新国立劇場「ピーター・グライムズ」
誰もが感じていることだと思うが、シーズン・オープニングにこんな演目をもってくるなんて、新国立劇場も渋すぎる。このオペラは、村八分の差別問題だけでなく、児童虐待、貧困問題、女性蔑視、それ以外にも麻薬、宗教などの視点もあって、観ていて気持ちが落ち着く暇がない。たとえば「ヴォツェック」でも「ムツェンスクのマクベス夫人」でも、深刻な状況で落ち着く暇がないことは同じなのだが、それらの人物や舞台はどこか別世界であり、自分の周りでは起こりえない感じがする。それに対して「ピーター・グライムズ」の世界は、恐ろしいほど自分たちに身近であって、いやに現実味がある。地方の漁村が舞台ということも、日本においては親近感がある。少なくとも、イタリア、フランス、ドイツなどの作品で感じる「ヨーロッパのオペラ」という香りが漂ってこない。
たとえば、噂話のために、ある人が排除され差別されるなんて、現在の住宅街でもメールやネットを使ってごく日常的に行われていることではないだろうか。自分がいつグライムズになるか、村人になるか、エレンになるか分からない。
また、グライムズは、漁で当てて金儲けして、店を持って、エレンと家庭を持って、そして、噂している村人たちを見返そうと思っているが、これと似たような成功を考えている人は、今の時代、若者にも勤め人にも多いのではないだろうか。現実には多くの場合、それは根拠のない誤った自信過剰であり、その先には挫折が待っている。(逆に、そういう気概を持って努力することが大事との考え方もある。)こういったことを次々と考えさせてくれる作品なので、本当に観ていて気持ちが落ち着く暇がない。
今回の指揮はリチャード・アームストロング。アームストロングは22年前のウェルシュ・ナショナル・オペラ来日時に「ファルスタッフ」の指揮を聴いたことがあるのだが、この時の公演が演奏も演出もテンポ良い躍動感にあふれていて、いまだに興奮が忘れられないぐらいの高水準な舞台だった。それ以来久しぶりのアームストロングの指揮だったのだが、テンポの良さは変わらず気持ちのいいほどで、それが「ピーター・グライムズ」の緊迫感にうまくつながっていた。東京フィルも(管楽器が時おり指揮についていけなくなりそうなこともあったが)総じて満足のいく迫力のある演奏であった。
キャストでは、エレンのスーザン・クリットンが、最初にびっくりするほど良かった。小さな声の時よりも、大きく絶唱した時にきれいに響く。力強く大きな声ではなくて、大きな声になると美しく澄んで響いてくる。とても「エレン」らしい声である。風貌も「エレン」のイメージによく合っていた。グライムズのステュアート・スケルトンは表面的な粗暴さと心のうちの不安がよく表れていたし、バルストロードのジョナサン・サマーズもこの役はこういう風格なのだろうなという雰囲気がよく出ていた。
今回は新国立劇場の公演にしては珍しく、外国人キャストと日本人キャストとの間に演奏の表現レベルの差があったように感じた。イタリアやドイツのオペラとは違って、英語のイギリス・オペラについては不慣れだったということだろうか。もちろん十分な健闘は感じられるし、そもそも技術的な面では問題はなく、不満を感じるほどではないのだが、表現力の差は感じた。もっとも、外国人組はイギリス人とオーストラリア人で英語圏なので、最初からブリテンが得意なところだったかもしれない。一方、合唱は、いつもの公演と変わらず、すばらしい迫力があった。
演出はウィリー・デッカー。私は過去に舞台では、「さまよえるオランダ人」と「イェヌーファ」しかデッカーの演出を観たことがないのだが、記憶では、今回の「グライムズ」も含めて、いずれの演出も、高い壁が迫るようなセットで、舞台には机とイスだけがあったように思う。だから一見してデッカーの舞台だと分かるような独特の感じがするのだが、舞台セットが簡素なだけで、それぞれの作品の持つ個性は保っている。今回の場合は、荒波を抽象化した背景と、舞台奥に岩場を抽象化した床を置くことで、漁村の雰囲気とグライムズの立場は十分に伝わってきた。
もともと、主人公の性格や立ち位置を含めてとても解釈の余地のある作品なので、かえって演出しやすいかもしれない。今回の演出は、どちらかというと、グライムズの性格描写に重点を置くというよりは、村人たちの「全体」とそれに違和感を覚えるグライムズやエレンの葛藤を主眼にしていたように感じた。「グライムズが見習いを殺したかもしれない」という疑惑はほとんど感じられなかったし、バルストロードもグライムズの理解者というよりは同情者という雰囲気だった。一方で、合唱の村人たちは整然としたまとまりがあり威圧的である。グライムズが海に消えた後の幕切れの処理も、いつもの村の日常に、バルストロードが躊躇しながらも溶け込んでいき、それに続いて、音楽が終わった後の無音の中で、エレンでさえゆっくりと同調してしまったが、そのことに違和感のない演出であった。それどころか、消えてしまったグライムズのことは思い出したくないような、このバルストロードとエレンの行動を目にして、私は安堵感を覚えた。その直後、そのような感想を持った私自身に気付いて、少なからず身震いしてしまった。
(2012年10月8日 新国立劇場)