初めてのハコ仕事



Music by IKO-IKO

 ハコ仕事、といっても、もちろんダンボール箱製造業務ではない。バンドマンの仕事では王道であったクラブやらキャバレーやらのレギュラーの仕事のことである。

 今の事情はよく判らないが、私が現役であった80年代初頭までは、横浜にバンドの入っているキャバレーが数軒あり、毎夜数十人のバンドマンの糊口をしのぐ助けになっていたのであるが、現在はどうなっているのであろう。

 バンドマンの黄金時代は、進駐軍華やかだった時代で、芸能プロダクション経営方面にはその残党がいるのであるが、80年代となると、バンドマンでサラリーマンの初任給の2倍は軽く稼ぐ、なんてのは、すでに夢のような話を通り越して、伝説の域を出ないといった程度の受け止め方しかされていなかった。確かにバンドマンが主たる職業である人もいたことはいたが、ほとんどがパートタイマー(どっちがどっちだかはそれぞれによって違うが)か、私のような学生であった。しかし、そこには「ジャズ」や「バンド」とは異なる「バンドマン」の世界があったのである。

 それはある日、某政党の選挙運動のように、バンド仲間のツテをたどって掛かってきた電話から始まった。とりあえず譜面が読めて、初見がきいて、まがりなりにもソロを取れる奴ということで、地元のバンド関係者には知られた存在であったらしく、最後の条件はともかく、前2つを見込まれて掛かってきたのであろう。そのピアニストからのハコのトラの依頼であった。

 それまでに、単発の仕事やパーティーなどでお鳥目を頂戴することはあったが、ハコ仕事、ましてキャバレーなんて足を踏み入れたこともないところに行くのである。もちろん、一抹の不安はあった。しかし、とにもかくにもキャバレーに行けて、その上ギャラが貰えるのだ。エリントンと同じ仕事だあ、と思ったのは残念ながらだいぶ経ってからのことである。


 横浜駅西口から歩いて4〜5分のところに、そのキャバレーはあった。聞いていたように、裏の錆びた階段を昇り、楽屋に入る。生まれて初めて入ったキャバレーは裏口からであり、未だに表から入ったことがないのである。誰か、こんど一緒に行きませんか?

 入りの時間から10分早く行ったのだが、ほとんど人が来ていなかった。バンマスに挨拶をしようと探したのだが、まだ来ていないのである。このような時、ピアニストはつくづく損である。これ見よがしに楽器を取り出したりすれば、ああ、こいつはラッパ吹きかなどと認知してくれるのであるが、ピアニストは手ぶらである。手近な椅子に座って一服するうちに、もう入りの時間である。と思ったと同時に、どやどやと人が入ってきて、ケースから楽器を取り出し、そのまま奥の扉に吸い込まれて行く。

 私も行ってみると、そこはもうステージで、それぞれが位置についている。このような時、ピアニストは楽である。座るべき場所の前には、でっかい看板が出ているからだ。

 まずは舞台下手のそこに行き、Aの音を叩く。各自チューニングをしているうちに、目の前のアルト吹きが「黄色の162番」と伝えてくれる。


 この楽団は、かなり長い間このハコにへばりついているらしく、レパートリーがピアノの椅子の回りに積み上げられてある。そして、左手が青、後ろが黄色、その下の床にあるのが赤と呼ばれている。そのことは、電話で聞いていたのであるが、各色の楽譜の山、文字どおりの山は、半端な枚数ではない。おそらく総数は1000曲を軽く超えているだろう。その山の中から、その番号の譜面を探し出すのである。

 探しているうちに、カウントが始まり、音がなりだしてしまった。右手で適当に和音を叩き、左手で楽譜の発掘作業。そうこうするうちに、すでに次の曲の色と番号が伝達されてくる。あとはそれの繰り返し、運が良ければ、最初から譜面を見られるが、悪ければなし。これが私のハコ・デビューの最初のセットであった。


 最初のセットが終わり、楽屋へ引き上げると、まずバンマスのドラマーところへ挨拶に行く。これは後で知ったのだが、この人が横浜のバンドマンの主であった。チック・ウェッブのようなアクティブだが、古臭いドラミングであった。まだその頃は、2ビートの心地よさ、チック・ウェッブの凄さが判らなかった。

 セカンド、サードのセットはショータイムなので、楽譜捜しからは解放されるが、最終セットは再び捜索が主たる業務となる。ピアノを弾きにきたのだか、捜しにきたのだかよく判らない。しかし、2度目ともなると、結構素早く探せるようになる。人間、鍛錬が大切である。

 あっと言う間に終わってしまった。大きなヘマもなく、ソロを無難にこなしたが、周囲、ましてやステージや客席を見る余裕は皆無であった。しかし、正直なところ、とても楽しかった。練習嫌いな私には、もってこいである。その上、練習なんぞしなくても、大学のビッグバンドが3カ月吹いた演奏よりも良い音が出るのである。

 その日、帰り道、またこんな仕事が来ないかな、と思ったのだが、それは1カ月と経たずに来るのであった。