栄華の夢いずこ=魯山人旧居跡

 最近所用でその近くまで行ったついでに、久し振りに鎌倉山崎にある北大路魯山人の旧居跡を訪れた。大船と北鎌倉の中間地点を5、6丁西南の山懐にあるが、ちょっとわかりにくい場所である。山崎小学校を目標にしていくと分かりやすい。

 ランドマ−クとも言うべき茅葺き家屋が姿を消していた。不審に思って広大な敷地の周辺を歩いていた時に、犬を連れて散歩していた老人がいたので、聞いてみたら、一昨年の夏に焼失したと意外な返事が帰ってきた。

 そして魯山人の生前には周囲は人家がなく、その老人の家と近所付き合いをしていて、よく遊びに出入りしていたと言う。それで、魯山人の性癖の一端を話してくれた。一日の中で機嫌の良い時とそうでない時が極端であったことが今も印象に残っているそうだ。

 ガソリンを全身に浴びて自殺した管理人とも知り合いであったので、その動機の推測を語ってくれた。

 後日神奈川新聞のバックナンバ−を調べてみると、1998年8月4日に第一報が報じられていたが、最初は身元が判明しなかったが、5日、7日と日を追うごとに、遺体の身元が確認されたことが書かれていた。2棟200平方メ−トルが焼失と小さく掲載されていた。動機は違うが、歴史的建築物と共に自らを消滅する例は法隆寺、谷中の五重の塔が直ぐ思い出されるが、今回も由緒ある建築物だけに惜しまれる。

 かってこの周辺の山には樹齢200年にも達する赤松が数百本あった。魯山人はこれを伐採して薪に貯えて窯の燃料にした。ひと窯焼ける毎にその所有者と松材の代価の一割を作品で払うと言う契約をしたのであるが、途中で齟齬が生じて、不仲になってしまった。

 魯山人を評して「富士山見たいなもので遠見では素晴らしくても、近くで、見ると複雑な人間である」と生前親しかった人の弁。

 魯山人は大正14年夏から秋にかけて、6000坪のこの場所に窯を築いた。通称「星岡窯」といわれるものである。山裾の岩石を切り拓いた切り通しによって、村道につなげられた山懐である。この切り通しのことを魯山人は「臥龍きょう」と命名した。その前の菜の花畑をへだて、「星岡窯」一帯の眺めは別天地の興趣があった。一本の桜の幹から派生して数本の桜のように見えて、四月になると爛漫と咲き誇り、観る者をして陶然とさせた。

 囲繞された山と田畑の地形の妙を生かし、自然と人工の調和からこの秀抜な環境に、魯山人は小山の頂きに詠帰亭のあずまや、窯屋、職人住宅、魯山人の安息所夢境庵、第一、二参考館、来賓用慶雲閣、富士見亭、工場を建設した。

 勿論最初は荒涼たる山里であったのを一棟一棟増やしていったものである。一応完成をみるのに15、6年を要した。

 イサムノグチと山口淑子が昭和24年に、手斧削りの田舎屋で新世帯を持った。そこでアトリエを造り、陶土で形造った作品を魯山人の窯で焼いて貰った。この二人は、気難し屋の魯山人に気に入られて、魯山人の友人はほとんどケンカ別れするのが常なのに最期まで親しい関係が続いた。一つにはイサムノグチの芸術的才能を買っていたこともその一因であろうが、イサムノグチの不幸な出生とも無縁ではなかろう。

 昭和26年には鎌倉在住の文士を招待して、盛大の招宴の会を催した。当時はまだ食料難で何でも自由に口にすることは出来なかった時代である。東京から一流のすし屋や天ぷら屋が出張し、魯山人の造った小鉢や皿で山菜の佃煮が盛られて豪勢な宴であった。食いしん坊の小島政次郎は、おしるこを4杯もお代わりしたという健啖振りであった。

 魯山人は明治16年に京都の社家に生を享けた。生まれ落ちる前に父親は自害していて、幼児の時に里子にだされ、親の味を知らずに成長した。魯山人の味覚は養父母を喜ばせるために、触発されたと言ってよい。いわば生活の知恵に根差しているのである。晩年、魯山人は一度も母親の乳を吸うことなく、他人の家を転々とし、惨澹たるものであったと親しい人に語った。そしてそうした昔話をする時には両岸から涙が頬を伝わっていたと言う。

 魯山人に出会った人は皆一様に、倣岸不遜で我侭で、奇人であったことを認める。従って周囲の人は有形無形の迷惑を蒙った。これは青少年期の悲惨な体験と性格的なものから来るものであろう。又一家をなしてからは朝晩下着を取り替えなくてはすまなかったことは、子供の時虱で夜も寝られないと言う過酷な体験をしたことの裏返しでもある。

 魯山人は最初書家として生計をたてようとした。と言うのも先天的に能筆の才に恵まれていたこともあって、小学生の時から、街の展覧会に出品しては、入賞し賞金をせしめていた。

 人間的には一般社会の常識のワクから逸脱して、社会的な名誉や財産家とも広く交際があったが、長続きしなかった。このことは妻を含めて女性や男性一般にも言えることであった。だが、書、絵画、作陶、料理、てん刻、造園と何れも名品を残したことで異論を唱えるものはいない。

 昭和34年に魯山人は孤独の中に、76年の波乱に富んだ人生を終えた。文字通り裸一貫で、孤独のうちに人生を歩み出した魯山人である。だが、死を目前にしてこれまでに思う存分、生き、作品を残し、自作の名品に囲まれての境涯に悔いはなかったであろう。魯山人の人となりは、時が経つにつれて風化してしまい、残るのはその作品だけである。その作品が後世の人々に愛され、鑑賞されれば、芸術家として本望であろう。

 魯山人亡き後、晩年の付き合いのあった野村証券の北裏喜一郎が、人を介して魯山人の旧居の引継ぎを依頼された。窯は「其中窯」として河村喜太郎が引き継いだ。そして今はその子息がその後をやっている。

 邸内にあった慶雲閣は桃山期の豪族の住居と見られる書院造りであるが、神奈川県の在から移築したものであり、徳川家康も宿泊した由緒ある建物であるが、その後又地方に移築された。この「星岡窯」を訪れた人々のなかには、皇族から各界の名士、その多彩なことと数は夥しい。しかし今となっては、ここを訪れる人もいない。いわれのある建物は姿を消してしまって、睡蓮の池に遊ぶアヒルも絶えていず、短冊型の庭石が雑草の間に敷き詰められてあるのが、往時の栄華の片鱗を覗かせているに過ぎない。

 かって桜の満開の時期にここを訪れた人々の嘆賞の的になった桜も伐採され、その切り株もコンクリ−トで埋められてしまいその切り株すら留めない。この老人にその桜の大樹が植わっていた場所を教えられなければ、まったく判らない。因縁めくが、この名木を伐採した人はほどなく死亡したと言う。田圃は埋め立てられ、グランドになり、子供達の遊び場になっていてその日は元気な子供達の喚声が、こだまするばかりであった。魯山人旧居跡は、現在は野村不動産が管理しているという。