新国立劇場「ラ・ボエーム」

 「ボエーム」では、まずまちがいなく泣いてしまうのだが、どのへんから泣き始めるかで、その舞台の私にとっての感動の度合いとなる。ふつうは4幕からである。そこまでは泣いていなくても、4幕の半ばまでくれば泣いてしまうことは分かっているので、とりあえず心構えはできている。心構えというのは、どうやって周囲の人たちに泣いていることを悟られないようにするか準備をするということである。別に泣いてもいいのだが、いい年の男が一人で人前でシクシク泣いているのは、本人は感動しているからいいかもしれないが、周りにしてみれば興ざめだろうから、なるべくなら気付かれない方が良い。だから4幕半ばのムゼッタ登場の前には心しているのだが、時として3幕から泣かされることがある。そういう時は心構えが間に合っていないので思わず涙が流れ、最悪の事態になるとほっぺたからぽたりと落ちてしまうことがある。これは大変である。最終幕で泣いても、長いカーテンコールの間になんとかごまかして涙を乾かすことはできる。しかし、途中の幕ではすぐに明るくなってしまって、みっともない顔をさらけ出してしまうことになる。

 それが今回は1幕目から泣いてしまった。これはさすがに想定外だったので、気が付いたときには涙が口元にまで達していた。なぜそんなに泣かされたか。複合的に良かったのだ。まずキャストがいい。そして演出もいい。1幕のミミとロドルフォとのやり取りが美しい雰囲気に包まれていて、思わず涙してしまった。歌もいいが微妙な演技もいいし、おそらくそれを支えている演出も美しくできている。特に、これは凄いという演出ではないのだが、端々がしっとりと行き届いていて、一瞬たりともムダな動きはない。基本的な演出でありながら、新鮮な空気を作り出している。チェドリンスのミミとボルティーヤのロドルフォの駆け合いも、ちょっとオペラ的ではない感想だが、歌なしで演技だけ見ていても泣いてしまうぐらいである。当然、その演技以上の歌の満足感もある。そして、ピロッリ指揮の東京フィルが、とても豊かな音を出していた。「ボエーム」に満たされているプッチーニのオーケストレーションを、これほどふくよかに聴かせてもらったのは久しぶりの体験である。また、東京フィルのピットとしても最近にないくらいの豊かさで、少し勘ぐりを入れれば、新国のピットに他の楽団を寄せ付けないように死守しているのだろうか、とか考えてしまう。いずれにしろ、聴く方にすれば満足で、キャスト、演出、オケの複合的な良さが幕切れまで維持されて、同時に私の涙も維持されたのある。

 チェドリンスのミミにささいな注文をすれば、1幕の暗闇でロドルフォがわざと手をさわった瞬間に「あっ」と発しなかったこと。スコアにはちゃんとあるので言ったかもしれないが、3階席には聞こえなかった。この無意識の発声がミミのかわいさを助長するのに、ちょっと残念。それと全体を通して咳き込み方がうまくなかった。

 ほぼ完全な舞台だったので、ネガティブな感想を出すとなると、こんな咳き込み方なんてどうでもいいことしかなくなってしまった。

(2003年4月26日 新国立劇場)

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