まゆで栄えたわが郷土富士見村は昔から養蚕が盛んであった。まゆの生産高が、一つの村としては日本一のときもあった。養蚕農家の赤城型民家も、たくさん建てられていた。 | 実る文化の公民館村では昭和54年度事業として現在の中央公民館を建設した。総工費は4億9千万円で、昭和55年7月に開館し、社会教育関係団体をはじめとする各種学級、講座、会合等幅広く利用されている。 |
||
村人結ぶ有線放送現在は情報化の時代に入り一時も早く情報を知らなければならないようになった。昭和41年8月役場と農協が一体になって村内全域に有線放送を開始した。 | 明治の老農船津翁(おう)原之郷の人、船津伝次平は若くから名主をつとめ、赤城山の植林等に貢献した。農事改良に熱心なのを認められ、駒場農学校教師、農商務省巡回教師となり、全国を回って農事改良に努め、明治の三老農の一人といわれた。明治31年66歳で没した。 |
||
森にかこまれ環境センターし尿は肥料として田畑にほどこされたものであったが、その習慣がすたれ、し尿の処理が社会問題となった。そこで処理施設の建設が要求される時代に対応し、村では石井字新大所に、昭和54年、近代的処理場を開設し、村の要望に応えている。 | 山の伝説小沼の主赤城の小沼には、赤堀道玄の娘が投身して大蛇となり、沼の主になったという伝説が伝わっている。その伝説から16歳の娘は赤城山へ登るなといわれていた。 |
||
郵便配達富士見局小暮郵便局は明治15年にはじめられ、富士見村はその集配区域である。昭和33年富士見局と改名した。昔は電話の交換も行っていた。 | 横室歌舞伎と小沢の花火横室の歌舞伎は、宝暦2年にはじめたもので、約200年の伝統があり、衣裳倉に保存されている衣裳は、江戸時代に作られたもので、立派な芸能文化財である。小沢の花火は寛政9年に始められ、明治30年代まで時々催されたが、今は行われていない。 |