2000年5月6日(土)
指揮:セミョーン・ブィチコフ
ソリスト:ユーリ・バシュメット(ヴィオラ)
場所:モスクワ音楽院大ホール
一曲目のヴィオラ協奏曲は、ヴィオラのきしんだ音ではじまり、バシュメットの「きれいな」音を楽しみにしていたものとしては、
意外なはじまり。
でもそれは、もちろん意図的な技法で、コルレーニョとか、半音高く調弦した響き。相手がどう出るかのさぐりあいが
ソロとオケとでしばらく続く。
そしてヴィオラのはじめのオクターヴを使った主題が次第に明瞭になってきて、瑞々しい音色にだんだんと変わっていく。
和音は「灰色の現代」を象徴するものと、「静かな麗しき時代」を象徴するものがあり、きいていてうっとりするよな瞬間もあった。
この曲はヴィオラが文句なく主役で、といってもきらびやかに前にでてくるのではなく、物語るという意味でだが、オーケストラは
「時々気づくと鳴っていたか」という意味で、伴奏に徹していた。いや、オーケストラの方が音量的には大きいくらいのことの方が
多いのだが、感情の表現としては、ヴィオラが決定的な役割を果たしている。それがこの曲と演奏の特徴。最後は沈黙。
つぎはリヒャルト・シュトラウス。
船の汽笛を思い起こさせる、チェロのきれいなユニゾンはみごと。
はじめてくるコントラバスのピチカートも、一群が全員、身体全体でぶるんと弦をはじくので、おなかにびびーんと響く。
英雄の主題が続いて、お待たせのホルンになると、急に力が抜けた。
もちろんちゃんと「鳴ってはいる。」けれど、これほど軽い金管も珍しい。
このオーケストラは弦楽群が統一された透明感と弾力感をもち、音色のきれいさでは、世界で何番かを争えるレヴェル。
でも弦と管のアンバランスが激しすぎ。斎藤記念みたい、といっては失礼?いや、弦がうまい、という意味です、もちろん。
シュトラウスの妻を表わすヴァイオリンのソロは、四方恭子。
弦をひっぱるだけあり、音色と技術はとても高いレヴェル。とくに柔らかく歌い上げる場面では、シュトラウスの妻が
ソプラノ歌手であることが自ずと表現されてくる。
あと、力強さとヒステリーな面があれば、完璧だった。
指揮者は聞いたことのないブィチコフ。でもケルン放響が英雄の生涯をやるので、
楽しみにして会場でプログラムをひらくと、「セミョーン・ブィチコフ。パリ管の指揮者をへて、
ケルンへ・・・」と読んだ所で、カラヤンが後継者の一人として指名したこともある
「セミョーン・ビシュコフ」のことだとわかる。
レニングラード(ペテルブルク)出身で75年に亡命(1952年うまれ)してアメリカへ。
97年から、このオケの主席指揮者を勤めている。。
ロシア語ではBychkovと表記し、発音はブィチコフ。
シュトラウスの作品は各楽器群がそれぞれ抜群に鳴るように書かれているので、指揮者の統制がしっかりしてないと、
変な所が強調されないとも限らない。でもブィチコフはぎこちない振り方ながら、オケを十分に把握して、それぞれを自発的に
歌わせながら、全体としてはとてもバランスよい響きをつくっていた。音色も磨かれているので、このまとめかたは、
カラヤンに似ているという印象をもった。
一番はじめの「英雄」の主題がくりかえされるときは、これでもかこれでもか、と
どんどん響きが詰まって来て、実際の音が
デカくなる以上に盛り上がりがひろがってきて、
感服。
五月九日の対ナチス戦勝記念日をまえにしたモスクワ訪問で、アンコールはドイツを強調してもまずいから、ハンガリー舞曲
くらいかと思っていたら、ドヴォルジャクのスラヴ舞曲の第一番と二番。考えた選曲。それでお客さんの気持ちをつかんだあと、
ヴァグナーのローエングリン、第三幕への前奏曲。ここではトロンボーンをはじめとした金管も頑張っていた。
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