1999年10月23日(土)

10月17日、日曜日、ドゥニャンは始めてロシアの演劇を見た。オストロフスキィによる「ベールギンの結婚」というタイトルだった。

その感想はさて置き、この劇を演出した石島ベーニャさんという若き演出家(30歳)に会い、話を聞く機会があったので、そのことを今日は書いてみたいと思う。

ベーニャさんはその名が示す通り、日本人の母とロシア人の父の間に生まれた。ロシアの小学校から高等教育を受けて、大学は演劇大学に進んだ。
ロシアの演劇大学というのは凄まじい難関である。競争率300倍。彼の敬愛するフォメンコに指導してもらおうと思ったら、大学の中でもっとすごい競争があったという。
しかし、ベーニャさんはすんなりこの大学に入り、演出家としての道を平坦に歩んだのでは決してなかった。
高校を卒業後、一度は演劇大学を受験したが、失敗。その間、ロシアの軍隊に入り、文字どおりすざまじい試練を受けている。
ロシアの軍隊のリンチあるいは新兵イジメは有名であるが、ちょっと話に聞いただけでもよくその徴兵期間頑張ったものだと思う。
先輩兵士の中にベルトで鳥を撃つ名人がいて、それを捕まえ頭をもぎとって食べろと強要されたり、手を後ろ手に縛られ、足をロープで結わえられて、身体を棒のような状態にされた挙げ句、足を先輩に持たれ、顔でトイレの掃除をされる。まさに人間モップである。
しかし、そんなことは軍隊では当たり前、日常茶飯事である。


軍隊を出て、20歳から大学に入るまでの時期、ペレストロイカ後、雨後の竹の子のように小さな素人あるいはセミプロ劇団ができた。それをスタジオ劇団と呼ぶ。それは演劇学習集団とも呼べるもので、ブレジネフ時代に禁止されて来た表現の自由を謳歌するために出て来た小さな集団の大群であった。その数は数千にも上ると言われている。
スタジオ劇団はペレストロイカと共に、社会問題を扱った芝居、反スターリン批判のもの、ヌードの解禁と共にエロチックなもの。パンクやメタリストをテーマにしたものありとあらゆるものが現われて来ていた。

そんな中、ベーニャさんは自分で結成したスタジオ劇団「黒い四角(画家マレーヴィッチの絵から)」でアバンギャルドな手法を用いて、演劇を志す若い仲間たちと試行錯誤を繰り返して、自己表現を試みていた。

スタジオとして借りていた地下室は、雪解けのために膝まで水に浸かったという。バケツ・リレーをして水を汲み出してもまだまだ水浸しであった。そんな中で演劇の好きな仲間は、練習していたという。


しかし、ベーニャさんは演劇大学を28歳で卒業し、プロの演出家としてたったアバンギャルドの潮流に関してはかなりシビアな意見をいう。
現代的な演劇の中にある新奇を追い求める傾向が、その演劇の中に深みを与えていかない原因があると言う。いかに新しい形式を作っていくかが問題となり、その芸術性や演劇における人間理解とは程遠いものとなって来ているのではないかと言うのだ。
アバンギャルドには先がないのではないか。
その表現の深みにおいて限界が見えて来ているのではないかと考えている。

なぜそんな風に考えるのか聞いてみたら、
「ボクは少し大人になったかなぁ。」
と、はずかしげな笑みを浮かべる。

今、興味のあるのは古典であるという。古典の中の広がり、そこから救い上げられる人間と人間の関係がとても面白いという。
ゴーゴリー、チェーホフ、オストロフスキー、ナイジョーノフ、ストレンブルク、ゴーリキー、イプセンやシェークスピア。
この中に自分がやりたいものが沢山あるが、それが今の自分では見えてこないものもあるらしい。例えば、シェークスピアのマクベスなら自分の芝居が見えてくるが、「嵐」に関しては形が見えないのだそうである。
この奥のひろがり、突き進んでも突き進んでもなお残る可能性の原野に魅了されのだそうだ。その中にこそ新しい表現の糸口が細い光のさす窓口となって開かれているのではないか、そこに入っていくことこそ、自分の生き方なのだとベーニャさんは言明する。


では、演出家として、ロシア演劇も他のヨーロッパの演劇も取り扱うわけだが、その決定的な違いとは何かをたずねてみた。

ロシアの演劇は言葉による説明が少ない。その少ない言葉の中から自分がそれを感じ取り、説明し演技しないとならない。その中からは色んなやり方がでてくる。言語外に滲み出させる言語。これがロシア演劇には必要なのだそうである。
それに反して、ヨーロッパの演劇は、作者がその気持ちを最初から最後まで書いている。なぜ〜する。〜なので〜をみる。感じる。などなど、演技で表わすことをすべて言葉で言ってしまうのだ。
ベーニャさんはロシアの戯作に立ち広がる原野の広さを見ているようだ。 ヨーロッパと違った何か。
ロシア的な何かを表現する。もちろん、ヨーロッパの戯作にもロシア的な解釈の中から、新しい表現を切り拓くこともベーニャさんのしたい仕事の一つである。


日本の演劇も日本人であるお母さんの影響で色々見て来たという。
日本人がロシアの演劇やヨーロッパの演劇をすると、とても奇妙な感じがあるという。
日常の立ち居振舞い、ものの感じ方が日本人のものとロシア・ヨーロッパのそれとは違っていて、日本人がそれを舞台でやると、とって付けたような非常に恥ずかしいものになってしまう傾向にあるという。それはロシア人やヨーロッパ人が日本のものや東洋のものをやると、日本人にとっては外国の人の日本の理解はこの程度なのかとがっかりさせられるのと表裏一体と言ってもいい。
と、ベーニャさんは言うのだが、伝統や習慣を越える普遍的な何かがあると、ドゥニャンには思える。例えば、文学の中には言葉の領域を越え遥か中空に漂う、いや大地にしっかりと根づいて何かを私たちにヨーロッパの作品群は語り掛けて来てくれる。

視覚を伴う演劇ではそれは無理なのか・・・。
いや、わたしは違うと思う。
伝統を超えた人間という大きな心の中に鎮まっている何かを芸術家は表わしてくれると思う。それを超えるのは遥かで険しいのかもしれない。
しかし、日本とロシアの血をその中にもつ石島ベーニャさんなら、見つけ出してくれるのではないかと思える若い演出家の話であった。

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