敗戦時の美しい心の窓=鎌倉文庫始末記

鎌倉の長谷寺の境内に、久米正雄のブロンズの胸像がある。久米正雄と言うと、若き頃は芥川竜之介と並称されたものであるが、晩年は鎌倉ペンクラブの会長として、鎌倉文士の世話役として活躍した。その最たるものが、昭和20年の4月に始まった鎌倉在住の文士による貸し本屋開業である。 久米正雄、川端康成を発案者として、高見 順、中山義秀らが協力して発足した。

貸本屋を考えたそもそもの理由は、太平洋戦争も末期になった頃になると、出版事情が悪化し、印税はあてにならず、原稿料も入らなくなった。収入の道を考えなければならないことから、貸本屋稼業を始めたのである。各人が手持ちの本を持ちよって、それを市民に貸し出し、貸し出し料を皆で分配するといった正に文士の商法である。元来文士と言う者は、実践となると皆目ダメで壊す事の名人ばかりが多い中に、果たして経験したこともない律義な商売が果たして出来るだろうか、という危惧があった。だがふたを開けてみると、案に相違してマメに事務的にこなし、本に飢えていた事もあって、予想以上の盛況ぶりであった。

八幡通りにあった鈴木玩具店を借りた店は、間口二間半、奥行き二間半の土間、家賃は90円。家賃の交渉は川端夫人。5月1日の開店までに1週間しかなく、本を運び込むのに大童、高見 順は自分の供出本を乳母車に満載し、夫人に後押しさせて運搬してきた。久米正雄は本の供出にあたって、つぎのように語っている。[いざ出すとなると、惜しいものが多かった。贈られた思い出が添うもの、参考になったもの、、、、殊に著者の署名が、美しいものなどは、愛着と共に、贈られた人に済まない気が先だった。それあればこそ、こうして堆くなるまで所有し続けた本ではないか。、、、、全著作生涯の間に貰った本ばかりでも2、3千冊はあったろうか。それを書斎から玄関まで持ち出してみると、多少の感慨があった。]

貸し出しには会員制と非会員制に分かれていて、当時は鎌倉文士たちが専門分野に応じた講演会を開いたりしていた。保証金と貸本料については、保証金は一冊ごとに本の価値によって3円、5円、7円、10円、15円、20円特別の7段階に分け、保証金の額によって1日の貸本料を決めて、さらにその本の供出者の名前も一冊ごとにはっきりさせたカ−ドを作った。本の評価は統一をとるために高見順が行ない、カ−ド一冊ごとにはりつける作業には、文庫の同人やその夫人たちがあたった。この作業も1000冊ともなると容易な事でなかった。

開店まもなく、製紙会社からの資金提供があり、「鎌倉文庫」が発足、日本橋の白木屋(現在の東急百貨店)に貸本店を出店、出版も手がけるようになった。雑誌「人間」が創刊されたのは昭和20年12月である。まだ大手の出版社が再出発する以前のことであり、文学史的にも優れた作品が掲載された。単行本も陸続と出版され、茅場町に独立社屋を建設するまでになった。昭和22年4月のことであるが、この頃を頂点に経営が悪化し、昭和24年に事業を終えることになった。

鎌倉文庫」は、戦争のために米塩の資を閉ざされた文士達が、生きるために、知恵を絞って編み出した「作品」である。作風も性格も違う言わば一国一城の主が、夫人達までも駆出して、協力し合った。家族ぐるみの交際はその後の鎌倉文士に連帯感を生み、文壇の一角を形成するに至った。だが今ではその「鎌倉文庫」当時の文士はすべて鬼籍に入っていて、鎌倉文士と言う言葉も聞かれることがなくなった。

1954年には貸本屋の数は全国で15000軒、東京だけで、1500軒あったという。かっては新刊屋の2倍もあった貸本屋もいまではマンガ本の貸本屋が存在するだけで、ほとんど、その姿を消した。

昨年鎌倉中央図書館で、閲覧の少ない数千冊の本を無料で、市民に提供した。こうした本のリサイクル運動はこの2、3年各地の図書館で、年々増え続ける図書の始末のために行われていて、好評である。

かっての鎌倉文士がこうした風潮を見聞したら、うたた隔世の感にうたれるであろう。川端康成は言う。「私共と読者との間には親しい心が潤い通っていた。私は毎日店番に通って、帳面をつけ、書物の出し入れをし、貸本料の計算をし、十分楽しかったのである。文学の読者と直接に会って得るところも少なくなかった。小さい店がよく複数の作家の制作に代る仕事をし、複数の出版社に代る仕事を果たしたと言えるだろう。」