明治、大正、昭和と三代に亙り、一つの雑誌に深くかかわって来た人は珍しい。喜安進太郎がその人である。最も長く続いている英語英文学の雑誌「英語青年」の前半は主宰者であり、後半は寄稿家であった。その寄稿家として喜安進太郎は、その誌上に「鵠沼通信」を載せ毎月英文関係の消息を報じていた。氏が亡くなる一年位前に、初めて読んで印象深かったので記憶にあるのであるが、昭和30年になくなっておられるから40年余りになる。鵠沼は片瀬海岸に隣接した海岸に面した住宅街である。

「英語青年」は武信由太郎から版権を譲り受けて、発行したのが明治38年、昭和19年の出版企業整備で研究社の「英語研究」と統合されるまで、実質の発行者であり編集者であった。この時にあたり喜安進太郎は言う。「私は「英語青年」を一生の事業と思い、私一人で社長となり、編集員となり、校正係りとなり、事務員となり、会計係りとなり、発送かかりとなり、小使いとなりまして、39年間我武者羅に働き続けて今日にいたりました。」と辞任の弁を述べているが、その無念さは察して余りある。ただ救いは研究社の創業者小酒井五一郎とは、研究社設立当時からのじっこんの間柄であった事が、せめてもの慰めであろう。

この間は日本の英語英文学の勃興期であり、戦前の隆盛期でもあった。戦後の英文学界の大家が輩出する胚胎期でもあった。この雑誌に研究論文が掲載されることが、研究者のひとつの目標でもあった。その中で唯ひとりあげるとすれば、福原麟太郎であろう。折りに触れ彼は喜安進太郎について語り、自分にとって人生の先生であり、学問の先生であったと賞揚してやまない。福原は喜安進太郎の膝下で「英語青年」の編集に携わり、雑誌の作り方、人間の生き方を目の当たりにして学んだようである。編集に不慣れな福原のミスにも、慈父の様な態度で接しる指導に、福原はどれほど救われた事であろう。それに甘んじることなく、精進を重ねて優れた英文学者、エッセイ-スト福原麟太郎がうまれたのである。名師出高徒の喩え通りである。良質の人間がこの世に遭遇した仕合わせな好例といって良いと思われる。

その後喜安進太郎は河口湖に疎開した。この周辺には時局がら、文学関係の人士が戦火を逃れていて互いに交流があった。

戦後の昭和21年5月号から「湖畔通信」が始まった。そして箱根から下山し、昭和24年の2月に鵠沼に移転した。5月号からは「鵠沼通信」として昭和312月号まで連載した。3012月に死去されたので死の直前までペンを握っていたことになる。この通信は一種の点鬼簿であり、交友録あり、回想記であり、英語、英文学の書物の紹介である。ここに登場する膨大な数の英語関係の人々はまさに日本の英文学会を形成した面々であって、そうした人物の個性、エピソ−ド、研究成果を丹念に思い起こして毎月報じたのである。

古い話を一つ挙げると、漱石が学生服で、一時早稲田の教壇に立っていた時の話や正宗白鳥が雑誌に誤訳を指摘されたが、年端が行かないのだからと居直ったら、逍遥がそうだその気構えだ、と援護射撃をしてくれた話だとか、今となっては面白い話や佳話が毎回書かれていて興味尽きない。その意味では伊藤 整の「日本文壇史」と期を一にしていると言ってもよい。単なる作品の紹介羅列の英文学史でなく良い意味での面白いものを編むとするなら、この喜安進太郎のこの二つの通信は欠かせない。

編集者が直接、執筆者に原稿を依頼することは、今やなくなり電話ですませたり、フアックスやE−メ−ルでやり取りする時代になった。さすれば喜安進太郎のように、直に会う事もないので、書き手の素顔も永遠にわからない。挿話も生まれない。聞かれないと言う事になる。文学は人間臭いものであるからそうしたものが希薄になってくるにしたがって面白くなくなってくるのは必定である。

最初に「鵠沼通信」を読んだ頃は、鵠沼とは漠然と湘南辺りだとしかわからなかった。だが鵠沼というといつも「鵠沼通信」を思い起こすのであった。今回改めて通読して見て久しぶりに読書の醍醐味を味あった。ここに取り上げられた中で、知られた名前や本は一層懐かしく、知られざる名前にもある種の感慨をいだかせる。喜安進太郎のひととなりであり、筆力である。報告したくなった所以である。

なお進太郎の正しい字は王偏に進であるが辞典に入力されてないので、便宜上この字ですました。大漢和辞典(諸橋)には美しい石とある。

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