4月21日(水)

以前に、モスクワ駐在員夫人たちのことを書いて、これはちょっと書き過ぎではないか。というご指摘をいただいたことがある。
確かに、同じ日本人である以上、駐在員夫人方ともうまくやっていかなければならないし、困ったことがあったら、お互い助け合っていけるのも確かである。日本人の中にも良識を持ち、自分をしっかり見据えて生きている素晴らしい人も多い。

それに、私にとってはモスクワという地で、日本という共通文化の中で育ったものを共有する時間を持てるというのも大きい。そして上手な日本語を駆使できるのもオツなものである。
しばしの休憩、ストレス解消。
ありがたいことだ。日本語で喋るというのは、外国語で喋っているのと違っていかんなく自分を表わせるという事であるから、思わず、いらない細部まで喋っちゃったりして、サービス精神を発揮してしまう。
ハッスルしてサービス精神を発揮し過ぎて、後で疲れるということも間々ある。



ところで、わたしとても、もうこんなことは出来る事なら書きたくはない。
駐在員婦人方の常識についてである。

昨日、ちょっとした日本人の会食に行って来た。
皆さん、美味しい料理を堪能されて、微笑みながら差し障りのないことをおっしゃっているつもりだったと思う。

ところが、この会食中に、韓国で5年間住んでいたある奥様がいた。
「韓国はいいところですよ。美味しいし、買い物はし放題だし・・・。習い事もいっぱいあるし。」
「韓国に5年もいらしたら、朝鮮語は随分堪能でいらっしゃるのでしょうね。羨ましいワ。」
「いいえ、韓国にいても、全くあちらの言葉は必要じゃありませんの。メイドだって日本語だし。日本語を喋れる人はたくさんいますから。」
「ああ、戦争時代の名残ですね。」
「ええ、昔はあそこは日本のものだったでしょ!!」

わたしの頭の中は、真っ白になった。

「えっー!!」

未だにこんなことを言う日本人がいて、それを間違いだと指摘する人が一人もいないのだ。

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、大韓民国は、断じて!!断じて!!歴史開闢以来、日本のものであったことはない!!

日本が不法に侵入して、人々を痛めつけ苦しめた時代があった。
しかし、その時、かの国の人たちは、労働、時間、富みを日本人から絞り取られた悲しみと苦痛の中で、血を吐くような思いで名誉と尊厳を守るため、心の中でフツフツと民族意識を高めていたのだ。

ああ、なんという浅はかな現代史をわたしたち日本人は持ったものか・・と、自国の歴史に対する反省をとことんしなければならないだろう。
ナチス・ドイツにも負けないほどの暴虐と非情を繰り返して来た事を、よもや忘れてはなるまい。日本人の国民性の中にはいまだにサディズムの血がうごめいているのである。
この事実を知らずして、わたしたちは世界を闊歩できないだろう。

第二次世界大戦期の日本人のように、卑劣で図々しく、欲張りに諸外国人に接しているということをしっかり肝に銘じなければならない。日本人の本質はちっとも変わっていないのだ。


・・・・・。


韓国のお手伝いさんのことをメイドと簡単に呼び捨てにし・・。
いわんやおや、韓国が昔は日本のものであっただとは・・・。


わたしは、これを言った美しく着飾って、さも上品に振る舞っていた女性の品性を疑う。




ロシアの人々に対しても同じようなことを多くの日本人たちはしているのではないか。

ある駐在員夫人であるが、お手伝いさんを頼むのは、週に2日、一回3時間。
お手伝いさんの空いている時間に、別の仕事をしてもらうのは困るという。
そのお手伝いさんが、いつでも自分のために来てもらうためには他の仕事を持ってはいけないというのである。彼女には掛け持ちできそうな仕事の話が二つも舞い込んでいた。

それなのに・・・。

自分専用でないと我慢できないというのだ。病気になった時、来てもらえないと困るからというのが理由である。

お手伝いさんの時間をずっと拘束するのに、払う給料は週に6時間だけ。しかも一時間3ドルの安さである。その上、交通費は他の日本人はお手伝いさんに誰も払っていないので、払う必要はないでしょう。と、けんもほろろだった。

日本で、先進国でこんな常識が通用するのだろうか。

彼女は某東南アジアにいたときもメイドさんを雇っていたという。
質(!)のいいメイドさんだと、裏からお金を出して日本人同士がメイドさんの争奪戦をやるので、是非とも自分一人のメイドにしておきたいのだそうだ。
別の日本人がお手伝いさんを必要としているのであれば、その人のために自分は身を引こうではないか。と、謙虚そうに言っていた。




わたしとしては、こんなことを書かないでいられたら、どんなに素敵な事だろうと思う。
しかし、これは書かずにはいられないことを、彼女たちの中で常識になっているのを見て、胸の中は同じ日本人として、悲しみと寂しさ、怒りを感じてしまう。 お金という力に負けてしまっている日本人。その奴隷となっている事が分からず、お金の力を借りて札びらで人の頬を叩いてしまっている自分が見えなくなっているのがわからない。 本当に育ちのいい人は教養と品性が自ずと現れる。成りあがりというのは、自分の品性を振り捨ててまで自分を飾り立てる事をいうのではないか。
これって、やっぱり日本の縮図なのだろうか。皆が人として結ばれている関係。こんな関係をモスクワの日本社会の中では持てるのは数がすくないのだろうか。

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