2004年10月1日(金)
指揮:アレクサンドル・コプィロフ
演出:ユーリー・グリゴローヴィチ。 プティパ、イヴァノフ、ゴールスキー版の一部を利用
舞台装置:シモン・ヴィルサラッゼ(ヴィルサラッゼ死去にともなう舞台復元はマルガリータ・プロクディナ衣装復元はエレーナ・メルクロヴァ)
照明:ミハイル・ソコロフ
ボリショイのバレエメンバーが層が厚く、一部が3ヶ所くらい外国公演へ抜けてもモスクワで立派な舞台をたもてる陣容を揃えている。
本日はアントニチェヴァ/グダーノフという国際コンクール優勝組が主役。脇にはメドヴェージェフ、ヤツェンコとこれまた国際コンクール上位入賞者やガリャーチェヴァ、カプツォーヴァといったそろそろ中堅にさしかかってきたスター、それに若手ソリストたちという将来のボリショイを占うメンバーである。
ただし主役二人は明暗を分けた。
グダーノフという人は形にこだわるタイプなのか、ボリショイらしい「熱さ」のないしらけた踊り手。ジャンプはあまり高くないので後ろ足は床ぎりぎり、しかも曲がっていることが多くて全く迫力がない。
この力のなさはマザコンという意味では役にぴったりなのかもしれないが、ここまで青白くて荒んでいるとやはり王子としては不適格といわざるをえない。
となると第一幕のもう1つの見所は道化ということになるが、これまた調子が悪いのかキレがない。回転は軸がずれずれ、というか廻りながら位置をかえていく踊り方なのかと思ったし、いつ転ぶかと見ていて気が気でなかった。
王子の女友達二人をはじめ、脇はそれなりの水準をたもっていたけれど、引き締める中心がなく焦点がここまでぼやけいると挽回しようがない。第一幕第一場はオーケストラともどもかなりレヴェルの低い公演ということになった。
というわけで白鳥の登場する第二場はあまり期待しないでいた。が、アントニチェヴァが予想外によかった。というか彼女の踊りは変わったようである。
以前の彼女は悲劇のヒロインという要素を過剰に強調し、それこそ常に泣きそうな表情で「わたし精一杯頑張ってます。どうか助けてください」といわんばかりの演出にこちらはいつもしらけてしまっていた。
だけどこの晩はひとつひとつの動作に詩的な情感がこもっていて、普通の速さなのに、スローモーションを見るかのようにしっとりした動きの軌跡が目に残る踊り方に感銘をうけた。
残念なのはこれが彼女の一人舞台ではないということ。オデッタの踊りが見せ場である時にはグダーノフはサポートに徹していて、それはいい。でも二人の感情のやりとりをバレエで表現する段になるとどうもちぐはぐな印象となってしまう。
ある意味、表現の一貫性ということでいえば以前のアントニチェヴァの踊りの方がグダーノフと合っていただろうし、表面的な「泣ける舞台」を期待する観客にはわかりやすかったかもしれない。
第二幕以降も主役ふたりのこうした関係は変わらなかった。ロートバルトと王子のからみでは、二人は実はとっても仲良しなのではと勘ぐってしまいたくなる「寒さ」。
自分の道を積極的に切り拓こうという意思のない王子がどうしてオディーリアにたぶらかされるのか、バレエからは全然みてとれない。
各国の花嫁は、ガリャーチェヴァのナポリの踊りがひとりつきぬけてうまく、動作は軽やかで熱い。彼女は毎年どんどん垢抜けていくようである。他の花嫁は標準的なきれいさ。
グリゴローヴィチ新版の白鳥を見るのもこれで4回目。唐突に終わるラストにも慣れて、バレエ的にはこれがスタンダードかなと思うようになった。そうした観客の「慣れ」まで計算にいれてつくっているとしたら、さすがグリゴローヴィチ。
だけどだけどやっぱりチャイコフスキーの作った昇華されるような叙情性をもつコーダの音楽を取り入れてもう一度作り直して欲しい。
(2004年10月24日)
2004年のボリショイ劇場へ行く
ボリショイ劇場の部屋へ行く