「霧のロンドン」で知られれ牧野義雄が、1956年10月18日長い漂泊の末、鎌倉の小町の秋月病院(昭和58年廃院)で死去した。最後まで変らぬ友情を続け、病床を見舞ったのが重光 葵であった。隻脚で、多忙な公務の寸暇を縫って老画家の枕頭を訪れるのは、膠漆の交わりの名に値しよう。

牧野義雄は1869年12月25日、豊田市に誕生。幼い頃から、渡辺華山の流れを汲む地元の画家の指導を受け、早くから画才があったことがしられる。小学校高等科を卒業後、代用教員をしたがら西洋式鉛筆画を学ぶ。名古屋英和学校(現在の名古屋学院)で英語を学び、洗礼を受けている。

1893年親類の資金で、家に無断で渡米。最初は英文学研究を志したが、画家になることに変更、レストランの皿洗い等をしながら、ホプキンズ美術学校に4年通う。だが自活しながらの通学なので正味1年にもみたなかった。サンフランシスコ滞在中、一度も公園などに行ったことはなかった。石や煉瓦を投げつけられたり、小石の雨にあたり、つばをかけられたりするのは日常茶飯事であった。或時は路上で絵を描いていた時のことである。34ヶ月働いた賃金で購った絵の道具を、メチャメチャにされたこともあった。

後年、ロンドンで共同生活をしたヨネ野口は、アメリカ東部の都会に行ったので、牧野ほどひどい体験はしなかったという。勿論こうした言語同断の行動は下層階級に限られていたが、それでも日本人に対する態度は好いものではなかったという。今でこそサンフランシスコは人種の坩堝の感があり、人種の偏見は最もすくないと言われているが、牧野義雄が渡米した19世紀末はアジヤやメキシコからの移民も少なかったためであろう。

それだけに滞米4年後、ロンドンの土を踏んだ時にはこれまでと違って、全く差別されなかった。その理由を牧野はあるタバコ屋の主人から次のように説明された。「ご存じの通りわしらは世界中に植民地を持っています。白いの、黄色いの、茶色いの、黒いの皆英国人でさ。」 こんな平等な社会であるから、牧野のようなエトランゼにとっては住みご心地がいいのは当然である。

夏目漱石がイギリスに文部省から派遣されのは、明治33年であった。漱石の場合、生活費は保証されているから、牧野のようなアルバイトをしながらの留学でなかったが大学の授業に馴染めず、イギリス嫌いになって帰国した。イギリスは上流階級と庶民との隔たりが厳然としていること、教室での英語が聞き取れなかったことも起因していたかもしれない。

ほぼ同時期にあって両者のイギリス感がこうも違うことに驚きを感じる。ロンドンの水が、牧野にとって合ったといっても生活苦は滞米中と何ら変わらない。昼間は働き、夜間は美術学校に通って、挿画家の道を歩む。水を飲んで飢えを凌いだり、わずかな電車賃にこと欠いて遠くの距離を歩いて、深夜帰宅したりして苦闘の日々が続く。

18983月から1901年の3月まで、ロンドンの日本海軍造船監督事務所で働く。この事務所が閉鎖された時が帰国の機会でもあった。だが、ロンドンに踏みとどまって絵の道に進む。

その時受け取ったボ−ナスが底をついた頃、イギリスの庶民の家に間借りしていた牧野は、イギリス人の人情に触れる。週給2ポンドで家族6人の家主が、描いた絵を売りに行っても売れない牧野に同情して、牧野に色々面倒をみてくれる。貧窮の家庭から借金をするまで、追いつめられた牧野に対して、女主人はよく涙を浮かべて、「うちに借りがあるなんてことは心配しなくていいのよ。ただ、あなたの苦しい生活をみていると、かわいそうでたまらないの。」、昼時公園の水ですましているのを知って、「食事に帰っていらっしゃい。餓死してしまうわよ。」と言った。東京のかっての下町に繰り広げられていたようなことが、ロンドンの下町にも見られた。古き良き時代のイギリスの時代を語っているが、実際に庶民の懐の中に入ってみて初めて体験することであって、今となっては戦前のイギリス人気質の一端を示す証言でもある。

1903年ヨネ野口を通じてア−サ−ランサム、ロ−レンスビニヨンと知り合う。一時ヨネ野口と共同生活をする。野口と分かれた後、絶望して、自殺を考えたこともあった。こんな折り美術評論家のM.H.スピルマンに見出され、正に暗夜の一灯であり、やっと展望が開けてきた。ロンドンの各紙(誌)のコラムに寄稿するようになる。

1907年に処女作「カラ−オブロンドン」が出版され、続いて「カラ−オブロ−マ」、1908年に「カラ−オブロ−マ」が相次いで出版された。この頃が牧野の一つのピ−クであった。内外の画家のみならず名士との交流が盛んで、1910年にはイタリア旅行をしている。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ロンドンでの写生が不自由になったので、英文学、哲学、歴史、ギリシャ、ロ−マの古典に傾斜。ロンドン大学東洋部で教鞭をとることを要請されたこともあった。

1915年頃 重光 葵と懇意になる。重光 葵は「牧野君に初めてあったのは自分が前回大戦の始まった時にドイツを出て、英国に転任して外交官補としてロンドンにきた時である。、、、、、自分はいまだかって彼の如き記憶力の強い頭脳に出合ったことがない。その精力は絶倫であって、なんでも始めたら、ほとんど寝食を忘れる。毎日12時間以上も勉強して倦まぬ。酒も強ければ又驚くばかりの食欲を今日でも持っている。、、、自分の下宿は牧野のところから程遠からぬ所あった。牧野がその画室で牛肉を買って来てこれを切り、「フアイア−プレイス」の石炭火の上で議論しながら、煮て半煮の飯を食ったのは楽しみであった。、、彼は真に自然人である。その日の食事に事欠くようになっても平然と笑って、哲学を論じ日本主義を賛し、美術に親しむことが出来る偉大な余裕を持っている。自分がロンドンについて最も愉快な日は彼と会う日であった。」

1923年四月にかねてから、恋愛していたフランス人のマリ−ビロンと結婚。10月に渡米、ボストンで個展を開いたが成果は振るわず、妻のアルバイトによって家計は助けられた。1927年に牧野は単身でロンドンに帰り、渡米日記を出版社に送ったが何の反応もなかった。この間ロンドンタイムズ主筆の娘、ベテ−シェパ−ドから、経済的支援を受ける。

1928年 妻マリ−と協議離婚。1934年に、重光 葵、ヨネ野口、森村市衛門、和田英作の肝いりで銀座資生堂画廊にて個展。1936年には日本橋三越で「在英作品展」を開いている。

1939年に当時駐英大使であった重光 葵の大使館に部屋を得て、住む。1940年12月8日に太平洋戦争が開始。ア−サ−ウエリ−等の友人達は帰国せず、イギリスに止まるように言われたが、1942年9月引揚船龍田丸で帰国。

あれほど気に入っていて、多くのイギリス人の友人に恵まれながら、第二の故郷ロンドンに踏みとどまらなかったのはなんであったのか。第一次世界大戦が勃発した後、写生することがかなわぬし、美術品に国民が目を向けなくなって、売れない体験を味わっている。何時まで続くか分からない戦争では、この辺で帰国するのが潮時と思ったのであろう。日本を離れて49年ぶりの帰国である。

東京に着いても、重光が中国に赴任する際同行、1943年に中国から帰国し、日光に重光一家と疎開する。1945年終戦後、鎌倉のモリソン邸に重光一家が移住。重光 葵は1946年4月29日、戦犯で巣鴨拘置所に7年の刑(4年7ケ月で仮出獄)で服役するまでの短い期間、食料は乏しかったが、それでも、重光、夫人、長男、長女、牧野等は一家団欒をしみじみ味わった。牧野も語学の勉強や、スケッチの毎日。重光 葵は言う。「戦後の世相は混乱し、生活は逼迫し、前途は只茫洋たるのみだ。ただ家族全員が気持ちを合わせて勇敢に前進時に量ることのできない人間の喜びと楽しみがある。」と。 重光 は戦争に反対してこれまで外交に携ってきた自信から、戦犯に引っかかるとは思わなかった。意外千万であった。

1952年秋、東京インタ−ナショナルクラブで個展。2日で完売。

その頃牧野は重光 邸から時折逐電。鎌倉鈴木小太郎一家に寄宿して、その長男に絵と油絵を教える。その後北鎌倉に移り、死去する数年前のある日救急車で鎌倉小町の秋月病院に担ぎ込まれた。重光 葵は政界の中心にいて、公私共多忙であったが、入院中の牧野を見舞うことしばしば友情は変わらなかった。晩年の病臥中も生来の端正な面貌と多年の外国生活が身についていて、日本人離れのした雰囲気があったと関係者は言う。

牧野義雄は、家庭的には恵まれなかったが、友人や後援者には恵まれた生涯であった。死去したのは1956年、享年87歳。重光 葵はその翌年の1957年に急死した。享年69歳

重光 一家と牧野義雄にとって材木座のモリソンハウスは思い出の深い仮住まいであった。、今は取り壊され、広大な敷地が分譲住宅地として売りに出され、その一角の石柱だけが、あり日のモリソンハウスの面影を留めている。重光 葵が「夕日楼」と名付けたこのモリソンハウスから、富士の彼方に沈む斜陽の眺めは、言語に絶するような秀景である。