サイレント映画から日本映画の黄金時代まで=小津安ニ郎

鎌倉の浄智寺脇の葛原岡神社に通ずる小径を、100メ−トル程行った所の左手に洞門がある。その洞門をくぐって坂道を上った所が、小津安ニ郎終焉の地である。[大酔して帰る君を送ったり、君の家で酔ってしまった私について来たりするたびに腕をからみあい、二人ともひょろけながら幾度あがったり、おりたりしたか知れない。君が棺の中の人となって帰って来た晩、私は門前で待ちうけ、棺あとに従って、あの坂道を登った。生死の問題についても、そうとう老けた考えを持っている筈の私も、あのでこぼこだらけの坂道に足をはこぶや否や潸然たる落涙を禁めかねた。]と里見惇 が追悼文で書いたあの坂道である。

初めてこの家を見た時、気に入って購入することをすぐ決めたと言うこの日本家屋は、小津の趣味にぴったりであった。持ち主の小倉遊亀も快諾、小津安ニ郎の最初で最後の家であった。

小津安ニ郎がガンで60歳の還暦の日に他界して、35年今なおその人気は衰えず、繰り返しその作品がテレビや世界各地で回顧上映され、出版物もあとを絶たない。小津が死去した当時、日本映画界は新旧交代の時期で、ヌ−ベルバ−グと称してフランスにならって、新進の監督が台頭して小津ら 戦前からの監督は古いと言って会社も一部の観客を除いて顧みようとしない時期であった。

小津は「豆腐屋はがんもどききり作れない。」と自嘲気味によく言っていたものである。当時若かった監督や批評家も小津の年齢に近くなってきて、小津映画の真価がわかり,再評価をしている。

小津安ニ郎の映画はサイレント映画の時代から日本の市井の生活をリアルに一貫して撮った監督も珍しい。「生まれてはみたけれど」(1932)は子供の眼を通して、家庭と会社での父親の豹変する姿を描いて、それまでの娯楽性の日本映画とは違っていただけに、映画会社は期待しなかった。だが、映画評論家から、絶賛されその年のベストテン第一位に選ばれた。インテリには受けても興行収入の面で小津映画は必ずしもよくなく、会社を喜ばすような非個性的映画はつくる事を潔しとしなかったのである。人情物、喜八物「出来こころ」(1935)「浮草物語」(1935)とベストテン第一位、戦前の小津のピ−クである。

第二次世界大戦中に中支、1943年にシンガポ−ルに報道部員として出征、この時に洋画の名作を見たことが、その後の映画作りに影響を与えた。戦後、誰もが早く帰国したがっていた時、小津は最後でいいと言って、先を譲った。この事は小津が独身であったこともあるが、やはりその人となりを表しているといえよう。

戦後第一作が「長屋紳士録」は空襲で廃虚となった東京の下町、食うや食わずの時代に戦争孤児を拾ってくる話、人心が荒廃している時に人情が今なお残っている悲喜劇。1949年に「晩春」を撮る。やもめ暮らしの老教授(笠 智衆)が一人娘を嫁がせると言った複雑な心境を表現した映画、完成度が高くベストテン第一位。日本の伝統が否定され、アメリカ文化がとうとうと入ってくる時代に、鎌倉を舞台に能、茶の湯が取り入れられたりして、時代の風潮に迎合しない一面を見せた。映画を通じて、日本文化を表現する点においてユニ−クであった。

1951年に冒頭に紹介した北鎌倉の家に移る。生涯独身であった小津安ニ郎は母親と一緒に暮らす。こたつに入って親子二人で談笑している写真があるが、小津家の至福の時代をうかがわせる。この年[麦秋]がまたベストテン第一位に選ばれた。由比ガ浜の海岸から始まるこの映画は、学者(菅井一郎)を父に持ち、貿易会社の重役の秘書を勤める女性(原 節子)が相次ぐ縁談と期待をよそに地方の病院に赴任する 貧しいが真面目な医者(日本柳 寛)に嫁ぐ物語、日本の中流家庭の美しい家族関係を表現した名作。この中で医者の母親(杉村春子)が、ひょうたんからコマがでた信じられないような結婚話に喜ぶ印象的シ−ンがある。

1953年には「東京物語」を完成。小津安ニ郎の代表作であるばかりでなく、戦後のホ−ムドラマの原形をなすものである。年老いた夫婦(笠 智衆、東山千栄子)が尾道から東京の息子や娘の家を訪れる。だがそこにはおのおの家庭の事情があって、上京以前に期待していた程のものでなかった。一番親身に世話をしてくれたのは、戦死した息子の嫁(原 節子)であった。期待ほどでなかったが、それでもこうして東京見物も出来、なんとか生活している子供たちみて、自分たちはいいほうだと、悟って尾道に帰る。帰ってまもなく老妻が死去する。年老いた父親は末娘(香川京子)と単調な日常がまた続く。この映画はベストテン第ニ位であった。しかし年が経るにつれて、評価がたかまり、イギリスの第一回サザランド賞に選ばれた。その後ヨ−ロッパ各地で、小津作品が専門家の間で高い評価を得るにいたった。何年か前にイギリスの監督、評論家のアンケ−トで、世界のベストテンの中にランクされたことがあった。

四半世紀前、日本映画祭においてニュヨ−クでこの「東京物語」が上映されたことがあった。最初のうちは、観客は足を投げ出して見ていたが、次第に身につまされたのか、最後は啜り泣きが会場のあちこちから聞こえてきた。そして観客のなかには、日本に行ってみたいなどと言う人もいたと言う。「東京物語」が生まれる背景には、「明日は来たらず」(1937)と言うアメリカ映画があった。アメリカの経済生活が個人的家庭生活を破壊する原因になっているという中産階級の老夫婦の悲劇を描いたものである。小津はこの映画を見ていないが、野田高悟が見ていてこれがヒントになったと語っている。だがここには独立した小津の世界が描出されていて、日本映画の古典と言っていい。

この野田高悟との付き合いは古く、小津安ニ郎第一回監督作品「懺悔の刃」(1927)以来である。特に戦後は「晩春」いらい遺作の「秋刀魚の味」にいたる12本すべてが二人共同でシナリオを書いている。台詞の言葉尻を「わ」にするか「よ」にするかまで二人の呼吸が合っていたと小津は回想した。

またカメラマンも戦前は茂原英雄、戦後はその助手の厚田雄春でこの二人を信じきっていた。小津は ト−キ−に踏み切るのが遅く、茂原が独自の研究を待っていた事もあって、1936年に初めてト−キ作品「一人息子」を撮る。茂原の夫人、飯田蝶子が主演している。飯田の代表作の一つである。

小津作品には出る出演者は決まっていて、戦前では斎藤達雄、高田 稔 坂本 武、岡田時彦、戦後では佐分利 信 、杉村春子、笠 智衆、原 節子らが常連であった。戦前戦後を通しては田中絹代である。原 節子は小津安ニ郎の作品によって、その美貌が遺憾無く発揮され、笠 智衆との名コンビで、戦後における日本映画の代表的女優の一人になった。

公私ともに小津安ニ郎と親しかったのは佐田啓二で、小津安ニ郎がガンで入院していた時に看護した日記が残されているが、肉親も及ばない献身ぶりであった。その佐田啓二も小津が死去して、8カ月後に輪禍で世を去った。そして二人の墓は円覚寺の境内を挟んで山腹に向かい合ってある。

もう一人公私共に懇意にしていた人に、山内静夫(里見 惇の令息)がいる。松竹のプロデュ−サ−で小津と「お早よう」以来、長年仕事を共にしてきたことに加えて、里見 惇との関係もあって小津が亡くなるまで親交があった。小津死後も回忌ごとに 墓に御塔婆が立てられていることからも、生前の関係が偲ばれておくゆかしい。

小津安ニ郎は生涯独身であった。酒を愛し、諧謔を好み、人生を楽しんだ人であった。日本における、庶民の生活の軌跡、変化を撮り続けた映画監督であった。

今日の日本の映画界を取り巻く不振の環境を知らずに、世を去ったことはある意味では仕合わせであったかも知れない。小津安ニ郎が生前通い慣れた浄智寺脇の小径は、今も変わらない。四月には桜、目に染みる新緑、秋の夕暮れ、雪景色 四季折々いい。