藤沢宿今に伝える=飯盛り女の墓

藤沢の遊行寺から第一国道に沿って300メ−トル程茅ヶ崎方向に行って横に入った所に真宗永勝寺(本町4丁目)がある。ここには飯盛り女の墓が今も残存していて、その昔東海道の街道筋に旅篭屋があった名残を偲ばせている。

飯盛り女と言うのは江戸時代の旅篭屋に雇われた、半ば公認された私娼のことである。宿場女郎とかおじゃれ等と呼称されていた。

街道の往来が頻繁になったのは江戸時代になって、社寺に参拝する風習が盛んになってからである。藤沢は一遍上人開祖の遊行寺の門前町である。広重の浮世絵には遊行寺の門前に旅篭屋が並び、行き交う旅人の様が描かれていて、その賑わいぶりを伝えている。そのため宿泊施設の需要が増えてきた。貴人には本陣、一般の旅人には旅篭屋、素泊まり客には木賃宿が存在するようになった。中でも旅篭屋には一軒で2人までが飯盛り女を雇うことを許されていた。旅人に食事の給仕をすることを業とすると共に旅人の相手をするといった、言わば春をひさぐのが仕事であった。店の前で行き交う客を呼び込むために立つので、旅篭屋の隆盛も少なからずこれらの飯盛り女いかんにかかっていることがあった。

藤沢には室町時代には平拍子が、すでに存在したというからそうした歴史は古い。第一国道の中央に、かって本陣があったその跡に、記念碑が建っているが、その辺りが藤沢の中心であったようである。どこの町でもそうであるが、鉄道が敷設されると、駅前に町の中心が移ってき、近年はバイパスができたりして、かって栄えた通りがさびれている例が多いが、藤沢の場合も例外ではない。

殷賑を極めた街道筋に享和3年頃には旅篭屋が53軒、このうち飯盛り女を抱えていたのが27軒、およそ100人位がいた。その旅篭屋の一つに小松屋があった。永勝寺の飯盛り女の墓はこの小松屋が建てたものである。方3間の墓域に初代小松屋源蔵を中心に39基の高さ60センチの墓石がある。碑面には俗名、出生地、没年が刻され、年代は宝暦11年(1761)に始まり、享和(1801)に及んでいる。駿河地方の出身者が、多いのは初代小松屋源蔵が、小松石が産出する韮山の産であることに由来している。店の貢献度に関係なく、一定の大きさなのが好感もてる。欧米の無名戦士の墓が階級とは無関係に、同じ大きさであるのと軌を一にしている。

元来このような職業の女の場合には無縁になり、投げ込み寺に合葬さられるのが普通である。東京三ノ輪の浄閑寺、新宿の成覚寺は投げ込み寺として知られている。浄閑寺には25000体が埋葬されているという。

2、3の当時人気のあった遊女らの墓石はあっても名もない飯盛り女の墓が、200年余り整然と今も市中の寺にあるのは珍しい。檀家の小松屋が供養を続け、寺、寺の婦人会によって墓域の苔が払われていて、見る者をして感慨を催さずにはおかない。

因みにその小松屋は明治維新に 旅篭屋を廃業して、下駄屋を開業、小松屋の屋号を改め10数年前に喫茶店に転業した。しかし昨年廃業し、事実上江戸初期から続いた自営業に終止符を打った。

 Report from Kamakura