出の本筋とは直接関係ないが、最後の「ラ・コンメディア・フェニタ!」(カタカナですみません。)の歌詞は、通常カニオに歌わせるところ、今回はちゃんとトニオに歌わせていた。私は、本来こうすべきものと思っているが、なかなか実際の舞台ではお目にかかれていなかった。このようにしないと、プロローグとの統一が図れない。この点は、大いに満足した。
指揮(パオロ・カリニャーニ)は、「カヴァレリア」の感想でも書いたが、ドイツ人の指揮するイタリア・オペラのような感じ。しっかりと音が聴こえてくる演奏で、「カヴァレリア」ほど情緒的な旋律もないので、突き刺さってくるような感じが「道化師」には合っているように思えた。但し、劇中劇のコロンビーナたちの音楽の部分でも同じような調子の演奏であって、悲劇の前の、気の抜けた感じには乏しかった。(このあたりも、演出だけではなく演奏面からも、劇中劇の緊迫感に欠けているように思われた要因かもしれない。)
(2012年7月15日 東京文化会館)