似顔絵漫画の筆塚=清水 こん

 鎌倉二階堂にある荏柄神社の本殿横の一隅に、筆塚と刻まれた自然石がどっかりと据えられている。数十年の風雨に晒されているので、そのそばに近寄らなければ判然としない。

 この筆塚は、戦後朝日新聞に連載されていた似顔絵漫画で、一躍名声を博した清水 こんが、その晩年長く使い慣れた筆を納めたことに由来する。

 戦後、鎌倉由比ガ浜通りの古本屋の店頭に、ある画家の絵筆が十数本売りに出ていた。何事によらず、まとめて買う習癖のある清水こんは、その十数本全部を買って使ってみたが、そのうちのI本の筆が書き易く、その後はこの筆を愛用して、例のかっぱの絵や似顔絵を書き続けた。そしてその筆を感謝の気持をこめて筆塚に奉納したのである。昭和46年2月のことである。

 清水 こんは、小学校にあがる前に両親と死別したため、一人の弟は叔父に引きとられ、清水 こんは祖母によって成人した。祖父は酒豪で祖先の遺した田地田畑を蕩尽し、清水 こんが長崎の商業学校の2年の頃は、大方借金のかたに取られてしまっていて、小さな家作からあがる家賃で、細々と暮らしていた。

 清水 こんは、学校の昼時の弁当だけではもの足りなくて、小使室で売っているクリ−ムパンやあんぱんが食べたくて、祖母から一日10銭の小遣いをせしめるのに一苦労だった。

 家の家計が潤沢でないことを承知しながらも、食いたい盛りの清水 こんは、時には祖母をうらんで「ああたはケチじゃ」となじることがあった。すると祖母は怒って

「この親不孝もんが何ば言いよるか。うちはよそ様と異うて働くもんの居らんけんな。十六にもなって、その位のことのわからんじゃろか。情なか」

 と言って涙ぐんだ。

 あんぱん代10銭の出すのに胸算用する祖母に、まして東京の美術学校に進学したいという清水 こんの年来の希望を嘆願したところで、叶えられないことは目に見えている。そこで商業学校を卒業すると、市内の大きな呉服屋の番頭となって住み込んだ。

 月に一回の公休日には祖母のご機嫌伺いに帰宅したが、普段の日でも、自転車に乗って店用で外出した折りなど、ちょっと立寄ることがあった。 

 祖母は腰を二つに折って仏壇や神棚の榊や水を取りかえながら始終、南無阿弥陀仏を低く唱えて、清水 こんの訪れたことにも気づかなかった。

 清水 こんは、子どもの頃から絵をかくことが大好きで、商業学校2年の時に、岡本一平の漫画に憧れて、その模倣をしたくらいだから、呉服屋の番頭という職業には向いていなかった。

 こんなことがあった。つり銭を客に少なく渡したあと気がついて追っかけて行き、不足分を追加してやると、こんどは余計にやり過ぎる。

 そうかと思うと一匹の反物を二反に断つとき、どういう間違いか途方もないところを切って、片方は使い物にならなくして、店主から弁償を迫られる。

 それに年来の習性である遅寝遅起だものだから、5ヶ月で辞めるるハメになった。

 祖母はそんな事情で辞めた清水 こんのことを近所にみっともないと言ってベソをかいた。そしては仏壇の前に坐って南無阿弥陀仏を唱えて、先祖代代に対して孫のずぼらを報告して残念がった。

 丁度その頃末の叔母が離縁して、当分同居することになった。これで清水 こんの徒食を嘆ずる人が一人増えた。

 そんな折り、明治大学の文芸科に籍をおいている文学志望の竹馬の友の鐘ケ江から手紙が来た。その手紙に「凡て生物には向日性という性格があって明るく賑やかな方へ方へと向いたがるものだ。だから君が上京したがるのは当然だ」と言う意味のことが認められていた。

 清水 こんはこの手紙によって、出奔する度胸がついた。ある日祖母と叔母のいない留守を狙って、祖母が畳の下に隠していた二三十円のトラの子を失敬し、書き置きを残して浴衣のまま飄然と家を出た。

 汽車が動き出して3時間ばかり経った頃が最も断腸の思いにさいなまれた。あとできいたことだが、その夜帰宅した祖母が叔母の読み上げる置き手紙に卒倒したという。

 京橋の新聞販売店に住み込みで配達夫になったのであるが、ドンゴロスの帯紐でしばって左肩にひっかける200軒分の新聞の重量は大変なもので、長身痩躯には身に余る荷物であった。

 左の方に荷物を持つと上体は自然右に傾く。それを支えようとして左脚はどうしても膝小僧を中心に少々内側へねじれ加減となる。そこに無理が生じて関節の骨に不当の熱がすり起る。はじめは微かに痛かったのが5日も経つとびっこを曳くほどの疼痛に進み、やがて7日目には半歩の歩行すらも出来なくなった。そこでその日限りに配達夫をやめた。

 明大の文芸科に行っていた鐘ケ江と二人で3畳の間借りをして自炊生活を始めた。鐘ケ江はそのうち仕送りも来たり、来なかったりしはじめると、一夜、床の中で眼をむいて考えぬいた挙句、夜店で行人の手相を観る商売を思い付いた。清水こんは街頭似顔絵描きになることにした。場所は上野の広小路。浅草よりも銀座よりもそこがもっとも二人の間借りしている千駄木町に近かった。

 好事魔多しで、鐘ケ江の西洋手相観が繁盛すると旧式の手相観の仲間が、繁盛しないので、場所を移してくれといわれたり、似顔絵の客が多くつくとそこは、交通違反の地域で立退かねばならなかったりして思うように商売が出来なかった。

 その後神楽坂のはずれの薄暗いところで、こんど鐘ケ江は十銭均一の新本屋を開業した。清水 こんの方は場所を移してから一ヶ月たったが一人のお客もつかなかった。自然友人の本の売り上げに頼って食いつなぐという仕業になったけれど、売れるかたっぱしから米代に変ってしまうので仕入れは到底おぼつかない。 

 そんなある日、清水 こんの祖母から、小為替で5円の送金があった。20歳やそこらの世間知らずの若者が、向こう見ずに上京したのだから、困らぬ道理があるまいと文盲ながら老人の常識によって判断して、叔母の制するのもきかず送ったものらしかった。翌月の晦日に又小為替で5円送ってきた。

 友人の方も時折送金があり、どちらかを間代にあてて片方の資力で友人の商品を入荷した。その入荷方法は大小の風呂敷を二三枚持って、ダンピングの新本を仕入れに行って、10銭売りのところを平均7銭5厘から8銭ほどで三四十冊買い込んで、それを風呂敷包にして、肩にひっかついで来て夜店に並べるまでのことである。

 そんなある日、鐘ケ江が級友の一人を伴って帰宅した。頭の毛の薄い六角顔の、度の強い近視の眼鏡をかけた、図太い声をだす、そのくせ二十を幾つも出ていない頼もしそうな男である。その男の名は桔梗五郎。

 五郎の兄はさる有名な雑誌社の編集主任として勤めているから、その気なら挿し絵の見本でも描いてみたらどうか。兄に取り付いてあげるからという。その兄というのが桔梗利一で、清水 こんの才能を発掘した名編集者である。

 当時の清水 こんは、東京美術学校に憧れて上京したもののその頃は明日の米塩の資に事欠くありさまだった。今晩客がつかないでも明日のことは何ともいえない。だから明日はどうぞよい天気になってくれ、そうしていくらかでも実入りがあったら、そいつを貯めて、祖母のお寺詣りの賽銭のたしにでも一寸は送金してみたいものだと思っていた。

 美校の洋画科はおろか、月謝のいらない師範科にはいることさえ考えるいとまの無い時であった。つまり画家たらん宿願を完全にあきらめきっていたわけだ。それでは一生夜店商人で果てるつもりかというとそうでもない。それでは一体何になる考えだと自問してみてもどうしても算術のようにテキパキと答えは出てくるものではなかった。しかしどっちに転んでも絵描きにはなれぬことだけは確かだろうと覚悟していた。

 ところが桔梗利一から挿し絵の注文が来たのは一ヶ月あとだったろうか。出来上がり二寸四方ばかりのコマ絵を、僅か四枚か五枚描くのに、完全な徹夜をして、それでもまだ気に入らぬままに渡して、不安な思いで半月も過したある朝、嵩のある封筒が届いた。中から油の香りも生々しい一冊の雑誌が出てきた。

 挿し絵は、吉川英治が直木三十五の奇態な生活振りを随筆に書かれたもので、当然文中の人物の似顔絵が挿し絵の主眼になっていた。印刷された自分の絵を見るのはこれが始めなので、よろこびの余り蒲団を飛び出すや否や公衆電話に飛び込んで

「どうもわざわざお送り下さいまして、お礼の申上げようもございません」

 という意味のことを、吃りながら大声に言った。すると翌月も注文が来た。また自分の絵の載っている雑誌が送達された。雑誌は執筆者への礼儀として送り届けるものだということをあとで知った。

 それから毎月、雑誌の校正が始まると印刷所に詰めて、穴埋めのカットや漫画を描いた。二年続いた。挿し絵の吉田貫三郎と印刷所で知り合う時分には清水 こんの似顔絵もどこやら体を成してきた。新漫画派集団が結成されてまだいくらも経たない頃で、貫三郎が、どうだ自分らの集団に加わらないかと言ってくれたので加入した。

 加入して一週間めにメンバ−で九州旅行をした。その折りに郷里に立寄った。

 こんにちはと言って門口に立った清水 こんを見た祖母はびっくりして、やがてシクシク泣き出した。清水 こんは自分の商売が曲がりなりにも絵描きであることを説明しかねたが、まさか乞食しているとも言えなかったので、漫画集団というところに勤めているというふうに誤魔化した。

 旅程の都合で、一晩だけ祖母と一緒に寝た。別れるとき、祖母は腰を伸ばして門口から見送ってくれた。伸ばした腰はシャンと真っ直ぐになったが、代りに膝が曲がってやはりくの字になっていた。祖母の泣き方は78歳の女の児のように思われた。

 ある雑誌に半年余り小説風の漫画物語が映画になって、上映料がすこし貰えた時、二度目の帰郷をした。その映画が郷里の映画館にかかると、祖母は叔母の手に曳かれて見に行った。穴のあくほどスクリ−ンを見つめていたが、映画の意味するところは飲み込めなかった。それでも満足だったらしい。

 この時分から祖母へ毎月仕送りが出きるようになった。

戦争中、南支派遣軍報道部嘱託漫画家の任務が満了して2年ぶりで帰国し、真っ先に郷里の祖母を見舞った。祖母は90に近く、頭はすっかり白く、もの忘れが早くなって、清水 こんが広東の報道部にどのくらい働いたものか、何遍教えても直ぐ聞き質した。こんどはもう腰は伸びなかったので、座敷の中に手をついて、ご機嫌ようと挨拶して別れた。祖母は殆ど手放しで泣いていた。

 その翌年の春、祖母危篤の電報を受け取ると、結婚まもない夫人を伴って帰郷した。

 祖母は便所に立つとき敷居に躓いて転げる拍子にしたたか腰をうったのがもとだときいて、もうこれが最後の対面かと内心に期した。

ところが一日増しに盛り返して3ヶ月も経つた頃には唄までうたうような元気に返った。清水夫婦はその健在さを見届けて上京したが、もういくら清水こんが、夫人を紹介しても、あい、これは美しか人じゃのうと言ったあと、5秒も経たぬうちにもう忘れて、この人は誰じゃったろうかのと聞いた。それどころでない。清水 こんの顔を、マジマジと見上げて

「ああたは、どこのあんしゃまじゃたかのう」と不思議そうに微笑する。泣くと78歳の女児みたように思われたのが、もう泣くことも忘れて、今は笑うと赤児にひとしくなっていた。そして寿命のとことんまで悠々と生き、91歳でこの世を去った。

 なお清水こんは、昭和16年から33年まで鎌倉材木座、小町に居住し、34年に東京芝高輪の巌谷小波の旧居に移転しそこで亡くなった。享年62