▼Deadend act.5

「興味深いね、これがリリンの習性かい?」

 突如、加持は現実に引き戻されていた。
 静かに波打つ芦ノ湖の湖水。
 その浜辺に、膝まで水に浸かって立ち尽くしている。
 そして目の前に浮かぶ、銀髪の少年。

 今見た明晰夢のような白昼夢は、この少年のカタチをした何者かが加持の脳から引き摺り出したイメージだったのだろうか?

「シンジ君のDNAを届けてくれたのも、君だったんだね」

 加持の顔からは、表情が消えていた。
 その目は何も映しておらず、もはや思考をする能力すらも、その大半を失ったように見えた。

「思ったよりも繊細なんだな、リリンの身体……そして精神は。やはり、被験者が要る」

 そう言うと、少年は水面を歩いて加持が立ち尽くす波打ち際に近づく。

「僕はカヲル。渚カヲル……けど、そんな名前に意味は無い」
「十七番目の使徒……か?」
「そう。そして、君が追い求めていた、謎だ」

 考えて行動したならば、思考を読み取るカヲルの機先を制する事は不可能だっただろう。
 訓練された身体が、思うより速く動いていた。
 ズボンの後ろのベルトに差していたチーフスペシャル。
 引き抜いて前に振り出すと同時に、装填されていた四発全てを撃ち尽くす。

 ――弾丸は、虚空に浮いたまま、止まった――。

「無駄だよ」

 カヲルの呟きと共に、弾は真下に落ちて、水面に沈む。
 加持の手がチーフスペシャルを握り代え、カヲルの顔面目掛けて投げつける。
 それも弾かれたように空中で軌道を変え、カヲルの頭上を通り越した。
 小さな水音を上げて、湖に沈む銃。
 抗う術が無くなった。
 それでも、背を向けて逃げ出そうとは思わなかった。

 加持の手が拳を握る。
 水面に立つカヲルに向かって歩を進める。
 一足ごとに水深が深まり、湖底の砂に足を取られる。
 ようやく手を伸ばせば触れられる距離まで近付いて、拳を振るった。

「もう逃げやしないさ」

 その虚ろな瞳に映っているのは、カヲルでは無い。
 無残に撃ち殺された、かつての仲間たち。その骸。
 血塗れて冷たくなった友の身体を、加持はその場に残して逃げ出した。

「くそっ」

 握った拳も中空で弾かれた。
 虚空に浮かぶオレンジの光。
 絶対的な境界面の存在を肌で感じる。
 それでも加持は、拳を振るう事を止めない。
 あの日あの時あの場所に、立ち戻ることが出来たなら……。
 弾を撃ち尽くしても、殺されると分かっていても、拳を握る事が出来たなら。
 せめてこの手で、仲間たちの遺体を葬る事が出来たなら。
 弱かった己を悔やみ続けて今日まで死に場所を探して来た。

 人類を脅かす圧倒的な脅威。
 通常兵器で殲滅する事が不可能な単体兵器。
 EVAでしか立ち向かう事が出来ない存在、使徒。

「生と死は等価値なんだよ」

 それに素手で立ち向かい、殺される。

「上等だ」

 カヲルと加持を隔てていた光が消え、死神が微笑んだ。

「君は死ぬ……これは運命だ」




 意識が途切れたとは感じなかった。
 だが加持は延々と続く、緩やかに揺れる水面の上に浮いていた。
 手足の傷は癒えており、何も身に付けていない。
 鈍く混濁しがちだった意識も、今はハッキリしている。
 足元の水は透明にも見えるが、奥底を覗き見ればそれは、血のように紅かった。
 見上げれば、吸い込まれるような漆黒の空。
 輝く満月の周りに、瞬かない星空が広がる。

 広い宙に、太陽の姿は何処にも無い。
 けれど自分の身体も、周りの水面も、昼間のように見てとることが出来た。
 紅い水の向こうに目を凝らすと、遥か遠くに地球があった。
 青い海と白い雲。
 写真でしか見た事が無いそれが、赤い水面の向こうに有る。

 加持は自分が死んだと解釈した。
 あの一瞬に、苦しまずに全てが終わったのなら、それはむしろ僥倖だろう。

「何か、釈然としないな。三途の河ってのはどこだい?」

 遥か遠くに水平線は見えるが、どこか違和感を感じる。
 遠すぎる……そして、丸みが無い。

「無限の平面? ならば確かに、地獄だな」

 左右を見渡しても、前後を振り返っても、何も無い。
 ただ自分の身体を支える水面があり、それが何処までも永遠に続いている。そんな景色だった。

 加持はふと、頭上に気配を感じた。
 見上げれば、輝く月をバックに浮かぶシルエット。

「お前は……」

 自ら使徒と名乗った異形の少年が、何も無い中空に浮かんで、加持を見下ろしていた。


 散々鞭打たれ殴られた挙句、後ろ手に縛られて、上半身裸のままひどく冷たい独居房に放り込まれた。
 このまま死ぬ。
 加持はそう、覚悟を決めた。
 手足は先から悴み、コンクリの床に付けている肌からどんどん体温が奪われていく。
 けれど、熱く痛む無数の傷口が、いつまでも熱をもって、なかなか意識を失う事が出来なかった。

 運命を受け入れる心の準備が出来たと思った頃、独房の鉄格子が開いた。
 顔面に向けられる、鋭く強いマグライトの明り。
 廊下からかすかに漏れる光に見える輪郭は、地面に倒れて見上げて居る事を差し引いても、デカイ。
 その人影は無言のまま、房に備え付けられたベッドからシーツと毛布を引き剥がすと、加持に掛けた。
 その温かさに、自分の身体がやっと凍死寸前まで冷えていた事に気が付く。
 それは選び取った運命だった。
 凍える独房だが、後ろ手に縛られては居ても、足すら動かせなくても、這い上がり、ベッドに倒れこむぐらいの事は出来る。
 それを敢えてしなかったのは、繰り返される拷問に耐えかねて、眠るように凍死出来ればどれほど幸せだろうかと思ったからだ。

 幼い捕虜の悲壮な決意など、向こうはお見通しだったようだ。
 冷えてこわばった手足が動かせなくなった頃を見計らって、こうして毛布を掛けに来たのがその証拠だろう。

「さっさと…殺せ……」

 ガラスを咥えた状態で散々頬を張られ、切られた口の中が腫れ上がって、それは掠れ声にしかならなかった。
 けれど、全く無音の狭い房内では、聞こえない筈も無い。
 そのまま立ち去ろうとするところだった人影が、不意に足を止めた。
 後ろ手にゆっくりと房の格子を閉めて、再びこちらに近付いて来る。
 蹴り殺される……巨大なジャングルブーツの爪先が視界に入り、加持は身体を丸めた。
 けれど、怖れていた打撃は降って来なかった。
 そのかわり、ごつくて硬い、分厚い掌が、加持のボロ切れのようになったズボンの切れ端を弄り、ベルトを下ろし始める。

「何しやがる……」

 再び、声にならない声を聞く。
 戦場に等しい今の世の中、軍隊から盗みを働いた少年が一人どんな理由で死のうが殺されようが、誰も気にはしない。
 口を割らない強情な捕虜が独居房で凍え死んだとして、誰が不審に思うだろうか?
 無言の兵士の巨大な体躯から、獣のような汗の匂いが漂ってきた。
 荒い息。何かを擦るような音。
 じきに察しが付いた。
 自分のモノをしごいて温めてやがる。
 どんな拷問にも口を割らなかった加持が、初めて悲鳴を上げた。
 身体を引き裂かれる痛み。

「がああああっ」

 獣のように唸り声を上げる口に、汚い毛布の端切れが詰め込まれ、今取り上げられたベルトを巻かれる。
 細い身体に、余りに巨大なモノが捻じ込まれて行く。
 慣らす事も濡らす事も無く捻じ込まれたそれが、じきに抵抗無く動き始める。
 切れた所から流れた血が潤滑油となり、それ以上に苦しむ事が無かったのを、果たして幸いと言えるだろうか?


 次の日の夜は、相手は一人では無かった。
 相変わらず拷問には口を割らない加持を蹂躙する、無言の人影は数を増した。
 輪姦され、気を失い、水をかけられ、叩き起こされる。
 朝になるまでに死ぬ事が出来れば他に何も要らないと、生まれて初めて神に願うような夜だった。




「そうして三日目には口を割った。これが君が、人生を恨んでいる理由かい?」

 再び空に、星が見えた。

「そうやって、ヒトのココロを盗むのか……趣味の悪い奴だ」

 それは声にはならなかった。
 けれど、声を発しようとした思念は、カヲルに伝わっている。

「僕は知らない。何故ヒトが、そうやって肌を合わせる事に特別な理由を感じるのか」
「知らないままの方が良かったんじゃないのかね?」
「使徒を、憐れむのかい? 不思議だな、リリンのココロは」
「貴様等は所詮、一種一体の完全な『個体生命』だ。ヒトの持つ強さは、不完全さを補う多様性だ」

 まさか、自分が言葉の通じる『意識』を持った使徒と対峙する事になるとは、夢にも思っていなかった。
 加持の脳裏から、長年追い続けた謎が、その答えを捜し求めて彷徨った結果が、自然と流れ出していく。

「……SEELEはそうは言っていない。ヒトも同じように、完全な生命へと進化する必要がある……その為に、僕が生まれた」
「はっ、使徒は何時からSEELEの使い走りまでするようになった? SEELEも所詮人間だ。奴らの計画も雑多な人間の頭が生み出した不完全な妄想の一つに過ぎん」
「それが君が辿り着いた『結論』なのかい?」
「どうかな……まだ分からん。けれどこれだけは言える。使徒がヒトに取って変わる事は無い。どんな姿になろうとヒトはヒトで有り続けようとする」
「何故?」
「それがヒトだからさ」
「循環論法か……詰まらないね」

 カヲルが一歩近付いて、加持を真上から見下ろす。
 手も、足も、動かす事が出来なかった。
 動いているのは思考と、視線だけ。

「解けない謎が有ったって良い……全てに解答を求めようとするのは間違いだ」
「じゃあ、君の人生は何だったんだい?」
「何でもない……ただ生まれ、ただ死ぬ。そこに理由が必要だと何故思う」
「君を消すのも、僕の任務の一つだからさ」
「お前が人間にとって替わったら、世の中は果てしなく詰まらなくなりそうだ」
「じゃあ、僕は何のために生まれたんだい?」
「知るか、自分で探せ」

 カヲルの髪が揺れた。
 加持に覆い被さるように、横たわった身体の傍らで膝を付く。

「もう、時間が無い……運命の時は近い」
「ヒト一人を消すなんざ造作も無いだろう? さっさとしろよ」
「生きる事を願いながら、何故死ぬ事を望むんだい?」
「十分生きた、やるだけやった。それが理由だ」
「そうか……やはり、僕には分からないよ」

 カヲルの手が再び、あの光を宿す。
 オレンジに輝く絶対的な境界面。

「首でも跳ねるか。ATフィールドの面白い使い方だ」
「いや、これは違う」

 加持の額にカヲルの光る手が触れる。
 二人の肌の境界が、揺れて歪み、消えた。

「何を……」
「逆の使い方も出来る……僕は、使徒だから」

 触れ合う身体が溶けて行く。
 カヲルは加持の上に跨った。
 加持からカヲルが生えているのか、カヲルから加持が生えているのか、二人の境目はやはり、見えなくなる。

「何をする気だ」
「君の身体は消えて無くなる……芦ノ湖の湖水に混じり、君の生きていた痕跡も、残らない」
「後の心配までしてもらえるなら上等だな」

 カタチを失っていく加持の目に、あの日の仲間達の姿が見えた。血に塗れたコンクリートに横たわる、少年たち。
 一人一人が、加持だったかもしれない、仲間たち。

「何故その場面ばかり思い返す?」
「後悔さ……貴様には、縁が無いだろうが」
「悔やんで悔やんで、今日まで生きてきた」
「そうだ」
「なら、その想いだけは、残そう」
「何処に?」
「僕の、中に」
「死んでまで悔やみ続けろと?」
「それが願いなんじゃないのかい?」
「願い?……」
「違うなら、何を残すんだい。後悔がヒトのココロのサンプルで無いなら、何を残す?」
「……好きにしやがれ……」

 加持が思い浮かべたのは、陵辱された夜でもなく、逃げ出した朝でもなく、幾度と無く繰り返した絡み合いの光景でも無い。

 シンジが加持の背に手を伸ばしてきた、あの場面。
 背中になら触れられるという、臆病な少年の面影だった。

「それが……?」
「思い残す事は無いさ」

 加持の身体が輪郭を失い、弾けるように溶けた。
 後に残ったオレンジの水溜りを、芦ノ湖の湖水が洗い流す。
 加持リョウジが生きた証は、何処にも残らなかった。


 風が吹き、水面に細波が広がる。

「碇シンジ君か……」

 カヲルの呟きを聞いた者は、いない。



<終 劇>

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制作・著作 「よごれに」けんけんZ

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