何でもしてやろう「テキサス無宿」= 不忘

不忘と言うと、丹下左膳を思い出すが、その林 不忘が鎌倉の小袋坂の新居で、死去したのは昭和10年(1935年)6月29日の事である。享年35才。文壇に彗星の如くデビユ−して、10年であり、まだまだ活躍できるのに惜しまれる夭折であった。戦時中はともかく戦後の中間小説時代に、もし林 不忘が生きていたら、どんなに活躍したか分からない。

「丹下左膳」は「鞍馬天狗」と共に戦前の二大ヒ−ロ−であった。映画化され、その無類の面白さで観客を夢中にさせた。大河内伝次郎と嵐 寛十郎はその役で人気不動のものにした。伊藤大輔との名コンビで生まれた「 丹下左膳」だが監督や原作者はそのころ役者程には一般に知られなかった。次のエピソ−ドは象徴的である。

不忘の家に出入りしていた植木屋がある時、林 不忘の未亡人に「先日、孫にせがまれて、丹下左膳を見て来ましたが、面白いのなんの。奥さん、たまには気晴らしに丹下左膳でも、ご覧になっては如何ですか。」と言った。この植木屋は長谷川海太郎が林 不忘であることなど全く知らない。

不忘は本名 長谷川海太郎である。墓は鎌倉妙本寺の本堂の正面向かって右手にあるが、墓石に長谷川海太郎と刻されているので、その前を観光客が通っても足を止めるものとてない。林 不忘には、「めりけんじゃっぷ」ものを書く時の谷 穣二、通俗小説や海外スリラ−小説では、牧 逸馬のペンネ−ムがある。

超売れっ子になった林 不忘は、外車を乗り回すといった羽振りの良さを見せつけて周囲を羨望させた。戦後 だいぶ経っても普通の作家には電話が架設されていなかった。船橋聖一など2、3の流行作家の自宅にしかなかった位であるから、昭和の初期に外車は高嶺の花であったであろう。だが、モ−タリゼイションのアメリカ生活を体験してきた林 不忘にして見れば、特別の事とも思わなかったに違いない。

不忘は明治33年(1900年)に新潟県 佐渡郡に生まれているが、父親が「函館新聞」の主筆に迎えられたので、子供の時函館に移住。函館中学時代のストライキの首謀者とみなされ放校される。父親は特に責めなかったそうだ。この時代にはよく中学生や高校生(旧制この時代)が、教師や校長の教育方針に不満や反対から、ストライキを扇動して学校を放逐される例がよくある。だが後日、大きな仕事をしている人物も少なくない。林 不忘は作文が上手で、英語が抜群にできたと言う。

その後上京して単身渡米を計る。大正7年のことである。

渡米後、オハイオ ノ−ザン大学に席を置き、皿洗いやコックをしながら、アメリカの各地を放浪しさまざまな体験をし、その実態を具に観察 する。偉躯堂々たる彼がスラングで流暢に英語を話していると、日本人であると誰も気が付かなかったという。ある時喧嘩の仲裁に入った時、「若けえの、おまえさん、どこの州から来た?」と聞かれたこともあった。

大正13年に帰国後、英文学者 松本 泰夫妻の研究会に入り、その関係で「探偵文芸」に執筆、「新青年」編集長の森下雨村の知遇を得て、谷 穣二の筆名で「めりけんじゃっぷ」ものを同誌に発表。「テキサス無宿」は当時のアメリカ資本主義社会を冷静に見つめ、繁栄の陰を凝視した作品で今となっては貴重である。

不忘の筆名で「釘打藤吉捕物覚書」を手始めに時代ものを書き始める。又中央公論の特派員として、ヨ−ロッパ旅行をしレポ−トを書き、毎日新聞の専属として大衆小説を牧 逸馬のペンネ−ムで執筆する。その間に書かれたのが「丹下左膳」である。婦人雑誌などにも多く書き主婦層にも人気が出て、流行作家となった。昭和4年には中央公論に「世界怪奇実話」を発表して、ドキュメンタリ−の分野を手がける。

こう見てくると、「鞍馬天狗」の大仏次郎と共通するところがある。時代小説から出発した大仏次郎も中間小説や晩年の記録文学を残したが、大仏次郎のように文壇活動が長くなかったために、今では大仏次郎のような純文学、中間小説、記録文学愛好者の読者は持っていない。それに林 不忘が体験と才能で作品を書いたのに反して、大仏次郎な学殖、読書と文才で書いた違いがある。

俳句、短歌の場合は夭折しても、作品は後世に残るが小説の場合は勿論若さ故にのみ書ける作品はあるが、ある年齢を重ねた上でないと、完成度が低いようだ。それだけに 不忘は早熟であったが、寿命に恵まれなかったのが不運である。

戦後、アメリカを紹介する記事や本が氾濫した時期があったが、豊かなアメリカ讃美一辺倒で、物資の欠乏していた日本人の留学生には、ただただ眩しい物質文明に幻惑されて、平衡感覚を持って、アメリカ社会を正視することが難しかった。又占領中は林 不忘の「めりけんじゃっぷ」のようなアメリカ文明の批判的内容の本は、再版したら検閲にひっかかったかも知れない。アメリカがパラダイスであることがアメリカを見ぬ一般大衆の渇望を癒す書物なのであった。昭和初期にアメリカの事に注目し、関心を寄せていた読者は、いまと比較して比べものにならない程すくなかったであろう。

戦後、小田 実が昭和36年に「何でも見てやろう」と言う型破りの留学体験記を出して、読書界に衝撃を与えたことがある。1日1ドルの生活費でアメリカ、カナダ、メキシコの庶民の生活をありのまま報告したことで、それまでのアメリカ観を一変した書物である。林 不忘の「めりけんじゃっぷ」はそれより四半世紀前のことである。

不忘には 画家 やロシア文学者の弟があり、長谷川四郎は弟であるが、長兄の不忘とは反対に地味ではあるが、重厚でユニ−クな作品を書いている。