神奈川県民ホール「ワルキューレ」
演出のジョエル・ローウェルスは、2008年2月の東京二期会の公演でも「ワルキューレ」を演出していて、その時も今回と同じく「指輪」の中の一部としてではなく、「ワルキューレ」単独での演出であった。その公演の演出では、神々の壮大さではなく、極めて私的な物語として描いていて、ヴォータンとブリュンヒルデの父娘の愛情にいたく感動した。私はこのとき初めて「ワルキューレ」で泣いてしまい、この作品のおもしろさに気付いたのであった。この公演以後、私は「ワルキューレ」の第3幕を観ると、リゴレットとジルダ以上に父娘の愛情に泣いてしまうようになっている。
今回の演出は、前回とはまったく作り変えてはいるものの、この作品を、壮大な神々の物語ではなく家庭的な物語としている基本的な捉え方は変わっていない。むしろ、前回はヴォータンの社会的な地位に起因する辛さも感じられたが、今回はフリッカが第1幕から積極的に出てくるなど、父娘だけでなく、家庭全体の問題としての感じがより強まっていた。
いずれにしても、この演出家のヴォータンとブリュンヒルデの、つまり父と娘の信頼関係の感じ方は、前回同様、私の感性にストレートに入り込んできた。ここでの娘はワルキューレの中でもただ一人ブリュンヒルデであって、つまりは次女以下の娘がいる中での長女と父親との信頼関係なのである。ブリュンヒルデはヴォータンの本当の気持ちを理解して行動に出るし、ブリュンヒルデが自分のことを理解しようとしていることをヴォータン自身も十分に分かっている。当然、はるかに年長者であるヴォータンの考えていることを、ブリュンヒルデが完全に察することは無理なのであるが、その点を含めても父親の長女に対する愛おしい気持ちがにじみ出てくる。たとえば、ジークムントが倒れた後、ブリュンヒルデがノートゥングの破片をサッとかき集めるが、ヴォータンはそれを憮然として見ていないふりをしていながら、内心はどれほど嬉しかったことか。
2008年の公演では、ブリュンヒルデを岩山に眠らせるときに、子供時代のブリュンヒルデをヴォータンの前に登場させていた。観る人によってはくどい演出だったかもしれないが、私が感じるかぎり、愛娘との別れの際に、ヴォータンの心の中のアルバムを見ているようで、私の琴線に大いに触れてしまい、恥ずかしいくらいに涙を流してしまった。確かその時の演出では幼女時代の子供であった。それが今回も同じシーンで子供時代のブリュンヒルデをヴォータンの前に登場させていたのだが、なんと前回より成長していて、身長もヴォータンの肩ぐらいまであった。しかも少し大きくなったブリュンヒルデは反抗期で、父親の抱擁を受けようとしない。(現実の大人になっているブリュンヒルデは、しっかりと抱擁する。)気にも留めない観客であれば、意味不明のくどい演出だったかもしれないが、前回の幼女が出てくるこのシーンを記憶している私にしてみれば、すなおな幼女時代から反抗期の少女時代へ成長がつながっていて、意味があるようにしか思えない。確かに反抗期だって可愛い思い出であり、5年間の成長がまたしても心にぐっときて泣いてしまった。この微妙な変化は、ローウェルス自身の娘の成長ではないかと勘ぐってしまうほどだ。
手法的には、今回は暗転と場面転換を多用していて、舞台に変化を出していたが、ただそれがワーグナーにしては多用しすぎている感があった。この点は、私としてもくどいように感じられた。
キャストは外国人と日本人の混成だったが、その差はそれほど感じられない。日本人だけでそろえても満足できたのではと思う。沼尻竜典指揮の神奈川フィルとセンチュリー響の合同オケは、ワーグナーの豊かな響きには遠かったが、音量は十分であった。
(2013年9月16日 神奈川県民ホール)