2000年4月25日(火)
指揮:パアヴォ・ヤルヴィ
ソリスト:ミハイル・プレトニョフ
場所:モスクワ音楽院大ホール
スピヴァコフに芸術監督&主席指揮者の地位を譲ったこのオーケストラの創設者、プレトニョフをソリストに向かえての演奏会。
今回の指揮者、パアヴォ・ヤルヴィはエストニアのタリン生まれ。1980年にアメリカに移住して、カーティス音楽院を経て、バーンスタインに師事。
途中からはじまる感じのこの曲、オケもピアノもかちっとした出だし。二階三列目中央で聞いたが、はじめのうちはオーケストラの響きがおふろの中にいるかのようにもわーんとこもってから前に音がでてきた。
その上、左右に第一第二ヴァイオリンが分かれて並び、左からコントラバス、チェロヴィオラという高音と低音が混ざるような楽器配置のため、洗練された響きにもかかわらず、楽器ごとの細かい音色の違いがとても聞き取りにくい。「鳴りの悪さ」はシューマンの交響曲なみ。
というかこの曲、四角張っていて、作りの大きさを人工的に誇るソ連的建物をおもわせ、それに加えてプレトニョフがその外面的な形の輪郭を上からなぞるような演奏。
この曲をとりあげるにあたっての彼のメッセージが、「第一楽章の構造的巨大性、第二楽章の抒情性、第三楽章のピアノテクニックを駆使した諧謔味など、それぞれピアノ協奏曲第一番に並ぶものを持つチャイコフスキーのこの名作を、多くの人はわかっていないが、それを今夜はじっくりと味わっていただきたい」というものだとしたら、それはまっすぐに伝わってきた。
でも・・・。
第一、第二楽章についてはそのメッセージが空回りしている、というか裏目にでていたのでは。プレトニョフは響きのみを誇るピアニストではなく、ピアノを通じて心を歌い上げるので、自然とチャイコフスキーのメッセージが表現されてくる。が、そこが問題となる。
プレトニョフはこの曲をもちあげるのに反して、チャイコフスキーはこの曲を書くことに精神的な苦しみを感じていたのでは、と思えてくる。音楽的に優れた曲になるはずが、外面的なテーマに拘束されて筆が変なほうに流れ、筆のおもむくままに書き上げてみると、音楽学校の卒業作品みたいなものができてしまった、と。
もちろん、音色は麗しく研ぎ澄まされていて、琥珀色の品よく甘い香が漂ってくるのは、ハンガリーのトカイワインを思い起こさせ、響きを味わう分にはこのうえない贅沢なひとときであった。こういう聞き方はプレトニョフの本意ではないにせよ。
聞きごたえのあったのは第三楽章。プレトニョフは硬質の音色を保ちながら、とても速いパッセージを均等に、メロディーの流れを損なわずに最初から最後まで緊張感をもって演奏しきった。曲自体も、第一番の流れをくむようなもので、オーケストラとのやりとりのスリリングなこと。
演奏される機会の少ないこの曲をプレトニョフ&ナショナル・オケで聞けたのは、もちろん幸せな機会でした。
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