新国立劇場「ドン・キショット」

 時々、ぶったまげて腰を抜かしてしまう公演に出遭うことがある。過大な期待は全く抱かずに軽い気持ちで出かけて、いざ舞台に接してみるとあまりのすばらしさにびっくりして腰を抜かしてしまうほどなのだ。

 マスネの「ドン・キショット」が新国立劇場で上演されると知っても、正直惹かれる演目ではなかった。あやうくパスしてしまいかねないほどの関心度だったが、今回を逃がすともう観るチャンスはないだろうという、言ってみればオペラ鑑賞歴を豊かにする目的でのみチケットを取ったようなものだった。

 ところが、幕開けから心に感動が響いてきた。そして、自分の鑑賞目的が全く不純であったことに気付き、この舞台に接することができたことが大いに幸せであることを感じた。しかも、決して華やかさも恋愛沙汰も殺人もないのに、少しも退屈する瞬間がなく、幕が進むにつれて感動が増してくる。物語も渋ければ、音楽も渋い。なのに、プッチーニ以上に涙が流れる。「蝶々夫人」なら泣いてしまう覚悟をして舞台を観るのだが、「ドン・キショット」で泣くなんて予想もしなかった。だめだ、涙が、しかも両目からこぼれ出した。ふと気付くと、隣の席のお姉様も泣いている。もうこうなったら、男が泣くことの恥ずかしさよりも、泣くに任せてしまう感動の方が強い。大胆にも、私はハンカチで目を押さえ、涙で濡れたほっぺたを拭いた。できれば声を出して泣きたかったが、演奏中なのでさすがにガマンすると、余計に涙が溢れてくる。

 何が良かったのか。ライモンディとトランポンの自分自身を役と一体化させた熱演も感動的だったし、ファッジョーニの演出もとてもおもしろくできていた。ギンガルの指揮も新星日響を普段の実力以上に鳴らしていた。もちろんマスネの音楽だけでも十分感動的だ。総合芸術としてこれらの各要素が最高点で融合したのかもしれない。

 とにかく、オペラ鑑賞歴を豊かにするという当初の目的はすっかり忘れてしまい、思いっきり泣いた後の感動だけが心に満ちて帰りの電車に乗った。どうしてオペラ鑑賞初心者の気持ちから脱却できないのだろう。

(5月14日 新国立劇場)

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