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文学公使」として日米の架け橋=野口米次郎(ヨネ ノグチ)若干21歳で英文の
Seen and Unseen(明界 と幽界)でアメリカの詩壇にデウ”ユ−したヨネ ノグチが、他界したのは疎開先の茨城県結城郡 豊岡村で昭和22年(1947)の7月のことであった。墓は藤沢市本町の常光寺の一隅にある。30センチ立方ほどの四角なみがき石が間をあけて二つ。その上をまたいで積み木細工のように、横60センチ縦30センチ厚さ30センチ程の矩形の石が、横長にのせられてある。碑面には
Yone Noguchi とあるだけ。それだけにうっかりすると、見過ごしてしまう。ここ常光寺にヨネ
ノグチの墓がなに故あるかと言うと、ヨネ ノグチが16歳で親の許可えず、四日市を去って上京し縁続きの常光寺に下宿して勉強していたことがあったことによる。今ではヨネ
ノグチよりもどちらかと言うと、息子のイサム ノグチのほうに知名度があるかもしれない。ヨネ ノグチが死の前日、枕頭に老夫人と子供達を集めて、次のように言った。「実は、おまえたちのまだ会ったことのない異国の兄弟が、私が死の床にあることをUP電で知って、UP支局に託して手紙を寄越しているのだ。死の前に一目私に会いたいと、言ってきている。しかし私は彼が来るまで生きてはいられないであろう。彼は今では母もない 孤独で哀れな子だ。きっと私がいなくなった後お前たちを訪ねて来る日があるであろう。その時は母として兄弟としてあの子を皆で迎えてやってほしい。今まで私は彼の事については少しも語らなかったが、今、このことをお前たちにたのまねばならない時がついにきた。彼の手紙は私の枕の下にある。」ヨネ
ノグチの両眼からは涙があふれ、夫人と子供達もすすりなきながら、死にいく父親にまだ見ぬ異郷の兄を来日の際には暖かく迎えることを誓った。イサム
ノグチは ヨネノグチが20代の渡米中に、アメリカの女性との間に生まれた混血児である。混血児は現在と違って戦中、戦前では偏見がひどく現在では想像もつかないものであった。正式に結婚していなかったから、なおさらであった。イサムノグチが、少年の頃アメリカ人の母親と来日して、すでに帰国中のヨネ ノグチに会いに来たことがあった。その時すでにヨネ ノグチは既婚の身であり、イサムノグチは野口の姓を名乗ることを固く禁じられ、以後も会いに来ないよう厳命されたのである。イサムノグチが最初画家の道を志すよう勧めてくれたのは、当時ニュウ−ヨ−クにいた野口英世であった。最初、自分はアメリカ人でもないし、そうかと言って日本人でもないと苦悩の時代を過ごしたが、やがて日本の伝統のかけがえない美に着目し、彫刻を通じてアメリカ有数の彫刻家に成長した。
ヨネ
ノグチは息子の成功を見ずに他界したが、親子二代に亙って日米の文化の架け橋になったことは珍しい。ヨネノグチは「二重国籍者の詩」を書いているように、自らアイデンテイテイに苦悩した。だがイサムノグチも同じような悩みを長く持ち続けた。ヨネノグチは10年余の滞米生活と英語で詩を書いて母国日本でより、英米で逸早く認められたためであり、イサムノグチはハ−フという人種的なことから、同じ悩みを抱いていた。萩原朔太郎はかって次のように述べたことがある。「要するに野口米次郎は、全体として完全は外国人である。氏が日本に国籍を有するのは、あたかも外国生まれの母国観光団が、母国の言語も習慣も知ることなしに、しかも純粋の日本人として街上を歩いているようなものである。しかるにこれは「我々の側の観察」であって、西洋人の観察は全然これに反対している。西洋人の見るところによれば、野口氏は日本人の代表であり、その容貌、その芸術、その思想、共に純粋に日本的なものを象徴していると思惟されている。」
野口米次郎は明治8年(1875)に愛知県海部郡津島町にうまれた。8、9歳で初めて英語を学んでいる。14歳の時叔父の家にやられ、外人からスマイルの「自助論」及び「ユニオン第四読本」を学んだ。明治22年(1889)に愛知県立中学校に入学。明治23年(1890)に上京し、神田の成立学会(私立中学)に入学し、マコ−レの「ヘスチング」伝の講義を受けて、文学へ目覚めた。その後慶応大学で、経済の歴史を学んだ。志賀重昂の家に寄寓していた時、偶々来客の菅原
伝(後の政友会幹部)が北米事情を語っていたのを聞いた。福沢諭吉が、「人生は一六勝負のようなものだ。」というのを信じて、野口米次郎は渡米を決意する。時に米次郎19歳明治26年(1893)の11月のことである。
話に聞くと行くとではおお違い、着いたサンフランシスコでは日本画の行商をしたり、予備校に学僕として月謝を免除して貰ったりして勉強する。この頃エドガ−
アランポの詩を読む。翌年に邦字紙の配達や編集に携わる。田舎の旅館で御勝手の手伝人として、皿を洗ったりして、ソ−ダ−で手がふやけたり、膨れたりした。明治29年(1896)年に、詩人ウオ−キン
ミラ−が、下僕を探しているという情報を知って、オ−クランドの山荘に詩人を訪ねたのはそんな時であった。初めて見たミラ−の山荘について野口米次郎は次のように回想している。「、、、想像以上にみすぼらしい山腹のあばら屋であった。山腹といっても、その頃には一本の樹木さえない小石がでこぼこした禿山にすぎなかった。門らしいものもなく、家の前面にぼぼうと生えている雑草の上へ狭い板がならべて橋が作ってある。、、、、、、、」
野口米次郎はミラ−に気に入られ、生活を四年半した。ミラ−は鳥と共に目覚め、鳥と共に寝ると言った原始的生活をしていた。野口米次郎は雑事の時間の他はミラ−の詩集を夜、蝋燭をともして熱心に読んだ。ミラ−は口癖のように「本から得た知識などは何の役にも立たない。自分の目で自然を見つめるように。」とアドバイスした。
野口米次郎は日本から携えて来た芭蕉の句集をひもとき、ポ−の詩やホイットマンの詩に触発されて、カルフォルニヤの美しい自然に啓示を得て書き上げたのが
"Seen and Unseen"である。野口米次郎はこの一巻の詩集を自費出版することによって、アメリカの詩壇に彗星のごとく登場した。その意味で野口米次郎はこの分野の嚆矢と言ってよい。英語のニュウアンスを体得したことは、なんといってもミラ−と共同生活を共にしたことが大いに感化されたことによる。ミラ−の家を出て、徒歩でヨセミテに旅行する。明治32年(1899)にシカゴに行き、「イブニング
ポスト」誌に寄稿し、滞在数ヶ月後ニュウ−ヨ−クに移住。労働者となったり、給仕人となってアメリカ人の家庭に入った。明治36年(1902)28歳の時、イギリスに渡ることを決意する。ロンドンで16ペ−ジの詩集
"From the Eastern Sea"を発表。装丁は牧野義男であった。これを機に二人は一層親しくなった。この詩集によって、イギリスの詩壇で認知されただけでなく、英語圏で広くひられるようになった。ウイリアム ロゼッテやア−サ−シモンズの知遇を得た。明治37年(1904)に帰米し、日露戦争が勃発すると、アメリカの新聞、雑誌に寄稿を依頼される。第三詩集
"The Pilgrimages"を最後に日本に11年ぶりに帰国する。帰国後、"The American Diary of Japanese Girl", [帰朝の日]、「英米の13年」を刊行する。明治39年(1906)に慶応大学の英文学の教授になり、この年に結婚する。明治45年(1912)にオックスフォ−ド大学で「日本の詩歌論」について講演する。日英両文で詩歌、随筆
、評伝 、解説を多く書いていたことから、大正7年(1918)にアメリカ、インドに招聘されて、日本の芸術の精神を講演する。戦前の日本で、英語で日本の芸術を精力的に海外で講演し宣伝した文学者は、新渡戸稲造、岡倉天心など二三の例を除いて極めてすくない。文学というジャンルに限るとヨネヨグチは上記の人々に匹敵する。その意味からも文学公使と言ってよい。
戦争中に国家に協力する言動があったとして、戦後はヨネノグチの名が消えて、忘れられていた時期があった。戦時中、疎開中に東京中野の自宅が空襲で焼失し、疎開先の茨城の結城で死去したことは不幸なことであった。悔恨の情を告白する機会もなく、戦後日本の再生に民主主義の理念を生かす時間を待たずして世を去ったことは惜しんであまりある。晩年周囲の人に「アメリカをどうしても憎めないにだよ。」ともらしていた。
享年73歳。