ウバルト・ガルディーニ氏について

 この夏、東京二期会が「フィガロの結婚」を上演したが、その時の公演プログラムに西沢敬一氏が寄せていた、演出のウバルト・ガルディーニ氏についてのエピソードを読んで感じたことがありました。

 西澤敬一氏によると、初めてガルディーニ氏に出会った時、西澤さんが握手をしようと手を出したところ、ガルディーニ氏は躊躇して力なく西澤さんの手を握り返したという。その後オペラ研修の時、西澤さんが「ドン・ジョヴァンニ」でツェルリーナや農民の女性に両膝を曲げ腰を落とす挨拶をさせたところ、ガルディーニ氏はそういったお辞儀の仕方は当時のスペインやイタリアには無く第二次大戦後に広まったものだと指摘したそうだ。それまでは日本人と同じように腰から上を前に屈めるお辞儀だったそうで、男同士の握手も昔は無かったということらしい。そう指摘された西澤さんはガルディーニ氏に、「私の観たドン・ジョヴァンニの農民の女性は皆膝を折っていたが…」と質問すると、氏は「この習慣はイタリアでも高齢者しか知らず、イタリア人の演出家でも解っている人は少ない」と答えたそうだ。

 公演プログラムへの寄稿だったので、西澤さんはこのガルディーニ氏の指摘に感謝のことばを述べていたが、私はこのガルディーニ氏のエピソードを読んで、「どうでもええやんか」と思った。舞台設定当時の現実の習慣にあろうがなかろうが、観客が気にせず分かりやすければそれでいいじゃないか。ましてや当のイタリア人でさえよほどの高齢者しか知らない習慣を、日本で厳密に再現する必要が本当にあるのだろうか。それがかえって観客の目にぎこちなく映り、わかりにくくなるかもしれない。オペラに求められる演出は、少なくも現代においては、時代考証に忠実になるより、いかに全体としての社会や個々の人生に訴えるものがあるか、ということが大切なのだと思う。スムーズに音楽やドラマに溶け込まない演出は、たとえそれが学問的に正しくても、芸術と娯楽性を崩すことになる。

 R・シュトラウスに「ばらの騎士」というオペラがある。18世紀のウィーンを舞台にしていて、随所に魅力的なワルツが散りばめている。ところが現実には18世紀にはまだワルツは存在していなかった。ホーフマンスタールもシュトラウスも、もちろんそんなことは知っていた。ウィーンの優雅な雰囲気を出すために、歴史的には正しくないが、ワルツを取り入れたのだ。そもそも銀のばらを贈る習慣さえ作者たちの創作だ。こういった気の利いた融通さがオペラを楽しくさせている。

 時代考証に厳格なガルディーニ氏、もし「ばらの騎士」を演出することになったら、一体どうするのだろう。

 

おことわりしておくが、西沢敬一さん自身の演出はガルディーニ氏の演出とは全然違った雰囲気を持っている。日本人にしてはスケールの大きな演出をする。限られた舞台でもなんだか大きな舞台に見えてくる。私は結構気に入っている演出家だ。だから、西澤さんがガルディーニ氏をたたえている文章を書いているのがちょっと不思議に思えた。

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