西洋野菜、果物の栽培、普及に努めた津田 仙

 明治41年の4月末、一人の老人が品川駅から横須賀線に乗った。汽車は終点の横須賀に着き、乗客はすべて降りていったが、痩身白髪の老人はいつまでも列車の片隅で寝たままであった。その老人とは津田 仙、71才の最期の姿であった。

 津田 仙は波乱に富んだ人生の晩年、隠遁していた鎌倉の松葉ガ谷の別邸に帰る途中の椿事であつた。

 津田 仙は明治時代の農業改良者であり、キリスト教伝道者であるが、津田梅子の父親でもある。梅子の前に長女がいたから、次は男子と勝手に決めていて梅子が生まれても見向きもせず、そのまま家を飛び出しその日は帰宅しなかったという。

 梅子が誕生した1864年頃は攘夷論の絶頂期で、仙は外国奉行に籍を置いていた。老中安藤対馬守が、坂下門外で暴徒に襲撃されたり(1862、正月)、同年8月には生麦事件など攘夷派の浪士らによる暗殺事件が頻発するなど世情騒然たる時代の真っ只中であった。外国貿易者、洋学者らは攘夷派から標的にされて、不安の日々を送っていた。

 洋学者の手塚律蔵は日比谷の堀に飛び込んで、一難を逃れたり、東条礼三は浪人に踏み込まれて裏口から逃亡したと言った有様であった。そんな時代であったから、津田 仙にしても、油断のならない日々であった。

 明治維新により、幕府が没落すると、津田 仙はそれまでの官職をさり、築地のホテル館に務めることになった。

 築地のホテル館はそのころ都下の随一の洋風旅館で、貿易所も兼ねていた。牛込から向島に引越して、馬で築地に通っていた。

 当時、ホテル館では外人向けの野菜の入手が困難であった。客用の野菜には輸入の缶詰を使っていたが、客は満足しなかった。それまでの我が国の農業は穀類が主であったから、勿論、国内に新鮮な野菜や果物はあろう筈がなかった。そこで思い付いたのが、西洋野菜の栽培であった。

 徳川幕府の瓦解で、旧江戸の諸藩の旗本らは続々国に帰っていくので、東京の寂れようは目を覆うばかりであった。そんな時であったから、地価は最も下落した時であった。

 津田 仙は麻布本村町に若干の土地を購入して、米国から野菜種を取り寄せ、畑にまいた。向島から三田の綱坂下に移転。北海道開拓使の嘱託の傍ら西洋野菜の栽培に専念した。

 初めて試験畑にアスパラガスの種をまき付けたが、生えて出てきたのは、アスパラガスとは似ても似付かぬものであった。そこでアメリカ公使館に行き、きいても答えられる者は誰一人いなかった。辞書を片手に調べて栽培の誤りに気づきその後、見事なアスパラガスの栽培に成功し望外の収入を得た。

 リンゴを移植した時のことである。横浜の米国領事がカルホルニヤからリンゴの苗木三株を取り寄せたことを聞き知って、苗木を譲ってくれるよう申し込んだところ、領事は「日本へ移植する目的で取り寄せたのだから、折角試植して下さい」と快諾した。暖地に適する黄楕円リンゴはこうして日本に栽培された。オランダいちごも試植し、大量に収穫出来たが、そのころの日本人は蛇いちごといってきらったので、築地や横浜の居留地でなんとか捌いた。

 この栽培事業が軌道に乗り、地所も次第に買い広めて、数年のうちに広大な農園に仕立てた。梅子はいちごやグ−スベリ−などの熟するころになると、毎日農園に出掛けていった。こうした時期に梅子の米国女子留学生の話が浮上したのである。

 津田 仙が学農社農学校を開校したのは、札幌農学校(現北海道大学)の創立の半年前であった。北海道開拓長官、黒田清隆の肝いりで、今後の日本の殖産の振興の中心とし札幌農学校を創立し、アメリカから、クラ−クなどの農業学者を招聘した。津田 仙も関係するようになる。

 逸早く米国の事情に精通していた黒田は、米国の女性の地位が高いのに着目し、日本の女性も世界の先進国なみに向上することを願っていた。その点ではイギリス人と結婚していた森 有礼とも意見を同じくした。

 明治4年(1871)に新政府関係者というよりは旧幕府の子女が選抜された。その5人のうち一番年少者が、数年8才の津田梅子であった。

10年間のアメリカ留学を終えて帰国してすぐに、梅子は父親仙に伴われて、黒田清輝の所に挨拶に参上する。清輝は喜んで大変な饗応した。梅子は日本語を満足に喋れなかったので仙が通訳を買って出た。

「維新の後、士職をなげうち、自ら進んで武士の賤しめたる農の業に身を投じ、以って我が国農業改良の先駆たらんことを覚悟せり。爾来数十年回顧すれば、失敗多くして成績にとぼしきを嘆かず。されど今日に及んで、わが国農業の進歩と、農民の発達とを見るを得たるは、即ち予が少年の志の、他をまって大に成れるものにして、老余の満足何者かこれに如かんや」と回顧している。

 津田 仙は当時の穀物中心の農業から西洋野菜、果樹にに転換するよう農民に呼びかけた。その方法として1876年に麻布に学農社を開校し「農業雑誌」を発刊した。

この「農業雑誌」の編集者であった巌本善治は、「文学界」を発刊し、島崎藤村や北村透谷らの作品の発表舞台となる。

 「農業雑誌」の発行部数は3000から10000部という。普通の専門農業記事の外に、毎号米国の農事報告などをも転載して、読者に重宝がられた。最初は月刊であったが、月2回となり、3回となった。この雑誌が、いかに多くの農民達に愛読されていたかがわかる。

 津田 仙は天保8年(1837)に佐倉藩士、小島良親の子として生まれ、後に幕府御宝蔵番、津田榮七の養子になり、初と結ばれる。若い頃から蘭学、英学を学び幕府時代に和算家の小野友五郎の随員として渡米、わずか半年であったが、強烈な影響と感動を得て帰国した。そして一生の進路が定まった。新政府時代にはウイ−ン万国博覧会(1873)に赴き、当時の世界情勢を具に視察して、将来の日本の農業の方向ずけをすることになる。

 そのウイ−ン博覧会の折りに、各国語に訳された聖書を目の当たりして2年後に洗礼を受け、キリスト教徒として伝導、教会の活動に積極的協力をした。生来金銭的に淡白で、教育や公共の事業に分を越えた寄付をする清廉潔白な性格であった。

 津田 仙は明治10年岸田吟香らと共に楽善会を興し、盲唖教育の必要を主唱し、ついに訓盲院の設立した。これが後の東京盲唖学校の濫觴である。また夙に飲酒、喫煙の身体に害があるとして、禁酒、禁煙を実行し、他にも勧めた。シカゴ博覧会で煙管を収集して、これを半鐘に改鋳して出品した。

 津田 仙は稀にみる事業家であった。創業の才に恵まれながら、守成の能力に欠いていたため、一時栄えた農学校も廃校のやむなきに至った。性格的に過激であり、妻の初も悩まされたが、晩年に隠棲していた鎌倉の松葉ガ谷の別荘で、雨の降る日に妻の爪弾を楽しんだり、秋の夜長に二人で碁盤を囲むような心境に変わっていた。

 仙の他界した翌年の8月、初も同じく鎌倉で亡くなった。それから20年後に、長らく静養していた津田梅子も海の見えるこの別荘で、64年の生涯を閉じた。